tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

マラソンマン(1976)

2007-06-16 16:47:35 | cinema

1967年の映画『俺たちに明日はない』を発端として、アメリカではアメリカン・ニューシネマと呼ばれる反体制的な若者を描く作品群が1970年代半ばまでいくつか製作された。英語では”New Hollywood”がこれを指す。ダスティ・ホフマン主演のこの映画は、その中の1本だ。場面の切り替えに効果音を先行させる手法は、当時の映像の編集テクニックを思い出させて懐かしい。しかし、現在のスピード感あふれるダイナミックな場面切り替えに比べれば、このような編集テクニックは一昔前の感が強い。

例えば、絶望とも言えるリスクに見合った十数億に値するダイアモンドと、安定した平凡な生活とどちらかを選べと言われたら、あなたはどちらを選択するのだろうか?
ほとんどのフィクションにおいては、リスクを背負って挑戦する方を選ぶのだろう。その方がドラマチックだからだ。
両方の掌からあふれるほどの数のダイアモンド。この映画では、そのひとつぶさえ所有しようとしなかった。高額の宝石よりもなによりも、個人の生活が大事。そんな価値観で、映画が描かれている。ストイックなマラソンのトレーニングを通して、個人の安定した生活が象徴されている。もちろん、そんな選択は現実の世界でもあり得ないだろう。だからこそ、ありえない選択に対して観客は「不条理」の世界をいろいろ考える。この頃の映画は、こんな不思議な余韻を残すものが多い。そして、観客達は映画の底に沈んだわけのわからない「不条理」があることを、暗黙の内に求めるのが条理だった。
ナチの残党とユダヤ人。業を背負った人間達を、当時の懐かしい名優たちが演じている。ダイアモンドの為にユダヤ人だらけの通りを歩くナチの残党。それを指さして「白い天使よ!人殺しよ!」と叫びながら追いかける老婆。なんという怖い映画だろう。子供の頃見た時は、ドキドキするようなサスペンスだと思ったが、今改めて見ると非常に結構重い印象を受ける。

この映画が作られた当時のアメリカでは、政府のベトナム戦争への軍事的介入を目の当たりにすることで、アメリカ国民の自国への信頼感が音を立てて崩れていった時代だ。何よりアメリカ社会に影響を与えていたのは、人種差別問題やベトナム戦争批判などに始まる世論の分裂、黒人暴動や大学紛争などの運動の拡大と激化と、頻発する要人の暗殺であった。 南部のみならず、北部大都市を背景とした人種差別の根深さや泥沼化したベトナム戦争を背景に、 社会の亀裂や対立は険悪になっていた。 こうした問題を招いた元凶は、政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影している。
特徴的なのは、反体制的な人物が体制に敢然と闘いを挑む、もしくは刹那的な出来事に情熱を傾けるなどするのだが、最後には体制側に圧殺されるか、あるいは個人の無力さを思い知らされるといった内容であることだ。すなわち、それまでの勧善懲悪とは一線を置き、不幸な結末が一連の作品の特徴と言える。これは当時の鬱屈した世相を反映していると同時に、映画だけでなく小説や演劇の世界でも流行しつつあったサルトルが提唱した実存主義を理論的な背景とする「不条理」が根底にあるとされている。

話は変わるが、剣道も含めて日本古来の格闘技に「守・破・離」の教えがある。武術を学ぶ心得を説くものだ。最初に基本を学びそれを大事にして、次のステップで、それまで学んだことをバラバラにする。基本をうち破ることで飛躍的な成長が可能なのだ。そして離脱。すべてを超越することにより、神の領域に近付くことができるのだ。従来の概念を打ち破ろうとするアメリカン・ニューシネマは、「破」の時期であったような気がする。そして、我々は大家が仕掛ける不条理の世界に理解した振りをせざるをえなかったのかもしれない。当時、「理解できない」とか「面白くない」と公言するのは、何もわかっていない、あるいは、何も考えない人間であると公表するようなものだった。日本でも、最近、わけのわからない映画が出るようになった。30年遅れてようやく「破」の時期が到来したとすべきなのだろうか。わかったふりをするのは簡単だが、みんなで拒否することも大切だ。面白くなければ迎合せずに口を閉ざすが良い。