陪審員制度が2009年(平成21年)5月にはじまる。過失か故意か、その判断を我々にゆだねられる日が遠からずやってくるのだ。しかし、前から疑問なのだが、人の内面について客観的にシロクロを決めることが可能なのだろうか?
例えば、「バベル」と言う映画で、ジャッカルを追っ払うため猟銃を預けられた幼子の兄弟が腕試しをする。彼らは標的を結局は逃げられてしまったジャッカルから、比較的当てるのがたやすい岩へ、そして遠くに見えるトラック、当るはずのない偶然通りかかった観光バスへと次々に変更している。これまで使っていた性能の悪い銃に比べ、新しく購入した銃は、最新式の高性能の銃だった。弾丸はバスを貫き、中にいたアメリカの観光客の女性の首を撃ち抜いた。
幼子たちにツーリストに対する憎しみがあって、「ブッ殺してやる」という意思のもとに当てようと思って猟銃を発砲させたら、それはもちろん故意であり殺人罪だ。しかし、逆に、バスに人がいることなど知らず全くの間違いで乗客を死に至らしめたとしたら、それは過失致死罪となる。この2つのケースは第3者にとってもわかりやすい心理状態だ。
バベルのケースでは、まさかあたるはずはないという気持ちが大部分を占める中で、あたったらすごいと引き金を引いて惨事を引き起こした。内面心理として犯意はなくとも、死亡という結果が発生することを「認容」してしまっているので、故意犯に近いものとされる。「未必の故意」というやつだ。
だが、もっと状況を複雑にして、バスを襲おうとしているジャッカルの群れ、あるいはテロリストに照準を絞って放った銃弾が流れて乗客を打ち抜いた場合はどうだろうか。この場合、内面で犯意を持たず、しかも死亡させるという結果の発生を「認容」していないので、故意犯としては扱われない。テロリストに銃弾が到達可能であることを知っていて、誤まって乗客を殺してしまうのだ。だから、この場合を「認識ある過失」という。そして、この時、犯人の内面に乗客を「助けてあげたい」という心理と、「乗客はどうせ死ぬんだから」という心理の葛藤があったとしたら・・・・・・。
言葉で心の内面を描くのは簡単だ。しかし、映像でこれを見せるのはたやすいことではない。映画「ゆれる」では、心の奥に潜む些細な感情をもミノル役の香川照之が演じきっている。彼は揺れるつり橋で、事故に遭遇して手首に傷を負う。普通なら、それを証拠に無実を主張するところなのだが、彼の心は揺れていた。
ミノルは正直だった。だれの心にもある多重性を、ミノルはそのままの形で伝えた。人はすべての行動において、混じりけなしの心でその行動に望むのは難しい。例えば、だれかの訃報を耳にするにしても、もう会えないことを悲しむ気持ちと、なぜ死に至ったか好奇心むき出しの残酷な心とがせめぎあっている。こうした相反する心が折り合って、人の行動を決めていく。さて、果たして本当のところは殺人なのだろうか、あるいは事故なのか。
彼の手首に負った爪あとは、裁判で証言台に立った弟のタケルの心にも爪あとを残す。刑務所から出所するまで気がつかなかったタケルの過失、その贖罪の日々を思えば心が痛む。この結末を、ここに洗いざらい書いてすっきりと説明したい気持ちと、ネタバレを責める読者の気持ちを思う心とで、ぼくの心は ゆ れ て い る。
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実を言えばまだ書くのを迷っている。
ZARD(ザード)の坂井泉水さん。これを書いている間にも歌声が心にこだましている。彼女の歌声に10年前のつらかった日々が思い出される。今日、書かなければ、もうチャンスはないだろう。だけども、気持ちの整理がつかなくて、言葉にならなくて・・・・・・。