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木津川市・上狛北遺跡 恭仁京の京域の遺構か 溝跡が見つかる

2011年01月21日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは20日、木津川市山城町上狛(かみこま)の上狛北遺跡の発掘調査で、恭仁京に都が置かれていた奈良時代中期の長さ約100mの溝跡や建物跡、大量の須恵器などが見つかったと発表した。 恭仁京の関連施設跡の可能性もある。 恭仁京をめぐってはこれまでの発掘調査で、左京とみられる区域に大極殿の回廊跡などが見つかっているが、右京の遺構は確認されていなかった。
 続日本紀に
天平十二年(740)十二月十五日丁夘。 皇帝在前幸恭仁宮。始作京都矣。太上天皇皇后在後而至。
天平十三年(741)九月十二日己未。 (略) 從賀世山西道以東爲左京。以西爲右京。
と記され、740年12月に平城京から遷都し、聖武天皇が造営した恭仁京の構造について「鹿背山を挟み、左京と右京に分かれる」との記述がある。 発見された溝跡は恭仁宮跡の西約5kmに位置し、鹿背山(同市)の西側にあり、恭仁京の右京の遺構ではないかとみている。
 確認された溝跡は幅が最大1m、深さは20~80cmで約100mにわたり、ほぼ正確に南北方向に掘られていた。西側に沿う形で、掘立柱の建物跡3棟も見つかった。溝内の土器から、ともに8世紀中ごろの遺構とみられ、同時代の井戸跡や、恭仁宮跡と同じ唐草文のある軒平瓦も発見された。
 溝跡は規模や方向から、国家か権力者が計画的に掘ったもので、建物も、役所や邸宅の一部と考えられるとしている。
 遺構の発見地点は、歴史地理学者の足利健亮氏(故人)が、続日本紀などをもとに復元した恭仁京域の「右京四条三坊」に当たるほか、山背国府があったとする説もある。
 現地説明会は23日(日)午前10時半から開かれる。
[参考:京都新聞、共同通信、産経新聞、京都府埋蔵文化財センターHP]

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 2010.10.23恭仁宮跡 大極殿の南面回廊跡の遺構を確認 続日本紀の記述に符号
 2009.11.22恭仁宮跡・朝集殿院の区画が判明 平城宮と同形
 2008.11.27 恭仁宮跡・朝堂跡?見つかる


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