6月29日の話になるが、読売新聞社のインターネット・ニュースでは、「今城塚古墳」のことが「幻の陵墓参考地、昭和初期に指定検討」のタイトルで配信されていた。その記事は、関西版には掲載されたが、東京版には掲載されていない。
概要
今城塚古墳は高槻市が2011年春の完成を目指して史跡公園整備を進めており、事実上、公園として一般開放される唯一の大王墓(天皇陵)となる。
宮内庁は、茨木市の「太田茶臼山古墳」を継体陵とするが、大正から昭和初期、今城塚を継体陵とみて陵墓参考地の指定も検討していたことが、研究者の調査で明らかになった。
今城塚古墳が、6世紀のヤマト政権の大王墓と想定され、6世紀前半に死亡した継体天皇陵というのが学界の定説になっている。
戦前に設けられた臨時陵墓調査委員会(1935年-1944年)においても同古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われた。しかし、宮内庁は今城塚古墳から西へ1.3kmにある茨木市の太田茶臼山古墳(5世紀中頃、全長226mの前方後円墳)を継体天皇陵に指定している。
高木博志・京都大准教授(近代史)が、宮内庁所蔵の文書を調査したところ、府知事が、1922年(大正11年)に内務大臣あてに起案した文書である「府庁文書」の写しが残されていた。(原本は戦災で焼失)
〈元ヨリ陵墓タリシモノニシテ、然(しか)モ陵制宏大ナルヨリ考フレハ高貴ノ陵墓タルコトヲ知ルヲ得ヘシ〉。
このように、今城塚周辺にある「陪塚」(現在は陪塚と認められていない)の保護を訴えていたことがわかった。
高木准教授は、府史蹟調査委員の天坊幸彦氏が原案を作成したとみて、「今城塚を文化財として保存しようとした嚆矢(こうし)」と指摘。さらに、継体陵の所在地は、律令の施行細則「延喜式」(927年)に「摂津国島上郡」と記されている。今城塚は「島上郡」にあるが、太田茶臼山は「島下郡」。天坊氏は郡境を突き止め、今城塚こそ継体陵にふさわしいと説いた。
昭和4年(1929)これを受けた形で当時の宮内省陵墓考証担当者が、内部文書で今城塚が真の継体陵と主張。
同11年(1936)宮内大臣の諮問に同省の臨時陵墓調査委員会が「今城塚を陵墓参考地に編入すべき」と答申した。
同29年(1958) 国史跡に指定されたが陵墓参考地にはならなかった。
その理由を高木准教授は「歴代の天皇陵すべてが19世紀の学知に基づき治定され、その体系が変更なく、凍結されてきたため」と説明。1881年の天武・持統合葬陵以来、陵墓の指定変更はない。一つ認めれば次々に変更を余儀なくされる恐れがあったため、と推測できる。
今城塚は1997~2006年度、高槻市教委の発掘調査で、築造時期が継体天皇の没年(531年)と一致することが確実となった。さらに、
〈1〉国内最大級の埴輪祭祀場
〈2〉「阿蘇ピンク石」という特殊な石材を石棺に使用
〈3〉横穴式石室の基礎になる大規模な石組み
など、大王墓にふさわしい内容が次々と明らかになり、考古学的にも継体陵の可能性が高まった。
[参考:読売新聞]
概要
今城塚古墳は高槻市が2011年春の完成を目指して史跡公園整備を進めており、事実上、公園として一般開放される唯一の大王墓(天皇陵)となる。
宮内庁は、茨木市の「太田茶臼山古墳」を継体陵とするが、大正から昭和初期、今城塚を継体陵とみて陵墓参考地の指定も検討していたことが、研究者の調査で明らかになった。
今城塚古墳が、6世紀のヤマト政権の大王墓と想定され、6世紀前半に死亡した継体天皇陵というのが学界の定説になっている。
戦前に設けられた臨時陵墓調査委員会(1935年-1944年)においても同古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われた。しかし、宮内庁は今城塚古墳から西へ1.3kmにある茨木市の太田茶臼山古墳(5世紀中頃、全長226mの前方後円墳)を継体天皇陵に指定している。
高木博志・京都大准教授(近代史)が、宮内庁所蔵の文書を調査したところ、府知事が、1922年(大正11年)に内務大臣あてに起案した文書である「府庁文書」の写しが残されていた。(原本は戦災で焼失)
〈元ヨリ陵墓タリシモノニシテ、然(しか)モ陵制宏大ナルヨリ考フレハ高貴ノ陵墓タルコトヲ知ルヲ得ヘシ〉。
このように、今城塚周辺にある「陪塚」(現在は陪塚と認められていない)の保護を訴えていたことがわかった。
高木准教授は、府史蹟調査委員の天坊幸彦氏が原案を作成したとみて、「今城塚を文化財として保存しようとした嚆矢(こうし)」と指摘。さらに、継体陵の所在地は、律令の施行細則「延喜式」(927年)に「摂津国島上郡」と記されている。今城塚は「島上郡」にあるが、太田茶臼山は「島下郡」。天坊氏は郡境を突き止め、今城塚こそ継体陵にふさわしいと説いた。
昭和4年(1929)これを受けた形で当時の宮内省陵墓考証担当者が、内部文書で今城塚が真の継体陵と主張。
同11年(1936)宮内大臣の諮問に同省の臨時陵墓調査委員会が「今城塚を陵墓参考地に編入すべき」と答申した。
同29年(1958) 国史跡に指定されたが陵墓参考地にはならなかった。
その理由を高木准教授は「歴代の天皇陵すべてが19世紀の学知に基づき治定され、その体系が変更なく、凍結されてきたため」と説明。1881年の天武・持統合葬陵以来、陵墓の指定変更はない。一つ認めれば次々に変更を余儀なくされる恐れがあったため、と推測できる。
今城塚は1997~2006年度、高槻市教委の発掘調査で、築造時期が継体天皇の没年(531年)と一致することが確実となった。さらに、
〈1〉国内最大級の埴輪祭祀場
〈2〉「阿蘇ピンク石」という特殊な石材を石棺に使用
〈3〉横穴式石室の基礎になる大規模な石組み
など、大王墓にふさわしい内容が次々と明らかになり、考古学的にも継体陵の可能性が高まった。
[参考:読売新聞]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます