元暴走族の彼。いまは、電車に乗って会社に通う毎日だ。仕事は、リサイクル用鉄くずの分別。毎日、会社で作業服に着替え、薄暗い電灯の作業場にこもって、冷蔵庫やテレビなどのくず鉄と格闘している。
30過ぎてまだ独身の彼は、たまの晴れた休みの日に、ツーリングに一人で出かける。ツーリングといっても、バイクではない。バイクは25歳を過ぎた時に卒業した。もう、原付以外に2輪に乗ることはないだろう。
彼は、バイクに変えて、いまはチャリンコに乗っていた。
バイクに乗っていた時に感じていたことでもあるが、車道を走る自転車は非常に危ない。実際に自転車に乗ってみるとそうでもないのだが、バイクから見るとそれは頼りなく、フラフラしていそうでコワイ。だから、彼は、できるだけ歩道を自転車で通行するようにしていた。
前から来る自転車とすれ違う時、彼が道を譲る事はない。これは暴走族をやってた頃からの彼の信念だ。自分の決めた道を、自分のペースで走る。他人の指図は絶対に受けない。ところが、これまでに彼は2回ほど、信念を曲げざるを得なかったことがあった。
一度は、前からママチャリに乗った茶髪のオバちゃんとすれ違った時である。歩道の真ん中を、その茶髪のオバちゃんは堂々と向こうからやってきた。歩道のやや端を走っていた彼は、向こうが避けるもんだとばかり思っていた。30センチ左に寄ってくれれば、2人は何の問題もなく、すれ違うことができる。
しかし、敵は一向による気配がない。買い物かご一杯に荷物を積んで歩道のど真ん中をやってくる。2メートル、1メートル。緑色のメッシュの入った茶髪がもう目の前だ。オバちゃん特有の加齢臭が感じられそうなほど。ごく狭い空間を挟んで、目と目が火花を散らす。そして、ぶつかる瞬間に、彼は大きくハンドルを切ると、歩道の植え込みに突っ込んでいった。
彼の人生を通じて、はじめてのチキンレースでの敗北だった。といっても、チキンレースに撒きこまれたのは生まれてはじめての経験だったので、正確に言えば初戦を落としたということだ。彼は、泥だらけになりながら植え込みから立ち上がると、次の戦いではきっと勝つと心に闘志を燃やしたのだった。
次の戦いは、その敗戦のすぐあとにやってきた。前から”ぢょしこうせい”が自転車を2列に並んでやってきた。2列に並んで走っているから、すれ違おうにもぎりぎりのスペースしかない。
この時も、彼は向こうが避けるものだとばかり思っていた。しかも、敵はかなり飛ばしてこっちへやってくる。2メートル、1メートル。紺色のブレザーがもう目の前だ。レモンのようなさわやかなシャンプーの香りが鼻をくすぐる。そして、ぶつかる瞬間に、彼は思わず目を閉じた。びびって、股間に少しだけちびったのを感じた。結論を言うと、なぜ、無事にすれ違えたのかわからない。でかい派手な音を立てて自転車同士が正面衝突すると覚悟を決めていたのだが。物理的にすれ違うのが不可能な空間を彼と彼女達は衝突しないですれ違ったのだった。恐らく、時空にゆがみがあったのか、知恵の輪のような難しい空間操作を経て彼らは無事にすれ違えたのか、今となってはどうしてそれが可能となったのか解き明かすことはできない。ただ、体が無意識に一瞬大きくバンクしていたことだけを覚えている。
そして、彼の心にはチキンレースで連敗を喫したという重大な事実が重い記憶となって残っていた。
前から、やくざが来ようが、相撲取りが来ようが、絶対に道をゆずらない。彼の決意は固かった。そして、幸運なことに、これまでは歩道の向こうから、自転車に乗ったやくざも、自転車に乗った相撲取りも、さらには自転車に乗ったガメラさえも来ることはなかった。もっとも、自転車の座席にガメラが火を吹きながらそのおしりを乗せて運転していたら恐すぎる。第一、その姿勢でペダルに足が届くほどガメラの体は小さくないから、1cmだって自転車で進めやしないだろう。
そして、梅雨の合間のことだ。彼が愛車のマウンテンバイクに乗って駅前をサイクルしていた時だ。前方から、1台の自転車がヨロヨロと走ってきた。運転しているのは老齢の男性。自転車のフロントチャイルドシートには、3~4歳くらいのかわいい女の子がのっている。おそらく女の子は、おじいさんの孫なのだろう。楽しげに左右を見回す女の子。女の子がシートから落っこちないように、おじいさんは右手で自転車のハンドルを握りしめながら、左手で女の子を必死に支えている。片手ハンドルだから、ヨロヨロ運転になるはずだ。
自転車から降りて、押して歩けばいいのにとも思うが、女の子の楽しげな顔をみると、おじいさんの気持ちが伝わってきた。前から、やくざが来ようが、相撲取りが来ようが、絶対に道を譲らない彼ではあるが、この時は自転車から降りて、歩道の端により2人を通してあげた。おじいさんは、「ありがとう」といって、ヨロヨロ自転車を運転して通り過ぎていった。彼が道を譲ったのは、生まれてはじめてのことだった。
彼は、ヘルメットと額の隙間から流れ出る汗を拭うと、晴れ渡った青空を見上げた。空には入道雲が湧きあがり、草や木の葉を揺らし風が吹き抜けていった。
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