筑前福岡藩黒田家の菩提寺(墓所)は、下記6ヶ所にある。 墓といっても、埋葬されたものでなく五輪塔、石塔、墓石だけの場合もある。 また、一人の墓が数ヶ所に建てられていたり、改葬や合葬も行われているため、詳しくは専門家の調査したものを調べて見るのがよい。
6ヶ所の菩提寺(墓所)を設立順に並べると下記のとおりとなる。
■臨済宗大徳寺塔頭龍光院 (1608建立)
■臨済宗大徳寺派横岳山崇福寺(そうふくじ) (1612-1624にかけて中興再建) 福岡市博多区千代4丁目7−79
■臨済宗大徳寺派瑞泉山祥雲寺(しょううんじ、旧・興雲寺、1623建立)
■真言宗南岳山東長寺(とうちょうじ) (1623忠之藩主時代に帰依) 福岡市博多区御供所町6-1
■臨済宗大徳寺派佛陀山天真寺(てんしんじ) (1661建立) 東京都港区南麻布3丁目1−15
■青山霊園 東京都南青山2丁目32−2
上記6ヶ所に埋葬されている、筑前福岡藩主および世嗣の生存年、父親、埋葬場所、法号を下記に記す。ただし、埋葬場所は前述の通り不確かである。
筑前福岡藩黒田家
開祖 如水(孝高) 1546-1604 父・職隆 大徳寺塔頭龍光院、崇福寺 法号:龍光院如水圓清
初代 長政 1568-1623 父・如水 崇福寺、祥雲寺(旧・興雲寺)、 法号:興雲院古心道卜
二代 忠之 1602-1654 父・長政 東長寺 法号:高樹院傑春宗英
三代 光之 1628-1707 父・忠之 東長寺 法号:江竜院淳山宗真
四代 綱政 1659-1711 父・光之 崇福寺 法号:霊源院回山紹光
世嗣 吉之 1682-1710 父・綱政 祥雲寺 法号:乾光院範雄道洪
五代 宣政 1685-1744 父・綱政 天真寺 法号:泰林院義山道勇
六代 継高 1703-1775 父・長清 崇福寺 法号:功崇院章山道善
世嗣 重政 1734-1762 父・継高 崇福寺 法号:瑛光院瑞嶽紹鳳 (注:黒田家譜では1737年生まれ)
七代 治之 1753-1781 父・一橋徳川家宗尹の五男 崇福寺 法号:鳳陽院典山紹靖
八代 治高 1754-1782 父・多度津藩主京極高慶の七男 東長寺 法号:竜雲院徳巌道俊
九代 斉隆 1777-1795 父・一橋徳川家治済の三男 崇福寺 法号:敬徳院周山紹礼
十代 斉清 1795-1851 父・斉隆 天真寺 法号:乾竜院利山道見
十一代 長溥 1811-1887 父 薩摩藩主島津重豪の十三男 青山霊園
十二代 長知 1839-1902 父・伊勢津藩主藤堂高猷の三男 青山霊園
十三代 長成 1867-1939 父・長知 青山霊園
十四代 長禮 1889-1978 父・長成 青山霊園
十五代 長久 1919-2009 父・長禮 青山霊園
今年の3月17日に記した、黒田重政室・菊姫(眞含院、1733-1808)の左右に並ぶ墓、第6代藩主・継高室圭光院と同7代藩主・治之室・瑶津院、さらに圭光院の実父・黒田吉之の墓があったので紹介してみる。
写真は、南を向いて後ろから、左から瑶津院、眞含院(菊姫)、圭光院(幸・こう)の墓が並んで建っている。 正面はすぐそばに塀があり、幅が狭い。なぜ、3人の室の墓が並んで建っているのか、いつ頃からなのかはまったくわからない。 それぞれに2つの石灯籠が立ち、墓と石灯籠を石の瑞垣で囲んでいる。その正面には手水鉢が置かれている。
墓石には、それぞれ下記が刻まれている。
■安永戊戌七年(1778) 五月十七日 圭光院殿明心宗悟大姉
■文化五戊辰年(1808) 三月十七日 眞含院殿實高慈清大襌定尼
■文政三庚辰年(1820) 十一月二十四日 瑶津院殿瓊山妙瑩大襌定尼
写真は左が圭光院墓、右が瑶津院墓。
継高(1703-1775)室: 黒田吉之女(黒田宣政の養女)・幸(圭光院、?-1778)
重政(1734-1762)室: 薩摩藩主島津継豊女・菊姫(眞含院、1733-1808)
