一昨日は、前から行きたかった秩父の羊山公園「芝桜の丘」へ行ってきました。
あいにくの曇りで、また、芝桜も見頃を過ぎたということでしたが、それでも遠くからの眺めはきれいでした。
帰りに、秩父神社へ寄りました。
秩父神社の縁起・由緒などは、秩父神社のホームページの社報「柞の杜」に詳しく説明されているので、それを見ると勉強になります。
(左)秩父神社南門(一の鳥居) (右)神門
簡単に興味のあるところを拾ってまとめてみると、秩父神社の創建は、第十代崇神天皇の時代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神を祀ったことが始まりとされています。中世以降は平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めました。当社も妙見社の祭神・天之御中主神を祀っています。 明治時代になって、秩父神社の旧社名に戻りました。
毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。 また、夏祭(7月19日・20日)として、境内にある摂社・日御碕宮(祭神:須佐之男命)の例祭・川瀬祭があります。 平安時代に流行した祇園祭の流れをくむもので、万治2年(1659年)の文書に川瀬祭の記述が初めて確認できます。
写真は、(左)本殿、 (中)本殿に見られる紋は「十六菊紋」と「三葉葵紋」、 (右)神額(扁額)
現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康が寄進したものです。 社殿は本殿・弊殿・拝殿連繁三棟合殿の権現造りで、千木・鰹木がありません。 社伝によると、社殿は嘉禎2年(1235)と永禄12~13年(1569~70)の2度消失したといいます。 昭和41年、旧社殿の跡地を調査したところ、2層に渡る焦土層が確認されています。 また、昭和43年の発掘調査では、地鎮祭のためのものなのでしょうか、大般若経の理趣分経を石に筆で書いた石経が約50個見つかっています。 消失前の社殿は、本殿、拝殿別棟であったようです。
『秩父大宮妙見宮縁起』に天正18年(1590)の家康の江戸城入城に関する記載があるとし、「8月に相模国を進発し、八王子より多摩、入間、高麗と巡り、比企には越生、滋光、小川から当社を参詣され、(略)」としその後、「鉢形、忍等の城地をご覧になり、鴻巣の宮地の旅館に暫くご滞留され、江戸のお城へ入られた。・・・」(注1)としています。
家康は、天文11年(1542)壬寅歳(さらに寅の日、寅の刻)生まれ、家康の江戸入府の天正18年は庚寅歳、当社の大斎事は「寅の秘法」で社殿東側の「寅門」より昇殿したとし、寅にこだわったことがうかがえます。
そして、翌天正19年(1591)に神領57石の朱印状を賜わり、さらに、翌天正20年(1592)に「信玄焼き」による焼失(1570)以来の社殿造営が果たされました。
(注1) 家康が江戸城に入ったのは、天正18年8月1日(八朔)とも書かれており、『秩父大宮妙見宮縁起』の内容と矛盾を生じています。ただし、8月1日入城のことが後から創作されたとの説を肯定すれば話は別です。
JR府中本町駅東隣で発掘調査が行われている「武蔵国府関連遺跡」の「府中御殿」は天正18年に造営され、家康、秀忠、家光の将軍3代がタカ狩りの際に使ったり、奥州征伐を終えた豊臣秀吉を招いたりしたとされていますが、秀吉を招いたとする史料はすべて後年のもので確実ではありません。 府中郷土の森美術館が発行している「あるむぜあ」No.92(2010.6.2発行)の中で府中文化振興財団・馬場治子さんが書かれたNOTE『府中御殿』で、「(略)史実として秀吉と家康が7月18日か19日に江戸城にいる事が確かめられており、(略)」と記しています。 ただし、出典は書かれていません。 これが間違いなければ、家康は7月に江戸入城し、8月には相模国を進発し・・・・と繋がります。
日光東照宮と同じ、権現造りの社殿にはたくさんの彫刻が施されており、左甚五郎作と伝えられるものがあります。
左甚五郎作と伝えられる「つなぎの龍」
