福井県越前町教委は1日、同町織田(おた)の真言宗醍醐派・法楽寺の境内から、織田(おだ)信長の十数代前の祖先にあたるという伝承が残る「親眞(ちかざね)」の名前が入り、「親真阿聖霊(あしょうりょう) 正應三年(1290)二月十九日」と刻まれた石造が見つかり、5月から調査を進めていたが、親真の墓を特定したと発表した。 これまで文献上に名前が記されるのみだったが、一族の出自も従来の平氏説から忌部(いんべ)氏説の可能性が高くなったとしている。
親真は鎌倉時代の中・後期、劔神社の神職を務めたとされる。 最も古い文献では、十七世紀ごろ編集の織田家系図に見られるが、出自は不明。 昭和62年(1987)に郷土史家が、法楽寺で親真の名前が刻まれた石塔の一部を発見したが、供養塔として後年、建立したものとみて、重視されなかった。
町教委が同寺の依頼で約20年ぶりに再調査した結果、碑文に未解読の文字を発見。この文字を加えると表面に「喪親真阿聖霊 正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、裏面には「孝子 七月吉日」の銘があり、「親真は正応3年(1290)2月19日午後1~3時頃に亡くなった。孝行な子どもが7月に建造した。」と読めるという。
石造は鎌倉時代に墓とされていた五輪塔の一部。半分ほどが崩れているが、1辺約21cm四方の立方体の形をしていたとみられる。
素材に使った笏谷石(しゃくだにいし)の質や、碑文の文字配列なども鎌倉後期の特徴と合致するため、信憑性は高いと判断した。
親真を剱神社神官の忌部氏の直系とする説と、壇の浦の戦い(1185年)で死んだ平資盛(すけもり、清盛の孫)の実子で、近江から劔神社の忌部氏に養子となり正元2年(1260)2月18日に没したとする説とがあった。
織田氏の家系図は20種類以上伝わっており、多くが親真を平氏の一族とし信長の先祖としているが、信長も平氏を名乗っていた。 しかし、墓石の銘文から没年が系図にある没年の30年後と判明し、同神社の神官「忌部氏」の家系である可能性が高まったとしている。
[参考:福井新聞、中日新聞、共同通信、産経新聞、朝日新聞、読売新聞]
過去の関連ニュース・情報
2011.6.8越前町・真言宗法楽寺 織田信長の祖先にあたる津田親真?を示す「親眞」の銘が入った石造が見つかる
親真は鎌倉時代の中・後期、劔神社の神職を務めたとされる。 最も古い文献では、十七世紀ごろ編集の織田家系図に見られるが、出自は不明。 昭和62年(1987)に郷土史家が、法楽寺で親真の名前が刻まれた石塔の一部を発見したが、供養塔として後年、建立したものとみて、重視されなかった。
町教委が同寺の依頼で約20年ぶりに再調査した結果、碑文に未解読の文字を発見。この文字を加えると表面に「喪親真阿聖霊 正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、裏面には「孝子 七月吉日」の銘があり、「親真は正応3年(1290)2月19日午後1~3時頃に亡くなった。孝行な子どもが7月に建造した。」と読めるという。
石造は鎌倉時代に墓とされていた五輪塔の一部。半分ほどが崩れているが、1辺約21cm四方の立方体の形をしていたとみられる。
素材に使った笏谷石(しゃくだにいし)の質や、碑文の文字配列なども鎌倉後期の特徴と合致するため、信憑性は高いと判断した。
親真を剱神社神官の忌部氏の直系とする説と、壇の浦の戦い(1185年)で死んだ平資盛(すけもり、清盛の孫)の実子で、近江から劔神社の忌部氏に養子となり正元2年(1260)2月18日に没したとする説とがあった。
織田氏の家系図は20種類以上伝わっており、多くが親真を平氏の一族とし信長の先祖としているが、信長も平氏を名乗っていた。 しかし、墓石の銘文から没年が系図にある没年の30年後と判明し、同神社の神官「忌部氏」の家系である可能性が高まったとしている。
[参考:福井新聞、中日新聞、共同通信、産経新聞、朝日新聞、読売新聞]
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