治之(1753-1781)室: 榊原政永女・幸姫(瑶津院、?-1820)
眞含院こと菊姫は6代藩主継高の世嗣・重政と結ばれ1男2女を生むが、長女・屋世(治之室)以外は夭折。継高は一橋徳川家・初代当主・徳川宗尹の五男・治之(1753-1781)を養嗣子に迎え屋世と結婚するが、屋世も11歳で死去した。重政自身も1762年に継高よりも早く亡くなってしまった。そのため、後継者問題で苦労した。 同じように治之も嗣子がないまま30歳で亡くなっている。 3人の室(女性)はともに長生きをしたが、後継者問題では苦しんだことであろう。
さて、境内の墓地の秋月黒田藩の南隣に背の高い墓があり、「寶永七庚寅歳(1710) 七月初三日 乾光院殿中大夫前隅州刺史範雄道洪大居士」とあり、調べると圭光院の父・黒田吉之の墓とわかった。圭光院の墓を向いて(東向きに)建っているが、30mほど離れているだろうか。(上写真右側)
また、黒田吉之の墓の左隣に五輪塔形の墓があり、かなり風化して見え難くなっているが、「寛永第五(1628)戊辰歳 七月廿六日 梅渓院殿天秀妙貞大禅定尼」と刻まれている。 松平忠良の娘で秀忠公の養女となって二代藩主・黒田忠之(1602-1654)に嫁いだ久姫の墓である。(上写真左側)
過去の関連情報
瑞泉山祥雲寺
キーワード:浄岸院(竹姫)
6ヶ所の菩提寺(墓所)を設立順に並べると下記のとおりとなる。
■臨済宗大徳寺塔頭龍光院 (1608建立)
■臨済宗大徳寺派横岳山崇福寺(そうふくじ) (1612-1624にかけて中興再建) 福岡市博多区千代4丁目7−79
■臨済宗大徳寺派瑞泉山祥雲寺(しょううんじ、旧・興雲寺、1623建立)
■真言宗南岳山東長寺(とうちょうじ) (1623忠之藩主時代に帰依) 福岡市博多区御供所町6-1
■臨済宗大徳寺派佛陀山天真寺(てんしんじ) (1661建立) 東京都港区南麻布3丁目1−15
■青山霊園 東京都南青山2丁目32−2
上記6ヶ所に埋葬されている、筑前福岡藩主および世嗣の生存年、父親、埋葬場所、法号を下記に記す。ただし、埋葬場所は前述の通り不確かである。
筑前福岡藩黒田家
開祖 如水(孝高) 1546-1604 父・職隆 大徳寺塔頭龍光院、崇福寺 法号:龍光院如水圓清
初代 長政 1568-1623 父・如水 崇福寺、祥雲寺(旧・興雲寺)、 法号:興雲院古心道卜
二代 忠之 1602-1654 父・長政 東長寺 法号:高樹院傑春宗英
三代 光之 1628-1707 父・忠之 東長寺 法号:江竜院淳山宗真
四代 綱政 1659-1711 父・光之 崇福寺 法号:霊源院回山紹光
世嗣 吉之 1682-1710 父・綱政 祥雲寺 法号:乾光院範雄道洪
五代 宣政 1685-1744 父・綱政 天真寺 法号:泰林院義山道勇
六代 継高 1703-1775 父・長清 崇福寺 法号:功崇院章山道善
世嗣 重政 1734-1762 父・継高 崇福寺 法号:瑛光院瑞嶽紹鳳 (注:黒田家譜では1737年生まれ)
七代 治之 1753-1781 父・一橋徳川家宗尹の五男 崇福寺 法号:鳳陽院典山紹靖
八代 治高 1754-1782 父・多度津藩主京極高慶の七男 東長寺 法号:竜雲院徳巌道俊
九代 斉隆 1777-1795 父・一橋徳川家治済の三男 崇福寺 法号:敬徳院周山紹礼
十代 斉清 1795-1851 父・斉隆 天真寺 法号:乾竜院利山道見
十一代 長溥 1811-1887 父 薩摩藩主島津重豪の十三男 青山霊園
十二代 長知 1839-1902 父・伊勢津藩主藤堂高猷の三男 青山霊園
十三代 長成 1867-1939 父・長知 青山霊園
十四代 長禮 1889-1978 父・長成 青山霊園
十五代 長久 1919-2009 父・長禮 青山霊園
今年の3月17日に記した、黒田重政室・菊姫(眞含院、1733-1808)の左右に並ぶ墓、第6代藩主・継高室圭光院と同7代藩主・治之室・瑶津院、さらに圭光院の実父・黒田吉之の墓があったので紹介してみる。