あいにくの曇りで、また、芝桜も見頃を過ぎたということでしたが、それでも遠くからの眺めはきれいでした。
帰りに、秩父神社へ寄りました。
秩父神社の縁起・由緒などは、秩父神社のホームページの社報「柞の杜」に詳しく説明されているので、それを見ると勉強になります。
(左)秩父神社南門(一の鳥居) (右)神門
簡単に興味のあるところを拾ってまとめてみると、秩父神社の創建は、第十代崇神天皇の時代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神を祀ったことが始まりとされています。中世以降は平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めました。当社も妙見社の祭神・天之御中主神を祀っています。 明治時代になって、秩父神社の旧社名に戻りました。
毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。 また、夏祭(7月19日・20日)として、境内にある摂社・日御碕宮(祭神:須佐之男命)の例祭・川瀬祭があります。 平安時代に流行した祇園祭の流れをくむもので、万治2年(1659年)の文書に川瀬祭の記述が初めて確認できます。
写真は、(左)本殿、 (中)本殿に見られる紋は「十六菊紋」と「三葉葵紋」、 (右)神額(扁額)
現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康が寄進したものです。 社殿は本殿・弊殿・拝殿連繁三棟合殿の権現造りで、千木・鰹木がありません。 社伝によると、社殿は嘉禎2年(1235)と永禄12~13年(1569~70)の2度消失したといいます。 昭和41年、旧社殿の跡地を調査したところ、2層に渡る焦土層が確認されています。 また、昭和43年の発掘調査では、地鎮祭のためのものなのでしょうか、大般若経の理趣分経を石に筆で書いた石経が約50個見つかっています。 消失前の社殿は、本殿、拝殿別棟であったようです。
『秩父大宮妙見宮縁起』に天正18年(1590)の家康の江戸城入城に関する記載があるとし、「8月に相模国を進発し、八王子より多摩、入間、高麗と巡り、比企には越生、滋光、小川から当社を参詣され、(略)」としその後、「鉢形、忍等の城地をご覧になり、鴻巣の宮地の旅館に暫くご滞留され、江戸のお城へ入られた。・・・」(注1)としています。
家康は、天文11年(1542)壬寅歳(さらに寅の日、寅の刻)生まれ、家康の江戸入府の天正18年は庚寅歳、当社の大斎事は「寅の秘法」で社殿東側の「寅門」より昇殿したとし、寅にこだわったことがうかがえます。
そして、翌天正19年(1591)に神領57石の朱印状を賜わり、さらに、翌天正20年(1592)に「信玄焼き」による焼失(1570)以来の社殿造営が果たされました。
(注1) 家康が江戸城に入ったのは、天正18年8月1日(八朔)とも書かれており、『秩父大宮妙見宮縁起』の内容と矛盾を生じています。ただし、8月1日入城のことが後から創作されたとの説を肯定すれば話は別です。
JR府中本町駅東隣で発掘調査が行われている「武蔵国府関連遺跡」の「府中御殿」は天正18年に造営され、家康、秀忠、家光の将軍3代がタカ狩りの際に使ったり、奥州征伐を終えた豊臣秀吉を招いたりしたとされていますが、秀吉を招いたとする史料はすべて後年のもので確実ではありません。 府中郷土の森美術館が発行している「あるむぜあ」No.92(2010.6.2発行)の中で府中文化振興財団・馬場治子さんが書かれたNOTE『府中御殿』で、「(略)史実として秀吉と家康が7月18日か19日に江戸城にいる事が確かめられており、(略)」と記しています。 ただし、出典は書かれていません。 これが間違いなければ、家康は7月に江戸入城し、8月には相模国を進発し・・・・と繋がります。
日光東照宮と同じ、権現造りの社殿にはたくさんの彫刻が施されており、左甚五郎作と伝えられるものがあります。
左甚五郎作と伝えられる「つなぎの龍」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます