WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

いのちの食べかた

2008年01月18日 | 映画(西部劇など)

 以前、私はバイオテクノロジー関連の職場にいたので、その方面の話題はついつい気になる。10年位前、モンサントがバイオベンチャーから買い取った特許「ターミネータージーン」で農産物支配を目論んだことがあった。利潤第一の市場経済の下では当然の戦略ではあるが、そうしたイデオロギーによってバイオをはじめとした技術がどのように利用されうるのかということを、古くは原爆や最近では血液製剤の例をひくまでもなく、思い知らされたものであった。

 アメリカでは、クローン牛、豚、山羊などを食用に供することをFDAが承認することになったそうだ。もっとも、アメリカでも消費者の間ではクローン家畜の安全性に対する不安は根強いらしいから、実際に販売されるかどうかについてはまだまだ紆余曲折があるだろうと予測されている。そのくせBS牛や遺伝子組み換え大豆、トウモロコシを買えと日本には押し付けてくるのだから勝手なものだが。
 クローン家畜は、すでにオーストラリアやニュージーランドでは認可されているが、遺伝子組換えのように表示の義務はないから、日本に入ってきているオーストラリア肉がクローンかどうかは日本の消費者には分からない。アメリカでも「表示義務はない」というのがFDAの今のところの見解だ。

 南の海では、実は自分達が目立つことにしか興味がない、おバカな「環境保護?」団体が「鯨を取るな」とTVバラエティーのようなおかしなパフォーマンスをやっていた。あんた達は「いのちを食べること」の重みについて、もっと真剣に考えてからものを言うべきだ。
 日ごろは何も考えずそこらに用意された普通のものを飽食しながら、時々遊び半分にもっともらしい理屈を付けて「ゲテモノ食い」や「珍味食い」をして喜んでいる、アンタもだよ。

 映画「いのちの食べかた」を観てきた。
 私達が日頃食べている食品素材は、どのような過程を経て私達の口に入るのか、ドキュメンタリーで淡々と追った作品だ。映画自体からは直接的なメッセージが発せられるわけではない。暗黙に発せられるメッセージは「これを見てあなたは何を感じ考えますか」というわけだ。
 しかし、その問いかけはずっしりと重い。ブログなどでこの映画に触れているものの中には、あまりの重さに耐え切れず、要旨「そんなこと言ったって食べなきゃ生きていけないんだからしょうがないだろう」と開き直っているものも多い。このブログでも書いたが、私自身も、田舎で「駆除?」された鹿や猪の肉を食したり、分けてもらって燻製を作ったりしている。ご多分にもれず自分で捌くわけでもなく..。反省(._.)ノ。

 「スプラッター映画」というジャンルがある(ジャンルとして一般認知されているのかは知らないが)。「食人帝国」「死霊のはらわた」「サンゲリア」...何本か見たことがある。実は、最初にこの映画のタイトルを見たときは、スプラッターものかと思った。しかし違った。ジャンルとしてはドキュメンタリーで、映像的にいわゆる「これでもか」的なグロさは全くない。見方によってはむしろ「詩情あふれる作品」と受け取れないこともないほどだ。しかし、日常の食事、特に肉食において、その出所に少しでも思いをはせたことのある人なら、この映画になんとも言えない居心地の悪さを感じることだろう。私もそうだった。
 この映画を見終わった後には、スプラッターものを見た後の「怖い、気持ち悪いけれど所詮はありえない、私には関係ない」的な安心感はない。見たくなかった、関わりたくなかった現実、事実を突きつけられたときの、あの居心地の悪さがつきまとう。「しょうがないじゃん」「♪そんなの関係ねえ」で逃げるのは簡単だ。しかし、「食の安全」「自給率」「飽食と飢餓の格差世界」「世界の人口増加と途上国の「発展」、それに伴う食糧需要の爆発的増加」など、食にまつわる問題噴出の今日、この映画を見て考えなければならないことはたくさんある。

 最近、食の(≒食糧)問題では私自身も考えさせられることは多いが、政治的な問題なんかよりもプリミティブすぎて、政治や経済のようには人間の思惑的動機で解明しにくいところもあり逆に難しい。「クローン」や「遺伝子組換え」が直ちに悪いの良いのと判断できない難しさがある。今のところ、私としては一庶民のできるささやかな食対策として、将来窮しても自らの食い扶持だけは確保できるようにしておくくらいしかないのだが、食まで自分の欲のために利用しようとする人間にだけはならないようにしようと思う。