写真は、南を向いて後ろから、左から瑶津院、眞含院(菊姫)、圭光院(幸・こう)の墓が並んで建っている。 正面はすぐそばに塀があり、幅が狭い。なぜ、3人の室の墓が並んで建っているのか、いつ頃からなのかはまったくわからない。 それぞれに2つの石灯籠が立ち、墓と石灯籠を石の瑞垣で囲んでいる。その正面には手水鉢が置かれている。
墓石には、それぞれ下記が刻まれている。
■安永戊戌七年(1778) 五月十七日 圭光院殿明心宗悟大姉
■文化五戊辰年(1808) 三月十七日 眞含院殿實高慈清大襌定尼
■文政三庚辰年(1820) 十一月二十四日 瑶津院殿瓊山妙瑩大襌定尼
写真は左が圭光院墓、右が瑶津院墓。
継高(1703-1775)室: 黒田吉之女(黒田宣政の養女)・幸(圭光院、?-1778)
重政(1734-1762)室: 薩摩藩主島津継豊女・菊姫(眞含院、1733-1808)
治之(1753-1781)室: 榊原政永女・幸姫(瑶津院、?-1820)
眞含院こと菊姫は6代藩主継高の世嗣・重政と結ばれ1男2女を生むが、長女・屋世(治之室)以外は夭折。継高は一橋徳川家・初代当主・徳川宗尹の五男・治之(1753-1781)を養嗣子に迎え屋世と結婚するが、屋世も11歳で死去した。重政自身も1762年に継高よりも早く亡くなってしまった。そのため、後継者問題で苦労した。 同じように治之も嗣子がないまま30歳で亡くなっている。 3人の室(女性)はともに長生きをしたが、後継者問題では苦しんだことであろう。
さて、境内の墓地の秋月黒田藩の南隣に背の高い墓があり、「寶永七庚寅歳(1710) 七月初三日 乾光院殿中大夫前隅州刺史範雄道洪大居士」とあり、調べると圭光院の父・黒田吉之の墓とわかった。圭光院の墓を向いて(東向きに)建っているが、30mほど離れているだろうか。(上写真右側)
また、黒田吉之の墓の左隣に五輪塔形の墓があり、かなり風化して見え難くなっているが、「寛永第五(1628)戊辰歳 七月廿六日 梅渓院殿天秀妙貞大禅定尼」と刻まれている。 松平忠良の娘で秀忠公の養女となって二代藩主・黒田忠之(1602-1654)に嫁いだ久姫の墓である。(上写真左側)
過去の関連情報
瑞泉山祥雲寺
キーワード:浄岸院(竹姫)
私はまだ行けていないのですが、知り合いの方に墓石の写真をいただいております。
この寺院に金森氏の物がありそうな感じですが、まだ発見できていません。
東京大空襲の際に焼けているかもしれません。
リンクの件は、どうぞ。OKです。
今後とも交流させてください。情報交換をさせていただきたいので、よろしくお願いいたします。
早速、連絡ありがとうございます。
東京都練馬区にあり、江戸名所図会にも載る、東高野山長命寺。1週間に2回は門前を往復しています。開基は慶算阿闍梨(増島重明)です。今でも、増島氏の菩提寺として存続しています。
増島(長谷川)重明は、北条早雲と小川法永(長谷川正宣)の妹の間に出来た子・重胤の孫と系図では伝えられています。さらに、重明の弟・重国は徳川幕府代官として、近江代官所に常駐することが多く、この時に、金森長近および可重と親しくしていたそうです。また、重国の子・重俊(後に重明の養子)は可重の子・重近、重次兄弟と親しくし、飛騨市古川町にあった増島城に逗留したことがあったようです。その増島城あるいは増島野の地名をとって増島という名字に改めたのではないかと考えられています。(参考:「長命考」増島忠之助著 2010年人間舎発行)
これらについて興味をもっています。
されているので、徳川家に仕える前に改めたと思われます。
コメント記入ありがとうございます。
増島姓の分布は電話帳調べで、三島市33件、練馬区28件、狭山市24件、伊豆の国氏23件の順です。
