原作の「オズの魔法使い」は、1900年にライマン・フランク・ボーム(Lyman Frank Baum)によりミュージカルとして執筆された。当時のアメリカでは、19世紀後半の目覚しい工業化の進展によりGNPが1890年から1930年までに約3倍に増えた。工業化する社会では資本と生産が集中し、その結果、巨大化した企業による市場の独占が進むようになった。これらの企業によって新しく中産層が生まれた時代である。ちなみに日本の高度経済成長時のGNPは、1955年から1975年までの20年間に約2倍になっているから、当時のアメリカも国民のみんながイケイケになっていた時代だったのかもしれない。
そんな社会背景から生まれたこの作品は、それまでの児童文学の代表であるグリム童話(1812年)やアンデルセン(1805-1875年)の童話に見られる教訓めいたストーリーや、魔女が暗躍するおどろおどろしい内容を排除した純然たるファンタジーとして描かれている。好調な国際経済の中の独占資本主義のもとで起こった数多い社会問題に対して、ユートピアを掲げて革新を目指すのは、行き過ぎた社会に対する反動なのだろうか。この作品を契機に、ファンタジー小説の分野が確立され、2年後にはネバーランドの原作であるジェームス・マシュー・バリーの戯曲『小さな白い鳥』(第13章から第18章にピーターパンが登場。なおモデルはデイヴィス夫人シルビアと長男のジョージとされる)がイギリスから出版された。その後、この流れは映画「ネバー・エンディングストーリー」や「天空のラピュータ」に続くのだろう(本来は政治に対する風刺文学の一つとして書かれたガリバー旅行記(1726年)は除く)。
良質なファンタジー文学や児童文学は、日常の暮らし中でいつしか置き去りにしてきてしまった大切なものに気づかせてくれる。
さて、見渡すかぎりすべて灰色にくすんで見えるアメリカのカンザスに少女ドロシーは住んでいる。叔父と叔母は生活に疲れ果てて、笑うことも忘れてしまったかのような毎日だ。物語はまさにそうした現実との直面から始まる。その土地を襲う竜巻で、少女の家は宙に浮かび不思議な美しさに満ちた国に飛ばされる。灰色の世界から、そこには一気に光り輝く緑の世界がひろがっている。だれもがあこがれるユートピアだ。
「オズの魔法使い」を求めてドロシーが旅する中で出会う案山子にも、ブリキの人形にも、臆病なライオンにも、それぞれに切実な望みがある。これらを求めひたすら進む彼らは、そのままアメリカの社会を表しているのだろう。また、彼らが手に入れようとしているもの、案山子の脳(知識・思考)、ブリキの人形の心臓(愛・心)、臆病なライオンの勇気、そしてドロシーのマイホーム回帰の願いは、アメリカで末永く求められ続ける価値だ。
やっと突きとめたオズの魔法使いの正体は、実はにせの魔法使いであり、もとは気球乗りであった。魔法使いの魔法はただのすりかえ、その場しのぎのごまかしにすぎなかった。ドロシーが膨らませていた夢は、急速に萎んでいく。「魔法使い」が自称「ペテン師」のただの人間であったことは、現実の世界を反映した皮肉な結末と言える。もちろん、チャーリー・チャップリンがモダンタイムスで痛烈に風刺した、資本主義社会で人間の尊厳が失われ機械の一部分のようになっていることもその背景の一部だ。
But anyway, Toto, we're home!
Home!
And this is my room, and you're all here!
And I'm not going to leave here ever, ever again, because I love you all!
Auntie Em, there's no place like home!
ああ、でも、トト、私たちわが家にいるのよ!わが家!わが家!ここが私の部屋で、あなたがここにいる。
もう二度とうちを離れないわ!だって、私、みんなを愛しているんですもの!
それにエムおばさん、わが家ほどいいところはないわ!
<EMBED src=http://www.youtube.com/v/g5Yw8wdlLp4 width=355 height=291 type=application/x-shockwave-flash allowScriptAccess="never" allowNetworking="internal" enablejavascript="false">