科学の発達は、我々の精神の奥底に眠る本能とも呼べる感覚、すなわち、”怖れ”や”忌み(いみ)””けがれ”といった感覚を退化させた。こうした感覚は、現代社会を生きていく上で、何の役にも立たなくなってしまったのだ。しかしながら、今でもそうした信仰を大事にしている人たちがいる。”またぎ”と呼ばれる東北地方の孤高の狩人たちだ。彼らは、つい最近まで山での行動を禁忌でがんじがらめにしていた。こうした行動の制約は、厳しい自然の中での生き残るために必要なものと考えられるが、それにもまして、獲物となる鳥獣によって我々が生かされてるという自然のおきてに対応するものなのだろう。
この映画でも、このような孤高の狩人がでてくる。半世紀にわたって、ロッキー山脈で罠猟を続けてきた”最後の狩人”ノーマン・ウィンターだ。彼は、ナハニ族インディアンの妻のネブラスカと、そして犬ぞりを引く7頭の犬たちと共に美しい大自然の中で暮らしている。彼は、猟をすることにより生態系を調整して、自然を守ることに誇りと生き甲斐を感じていた。彼が猟をするのは、犬を含めた自分達が食べる分だけだ。しかし、森林の伐採によって年々動物たちは減少し、猟場がさらに山奥に追いやられ狩人を続けていくことの困難を感じたノーマンは、その年かぎりで山を降りる覚悟を決める。 そして、山に冬が到来する前に、伐採の進んでいない新しい猟場に移って丸太小屋を築き、最後の猟の準備を始める。今や先住民でさえ狩りをするのにGPSやスノーモービルに頼っているのに対し、ノーマンは夏には馬やカヌーで、冬の大雪原へは犬ぞりで狩猟に出かけ、さらに住む家は斧で木を切り倒すことから始めるのだ。
ノーマンは、今年が狩人として最後になるかもしれないと覚悟しながら、なぜ、あんなに立派な丸太小屋を建てたのだろう。極寒の地で、丸太小屋は朽ちることなく永遠に残る。彼は、自分達がここに住んでいた事を、後の世に主張したかったのだろうか。映画の終盤でも、ネブラスカが丸太小屋を建てた理由を彼に問う。ノーマンにもその答えが見つけられないでいる。彼は、やはり山を去りたくはないのだ。そして、彼の良き理解者のネブラスカもだ。ネブラスカのどこか東洋系の女性に似た顔立ちに、ほっと安心するような気持ちを少なからず覚える。
シベリアン・ハスキーの祖先犬は、いまだはっきりとわかっていないが、スピッツの血を引いていると考えられている。北東アジアに住むチュクチ族が、この犬をそり犬として何百年もかけて改良してきたらしい。 極寒地に適した被毛、丈夫な足腰、高カロリー食(一日10,000キロカロリー)を消化吸収できる体、雪の上での短時間の仮眠で疲れを回復できる強靭さを発揮する。また、シベリアン・ハスキーを含めたエスキモー犬は、人の助けなくても生き残る野生的な能力も備えており、ソリ引き、番犬、狩猟犬、そして極地探検にも古くから使われていた。探検家ピアリーやアムンゼンによる北極や南極探検に使われたのはシベリアンハスキーであった。彼らは、時速20マイル(約32キロ)の速さで30マイル(約48キロ)の距離を走ることができる能力を持っている。
犬ぞり用、しかもレース用に育てられた若いメス犬のアパッシュは、狩の掟を知らない。また、犬ぞりにはそれぞれのポジションで役割分担があり、新参のアパッシュは他の犬たちとなじまず、足手まといになるばかりだった。しかし、アパッシュの賢さは一流だった。ソリ引き犬はまっすぐ走る事が習性となっているため、何かの音に驚いた犬たちは急に走り出すと戻って来ない。犬ぞりごと薄氷に落ちたノーマンの命を救ったのは、ダメ犬のアパッシュだった。リーダー犬はカリスマ性を備えているのみならず、どんな状況下でも的確な判断を下しつつチームをリードしていかなければならない。この素質は訓練で作り上げることはできず、持って生まれた天性のものである。アパッシュは、それを生まれ持っていた。助けられたノーマンは、ダメ犬のアパッシュを見やり、good girlとほめてあげる。アパッシュは、嬉しくて嬉しくてついつい、ノーマンの顔をなめまわすのだった。
つらく長い冬が終わり、アパッシュは子供を生む。ノーマンもネブラスカも、子犬を抱いて大喜びだ。きっと、またもう一年、子犬たちを育てながら、山で暮らす事を考えているのだろう。
この映画を観て、自然とのふれあいについてあれこれ考えさせられる。地球を大事にという当たり前のメッセージは充分に伝わってくる。しかし、だれも行動しない。もっと、我々は、わが国にもまだわずかにいるまたぎに習って、怖れや忌み、けがれという迷信めいた言葉の深い意味を一度じっくり考えてみるべきではないだろうか。