北区平手町1-1の平手町遺跡から、日本最古(弥生時代中期後半、約二千年前)の舟の形をした木棺が見つかった。これまで最古とされた京都府京丹後市の「金谷一号墓」のものより約200年遡る。
舟形木棺は、敷地周辺に溝をめぐらした方形周溝墓(縦11m、横7.5m)から出土。棺は木をくりぬいて作られ、長さ2.8m、幅80cm、深さ10cm。内部から上あごや歯、鎖骨、足の骨の一部が見つかり、船尾を頭に遺体が置かれていた。性別は不明だが、身長155cm以上の成人と推測される。近くの墓から別の舟形木棺らしき一部も発見され、いずれも船首が南西を向いていることから、あの世に旅立たせるために太陽の沈む西方に向けたとみる。
注)船首(人の足先)が南西を向いているとするのは、中日で、毎日・産経・日経は北西を向いているとしている。
[参考:中日新聞、時事通信、共同通信、毎日新聞、産経新聞、日経新聞]
日本最古の舟形木棺出土=弥生中期の遺跡から-名古屋(時事通信) - goo ニュース
日本最古の舟形木棺発見 名古屋、弥生時代中期か(共同通信) - goo ニュース
FNNおよび中京エレビでは、ビデオ・ニュースを配信している。
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平手町遺跡は庄内川と矢田川の合流点より2km南下した標高5m前後の沖積地に立地するという。堆積状況はハマグリを主体とする混貝土層が大きく3層、その間に炭化物層と焼土層を挟むと観察されている。
また、隣接する西志賀貝塚は、昭和5年に発掘され弥生時代の前期から後期の貝塚と考えられ、当時すでに米作りも行われていたことが確認されているという。
そうなると、当然、平手町遺跡は弥生時代には海に近いあるいは海の中にあった時代があり、舟を利用していたことになる。
舟形木棺といっても、使わなくなった舟を木棺に転用したのかもしれない。
舟形木棺は、敷地周辺に溝をめぐらした方形周溝墓(縦11m、横7.5m)から出土。棺は木をくりぬいて作られ、長さ2.8m、幅80cm、深さ10cm。内部から上あごや歯、鎖骨、足の骨の一部が見つかり、船尾を頭に遺体が置かれていた。性別は不明だが、身長155cm以上の成人と推測される。近くの墓から別の舟形木棺らしき一部も発見され、いずれも船首が南西を向いていることから、あの世に旅立たせるために太陽の沈む西方に向けたとみる。
注)船首(人の足先)が南西を向いているとするのは、中日で、毎日・産経・日経は北西を向いているとしている。
[参考:中日新聞、時事通信、共同通信、毎日新聞、産経新聞、日経新聞]
日本最古の舟形木棺出土=弥生中期の遺跡から-名古屋(時事通信) - goo ニュース
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平手町遺跡は庄内川と矢田川の合流点より2km南下した標高5m前後の沖積地に立地するという。堆積状況はハマグリを主体とする混貝土層が大きく3層、その間に炭化物層と焼土層を挟むと観察されている。
また、隣接する西志賀貝塚は、昭和5年に発掘され弥生時代の前期から後期の貝塚と考えられ、当時すでに米作りも行われていたことが確認されているという。
そうなると、当然、平手町遺跡は弥生時代には海に近いあるいは海の中にあった時代があり、舟を利用していたことになる。
舟形木棺といっても、使わなくなった舟を木棺に転用したのかもしれない。
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