広野町下浅見川桜田の災害公営住宅の建設予定地から、奈良時代に街道沿いに整備された施設である「駅家(うまや)」とみられる建物の跡が見つかった。
昨年9月に、試掘で発見された。 町教委は桜田Ⅳ遺跡と名付け、今年1月に調査を開始した。
遺跡から掘立柱建物跡11棟と竪穴住居跡6棟とともに奈良時代の土師器と須恵器が見つかった。 このうち2間×3間の掘立柱建物跡5棟が一直線に並んでおり古代の役所の一部とみられ、また、近くの遺跡で海道跡がみつかっていることから、「駅家」の可能性が高いという。
平安時代に編纂された「続日本紀」養老三年(719) 閏七月廿一日丁丑の条には、
石城國始置驛家一十處。
と記され、岩城(いわき)国(現在の浜通り)の当時の街道沿いにおよそ16kmごとに「駅家」が設けられていたとみられる。 これまで、遺跡は確認されていなかった。
広野町は、津波で家を失った住民のために48世帯分の災害公営住宅を町の中心部に建設する計画だが、予定地から奈良時代のものとみられる建物の跡や土器が見つかったため、建設予定だった住宅を敷地内の別の場所に移し、遺跡の一部を保存することを決めた。 緑地公園としての活用などを検討している。
[参考:2013.5.11福島県文化財センターHP、5.11NHK、5.14福島民友新聞、5.17河北新報、5.19福島民法、5.21毎日新聞]
昨年9月に、試掘で発見された。 町教委は桜田Ⅳ遺跡と名付け、今年1月に調査を開始した。
遺跡から掘立柱建物跡11棟と竪穴住居跡6棟とともに奈良時代の土師器と須恵器が見つかった。 このうち2間×3間の掘立柱建物跡5棟が一直線に並んでおり古代の役所の一部とみられ、また、近くの遺跡で海道跡がみつかっていることから、「駅家」の可能性が高いという。
平安時代に編纂された「続日本紀」養老三年(719) 閏七月廿一日丁丑の条には、
石城國始置驛家一十處。
と記され、岩城(いわき)国(現在の浜通り)の当時の街道沿いにおよそ16kmごとに「駅家」が設けられていたとみられる。 これまで、遺跡は確認されていなかった。
広野町は、津波で家を失った住民のために48世帯分の災害公営住宅を町の中心部に建設する計画だが、予定地から奈良時代のものとみられる建物の跡や土器が見つかったため、建設予定だった住宅を敷地内の別の場所に移し、遺跡の一部を保存することを決めた。 緑地公園としての活用などを検討している。
[参考:2013.5.11福島県文化財センターHP、5.11NHK、5.14福島民友新聞、5.17河北新報、5.19福島民法、5.21毎日新聞]
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