「練馬区高野台 長命寺考」を著した増島忠之助氏が、増島氏の先祖を調べるために各地を訪問していますが、辿りつけていないのが実情です。
長命寺にある増島氏の一番古い墓には、「北條氏直臣」、「平重俊」などが刻まれ、長命寺の建物の瓦当には「丸に横二引」の家紋があります。
八王子城の戦没者一覧では増島(浮専)氏の名前がありましたので、八王子城に行き、曹洞宗・宗関寺にも立ち寄りました。残念ながら、増島氏に関することは何も得られませんでした。 その後、八王子市内の寺を巡った時に、曹洞宗のある寺院に増島氏の墓を一基見つけました。 「丸に橘」の家紋がありましたので、調べている増島氏とは関係がないと思っていましたが、後から替え紋であることに気がつきました。
もし、これ以上のことをご存知でしたらご教示いただければ嬉しいです。
数年前、石見銀山の世界遺産登録に向けての学術調査
時、近隣より子文書が発見された。
内容は銀山奉行としてやってきた大久保長安が、配下の
役人3名を罷免したないようである。(石見銀山調査ノート
2003.3)
その中に、増左(増島左内重国)は佐和山(井伊家)へお 預かり・・・うんぬん、「米売り値段違い」とのことで蟄居預 かりとする旨の古文書です。(その後改易)
増島左内重国は、後北条家滅亡後徳川家康に旗本とし て採用され、江州で1700石の知行をえていました。
また、井伊家に仕えた家臣に増島百介がおりその子孫が
彦根城博物館に古文書を寄贈されております。
当初は文官だったようですが2代目が弓術指南となり
代々その職を継いだようです。この子孫に増島六一郎が
いて東京で法律学校(現中央大学)の創始者の1人と
なっております。
増島左内重国と、この井伊家の家臣である増島家はなに かつながりがあるのでは、と考えております。
②私の祖父の出身について
出身は東京都日野市の現在「京王百草園」の近くです。
大昔は、この界隈の山林を多く所有していたようです。
明治27年生まれで、99歳10ケ月まで生きておりまし た。
今から、40年ほど前、この祖父の実家を解体するとのこ とで、父と長兄が立会ました。(家は江戸期のもの)
その時、敷地内の先祖の墓10数基を移動させることにな り、年号を確認できたのは寛永年間まででその先は丸石 であった、とのことでした。(私有地)
私の祖父の使用していた家紋は丸に橘ですが、奇妙なこ とに、根が3本です。以前父と祖父が家紋についてはなし ていたとき、昔から根は3本と決まっているとのことでし た。
③江戸切り絵図(元和3年1617版)
下谷稲荷の近くの御書院後番組のところに、増島の名 があります。
私の祖父は「下谷のおじさん」のところで大工の修行を
したのち、独立して小石川に住んでおりました。戦後つ てをたより、八王子に移り住みました。
④父の姉の話
祖父の実家(百草)は、昔「エンドウ大尽」といわれてい た。(実家は農家です)
⑤増島姓の由緒書き
以前増島姓を調べるため、市販のものですが購入して みました。 増島の姓は比較的あたらしく長命寺考にあ るように、戦国末期~江戸初期のようです。系譜は長命 寺の系譜でした。
⑥旗本の増島家の維新後の動き
徳川慶喜について静岡県に移住したそうです。
⑦私の想像
長命寺の慶算(勘解由重明)は1616年3月12日に
80歳で入寂したのであれば、生まれは1536年とな ります。弟の増島左内重国のそれに近い生まれと想 像できます。1580年に谷和原の地に行ったのであれ ば44歳ごろでしょうか。
そのとき重国はどこにいたのだろう。重国の子、新七 郎重俊を養子として貰い受けたのであれば、新七郎
重俊には長兄がいたはず。新七郎重俊は伽藍建立
の莫大な資金をどこからえていたのだろうか。
上記の事柄を考えると、左内重国の代に増島家は大 きく3家に分割したのではないか、とおもえてなりませ ん。
一今度米うりね段違ニ付而、増左近ハ陰之儀二付候、佐和山、三源ハ美濃之香納、作兵ハ各両三人之儀 伊勢桑名へ被成御預ヶ候・・・
