歴歩

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渋谷区広尾・瑞泉山香林院 奥殿藩初代・松平真次の菩提寺

2011年03月19日 | 瑞泉山祥雲寺


 臨済宗大徳寺派寺院のひとつである。 右写真は大給恒氏墓。

 寛文五年(1665)、大給藩主・松平乗次(のりつぐ、1632-1687)が父・真次(さねつぐ、1577-1646)の菩提を弔うため、絶山宗信和尚を開山として建立した。 真次の法名から寺号を香林院とした。
 初め麻布小山にあったが、江戸の大火により寛文五年(1668)現在地に移ったとする。
 大給(おぎゅう)藩(現豊田市)は、乗次、乗成、乗真と続き、乗真の時に藩庁を奥殿(現岡崎市)に移し奥殿藩とし、盈乗、乗穏、乗友、乗尹、乗羨、乗利、乗謨(恒)と続き、乗謨(のりかた、1839-1910)の時に藩庁を信濃佐久郡田野口村に移し田野口藩とした。乗謨は西洋式築城法による龍岡城五稜郭を作り、慶応3年(1867)に完成を見るが、大政奉還を迎えた。翌年、龍岡藩と改名するが、明治4年(1871)には廃藩となった。 明治2年(1869)7月に名前を大給恒(ゆずる)と改名している。

龍岡城五稜郭跡にある説明板

 香林院の墓は、瑞泉山祥雲寺の墓地にあり、大給松平家の藩主で香林院に墓があるのは大給恒氏だけらしい。
 ただし、岡崎市立中央図書館のホームページに、「松平乗友 文政7年(1824)10月4日に65歳で没した。法号は観誉玄圃呑海蓬瀛院。葬地は江戸祥雲寺塔頭香林院」と記されていた。

大給松平家の家紋
 「太輪に蔦」が大給松平家の家紋である。 香林院の本堂、院門にそれが見える。
院門の蔦紋の鬼瓦は「奥殿陣屋」にも見当たらないような大きさを誇る。香林院の格式の高さがうかがえる。
 龍岡城五稜郭跡に行った時に、近くにある新海三社神社に寄ってみた。
 神社の参道脇と境内に手水鉢があり、ひとつは「松平兵部少輔乗友」(下写真右上)、もうひとつには「天保六年(1835)八月 石見守 乗利」と刻まれ、ともに大きな蔦紋が陽刻されていた。

 左写真中央奥には、三重塔、手前には東本殿が並んで建てられている。ともに、重要文化財である。 右の写真は新海三社神社の前に立つ説明板。

 岡崎市奥殿町にある「奥殿陣屋」には2度ほど行ったことがある。 残念ながら、当時は残すべき写真の撮り方分からず、今欲しい写真が残っていない。 パンフレットだけは大事に手元に残っている。 庭に大輪の花が咲くバラがあり、季節になると、その場でバラの花を長い枝ごと切って販売してくれた。

関連情報
 瑞泉山祥雲寺


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