八幡市教委が5日、同市美濃山大塚にある浄土宗・宝寿院の本尊・阿弥陀如来立像の内部から、文暦2年(1235)に「泉州別当定慶」が制作したとの墨書銘が見つかったと発表した。
像はヒノキ材で、高さ77.5cm(2尺5寸)。修理で見つかった銘文に「泉州別当定慶造也」と書かれていた。「泉州別当」は肩書の一種で、運慶らと連なる慶派仏師の1人とみられるという。
理知的な表情や着衣の表現が快慶の作品に似ており、いわゆる「安阿弥様」(あんなみよう)の像である。
これまで存在が確認されている3人の「定慶」のうち2人は活動年代が異なり、同時期の「肥後別当定慶」とは作風が異なるため、市教委は第4の定慶がいたとみている。
宝寿院は、江戸中期の享保19(1734)年に開拓された美濃山に、明治36年(1903)年開設。それ以前も集落の会所に仏像があった記録はあるが、鎌倉時代の仏像が伝わった経緯は不明という。
阿弥陀如来立像は、木津川市山城町の府山城郷土資料館で常設展示されている。
[参考:京都新聞、毎日新聞、京都府HP→文教課]
これまでの3人の定慶
①大仏師法師定慶(生没年不詳)12世紀後半の慶派仏師。康慶の弟子とされる。春日定慶とも称される
作品:興福寺東金堂の、維摩居士、梵天、帝釈天、金剛力士など。
②肥後別当定慶(1184? - 1256?)鎌倉時代の仏師。慶派、康慶の弟子といわれる。運慶の次男・康運との説もある。
作品:大報恩寺の六観音像、鞍馬寺の聖観音菩薩など。
③越前法橋・定慶(鎌倉後期)
伝存作品はないが、法隆寺新堂の日光・月光菩薩像などの修理に従事したことが知られる。
王塚古墳の隣にある宝寿院には王塚古墳の碑文(考古学者・濱田耕作氏、別称浜田青陵の書)が立てられている。
過去の関連ニュース・情報
2008.12.3美濃山王塚古墳
2008.7.6女郎花遺跡
2008.7.4女郎花遺跡
像はヒノキ材で、高さ77.5cm(2尺5寸)。修理で見つかった銘文に「泉州別当定慶造也」と書かれていた。「泉州別当」は肩書の一種で、運慶らと連なる慶派仏師の1人とみられるという。
理知的な表情や着衣の表現が快慶の作品に似ており、いわゆる「安阿弥様」(あんなみよう)の像である。
これまで存在が確認されている3人の「定慶」のうち2人は活動年代が異なり、同時期の「肥後別当定慶」とは作風が異なるため、市教委は第4の定慶がいたとみている。
宝寿院は、江戸中期の享保19(1734)年に開拓された美濃山に、明治36年(1903)年開設。それ以前も集落の会所に仏像があった記録はあるが、鎌倉時代の仏像が伝わった経緯は不明という。
阿弥陀如来立像は、木津川市山城町の府山城郷土資料館で常設展示されている。
[参考:京都新聞、毎日新聞、京都府HP→文教課]
これまでの3人の定慶
①大仏師法師定慶(生没年不詳)12世紀後半の慶派仏師。康慶の弟子とされる。春日定慶とも称される
作品:興福寺東金堂の、維摩居士、梵天、帝釈天、金剛力士など。
②肥後別当定慶(1184? - 1256?)鎌倉時代の仏師。慶派、康慶の弟子といわれる。運慶の次男・康運との説もある。
作品:大報恩寺の六観音像、鞍馬寺の聖観音菩薩など。
③越前法橋・定慶(鎌倉後期)
伝存作品はないが、法隆寺新堂の日光・月光菩薩像などの修理に従事したことが知られる。
王塚古墳の隣にある宝寿院には王塚古墳の碑文(考古学者・濱田耕作氏、別称浜田青陵の書)が立てられている。
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