と記され、増左は増島左近です。
また、三源は三枝源蔵と思われます。 作兵衛は不明。
井伊家に仕えた増島百介系増島氏の子孫に増島六一郎がいることは知っていましたが、増島忠之助氏は、「増島左内は天正16年(1588)に秀吉の銀山目付けとして派遣された」とあり、当時敵対する北条方にあった増島重国とは思えないとしています。
「石見銀山の経営」で記されている増島左近と増島外記が重国ではないかとしていますが、別々の人物かもしれません。
「長命寺考 余聞」(増島一穂氏著)には、各地の増島姓について、伊豆(三島、韮山)では剣酢漿草と丸に十字の家紋、座間市では、横木瓜、丸に横四つ目結、狭山市では剣酢漿草、飯能市は狭山増島氏の分流とみています。さらに増島六一郎氏については、資料を調べた結果、「谷原増島」との関わりはなさそうであると、探求を進めないままあっさりと記しているので、不思議なところです。一方で、増島氏は井伊家と何処かで、何等かのかかわりが有ると想像されるが、今後の課題としたいともしています。
「増島六一郎」wikipedia.には六一郎氏の和服の写真が載っていますが、羽織には紋があり、不鮮明でよくはわかりませんが、木瓜紋のように見えます。少なくとも横二引でも橘でもなさそうです。
②根が3本の丸に橘の家紋とは、「丸に三本足橘紋」のことでしょうか。
③江戸切り絵図
嘉永版でも下谷稲荷の近くの御書院後番組のところに、増島氏の名があることを確認しました。八王子に住まれたのは比較的に新しいということでしょうか。
増島涛太郎氏は本所に住んでおり、江戸切絵図に載っています。金吾氏も住んだようです。 金吾氏が徳川慶喜について静岡に移住したのでしょうね。
⑦増島重俊の長兄は忠之助氏の作成した系図では、増島宗家・伝左衛門(新左衛門)となっています。ほかに、重俊に始まる石原増島家、谷原増島家と伝右衛門に始まる増島南家に分けています。
新しく気がついたこと、知ったことがあります。
① 先の三枝家は武田信玄の家臣であったようですが、その一族辻氏(三枝部)、稲葉美濃守家臣・長谷川氏と石原増島氏は真宗大谷派乗満寺(当時上野東口付近車坂、現在世田谷区烏山)を菩提寺としました。 互いに姻戚関係も持ちました。
相模原市の村富神社が所蔵する文化財・獅子頭の内部に墨書があるのが見つかり、「文化三・・・増嶋左近・・・」と書かれていたそうです。(文化三年は1806年)
私のコメントから、なにやら貴殿を動かしてしまったようで
恐縮しております。
前回のコメントの前に、2回ほどコメントを書いたのですが
うまく投稿できませんでした。
上記の家紋について、「丸に三本足橘紋」と思います。
私のコメントに年代表記違いや誤字等があることを、おゆるし下さい。
八王子の増島は、日野の別れであり明治期に下谷に出て小石川に戦前まで住み・戦後八王子に移り住んだので、増島姓の由来などという古いものではありません。
以前増島姓の由来を調べるうちに、長命寺考の抜粋文に出会い、自分なりに調べてみました。
後北条氏の滅亡までの記述に、家臣団・知行取りの属将の記載に増島姓や重胤・次郎右衛門重興の名は見つけられなかった事。
私の仮設
これらの事から、重胤・重興時代は「武門の外」にいたのではないか。
商人・または物流の請負をしていたのではないか。
豊臣の後北条攻めの前に、後北条家は総力戦に備え
この一族にも武門に入るようにしたのではないか。
この時、各流通網の拠点にいた分家とも「増島姓」となったのではないか。
商家として後北条家にいた重胤・重興の歴史があるため「北条」を名乗ることができず、新たに「増島家」を興したのではないか。
増島左内重国が、徳川で勘定方をしていたのはそのための知識(後北条家の裏方)をしっていたため、徳川家が関東に入ったとき、採用されたのではないか。
甲州を取ったとき、大久保長安を採用した様に。
菩提寺は曹洞宗、墓石に彫られた家紋は丸に木瓜。
家紋については、隣に並んでいた他の増島家の墓(おそらく遠縁の一族)も全て丸に木瓜でした。
相模原方面の増島さんは、木瓜紋が多いようですね。
世界に名声をはせたミシン針製造家
(ますじま りょうぞう)
1896-1960
良三は明治29年、埼玉県入間川町(現狭山市)に生まれ、まもなく東京市下谷区(現東京都台東区)に移り住みます。15歳のとき父親が急逝し、そのため苦学生が集まる東京労働学会に入会し、牛乳配達をして学資を稼ぎながら、さらに青山学院に入学して勉学に励みます。18歳の時にレコードや譜面などを扱う東京音譜商会にレコードのプレス工員として住み込み、懸命に働きます。第一次世界大戦が始まると蓄音機針の輸入が減ったため、住み込んでいた商会は需要がある蓄音機針の製造に切り替え、良三は解雇されます。事業家を志していた良三は独自に蓄音機針の製造を目指し、針の本場広島の縫い針工場で学んだり、東京市内の針に関する業者を探し当てながら知識を得て、大正4年、借金700円を元手に下谷区入谷町(現台東区)に二間長屋を借り、隣の米屋のモーターを動力に使わせてもらい、少量ながら蓄音機針の製造を始めます。その後3年間の兵役を経て、大正9年には3人を雇用して荒川区南千住に工場を設け、製造を再開します。そして、大正12年の関東大震災で大きな打撃を受けますが、製造技術の向上に必死に取組み、輸入針をしのぐ丈夫な蓄音機針の開発に成功します。また、良三はミシンの需要が増加しているにも拘わらず、すべて輸入に頼っている業界に目をつけ、蓄音機針製造を続けながら、荒川区尾久町にミシン針の試作工場を建て、30名の従業員を雇いミシン針の製造研究に没頭しますが、これはなかなかうまく行きませんでした。この頃、大阪の業者がミシン針国産化のために国から奨励金を受けたことを知り、良三のやる気はますます高まり、昭和11年資本金3万円の合名会社増島製針所を設立、翌年南千住の工場を売却し、尾久町の試作工場に隣接して工場を増築して工員を85名に増やし、納得できるミシン針ができるまで改良を重ね、月産約4000本のミシン針を製造します。太平洋戦争が始まると蓄音機針の輸出が禁止されたため、生産品はミシン針のみとなり、すべて軍に納入することになりました。東京空襲が激しさを増す中、工場疎開地として錆の心配のない乾燥地で、しかも冬も比較的温暖な中塩田村(現上田市)に小規模の分工場を移設し、さらに軍の全面疎開命令により、機械類全てを上田に移設します。戦後の深刻な物資・資金不足の中でしたが、工場を再建し、「オルガンを弾く婦人」印を付けたミシン針の売れ行きは順調に伸び、昭和25年にはU+3231増島製針所を設立。良三は針の品質を保ち、適正価格の販売を心がけたことから「オルガン印ミシン針」の評判は高まり、のちに従業員2000名を超える大工場に発展しました。しかし、良三は志半ばにして出張先で病に倒れます。享年64歳、針一筋の人生でした。参考:http://museum.umic.jp/jinbutu/data/047.html
これと関係ありますかね?増島省三さんと良三さんは関係あると思うのですが。
長文失礼しました。
なかなか探求が進んでいませんが、「長命寺考 余聞」(増島一穂氏著)では、奥富増島氏と石神井の谷原増島家とは直接の関わりは無い模様としています。川越、坂戸、飯能市等に散在する増島氏の大方は奥富増島氏の分流であるともしています。したがって、増島省三さんと良三さんは過去につながりがありそうですね。
新たに、千曲市上山田にある智識寺をUPしました。
このお寺の説明には、管理をしている上田市の同じ真言宗智山派のお寺から来ていただきました。大御堂の前にある大香炉には寄進された増島氏の名前が刻まれていました。亀戸の方です。増島良三さんと関係があるのかは不明です。単なる偶然かもしれません。