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さつま町 虎居城跡 現地説明会11月8日に開催  440人の見学者

2008年11月11日 | Weblog
発掘調査現地説明会が開催されました。 説明会には440人が訪れたそうです。
 虎居城は平安末期に郡司の大前(おおくま)氏が築城したと伝わり、三方を川内川に囲まれ、天然の要害の地にある山城。川を天然の堀に生かした。虎が伏せたように見えることから命名された。
 2006年の県北部豪雨災害後、川内川の改修が行われることになり、城跡地を横断する分水路の建設が決まった。このため、工事で消滅する虎居城跡を図面や写真で記録して残そうと、県教委などが5月から6万㎡のうち約3分の1を発掘調査していた。
 本丸機能の可能性がある「オキタノ城」や「塩の城」で柱穴とみられる跡を見つけた。穴の底に礎石を置いたらしく、瓦葺屋根の重量にも耐えられる構造とみられる。
 製鉄の際に出る鉄滓(てっさい)や鞴(ふいご)の一部、土塁も出土した。説明会では、調査を担当する県埋蔵文化財センターの調査員が、居住区域に当たる4カ所の曲輪(くるわ)や谷で発掘された、かまど跡や土塁、堀などを説明。地名の「宮之城」の由来となった山城だけに住民らの関心は高く、説明会に440人が訪れた。
 曲輪の1つでは発掘体験ができ、子どもたちが専用の道具を使って土を削っていた。発掘調査は来年3月まで行われる。
[参考:朝日新聞、西日本新聞]

2008.10.11掲載分
「虎居城跡」現地説明会が予定されています。
  堀や土塁などの城郭特有の施設や鍛冶に関連する遺物,建物の礎石跡などが紹介されます。
日 時:平成20年11月8日(土)雨天決行
 第1回説明会 10:00~12:00
 第2回説明会 14:00~16:00
場 所:薩摩郡さつま町宮之城屋地
内 容:遺跡の概要説明
 遺跡の見学、発掘体験、生活体験(弓矢,砂鉄集め,昔の遊び など)
主 催:鹿児島県立埋蔵文化財センター TEL 0995-48-5811
     虎居城跡発掘調査事務所 TEL 0996-52-2334

[2008.7.18掲載分]
 さつま町教育委員会と鹿児島県立埋蔵文化財センターは、川内川の災害緊急特別事業に伴う虎居城の発掘調査を行っており、調査の結果、自然地形を利用した当時の城の外観が分かりつつあるとして、7月19日(土)に現地公開の予定を発表しています。
 一昨年7月に、梅雨前線の停滞に伴う豪雨のために、川内川の上流の観測所では降水量が1165mmの年間降水量の50%に相当する値を記録し、甚大な被害が出ました。それに伴い場抜本的な治水対策が行われることになりました。
 ここ虎居城跡は、川内川の上流の中でも特に河川が湾曲している部分で、洪水の円滑な流下を阻害する地点との認識から、大規模なショートカットをすることが決まったようです。ショートカットされる部分は、虎居城跡の区域が該当しています。折角、自然の要塞を利用して作った城跡が一部でも削られて元の姿を変えてしまうのは残念です。

 平成元年2月には巨大積石郡が発見されています。
 虎居城は康治年間(1140年代)~に、荘園・祁答院の郡司であった大前氏が築城したとされます。虎居城築城にあたり、半島上流部北岸に見られる溶結凝灰岩柱状の絶壁を天然の城壁とし、川内川を天然の堀と見立てたそうです。しかし下流側南岸、波高瀬といわれる付近の川岸を補強するためにこの巨大石積を作ったとされます。
 鎌倉時代になり、相模国渋谷庄(神奈川県高座郡)の庄司・渋谷光重は、宝治元年(1247年)の合戦の恩賞として、北薩摩の祁答院(けどういん)・東郷・鶴田(つるだ)・入来院(いりきいん)・高城(たき)の地頭職を与えられ、この地祁答院は、三男渋谷重保の領地となります。そして、祁答院渋谷氏による統治が約300年続きます。
 16世紀になると、絶大なる勢力を誇った島津氏に、永禄10年(1567年)攻められ、祁答院渋谷氏は島津氏に屈服することになりました。以降、島津歳久が城主となり、その後豊臣秀吉が天下を取った時に島津一族の北郷時久がここに移封されました。そして、江戸時代初期には宮之城島津氏の役所が置かれ、北郷氏の出身地にちなんで「宮之城」の地名が付けられました。


 ちなみに、若者の町となっている東京・渋谷駅から歩いて10分の距離にある金王八幡神社(東京都渋谷区)は渋谷城があったところで、このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館でした。
 高望王の後裔、秩父別当武基が、源頼信の平忠常追討の時に功をたて、武基の子基家は嫡子重家と共に源義家の軍に従い奥州の金沢の柵を攻略した功により、河崎土佐守基家の名を賜り武蔵・谷盛庄(やもりのしょう、現在の東京・渋谷、注1)また、相模・渋谷庄(高座・綾瀬市)を与えられます。その孫重国のとき渋谷庄司を称したのが渋谷氏を名乗る始まりとします。もしくは、重家の時には渋谷氏を称していたかもしれません。そのほうが、あとの金王丸常光とのつながりが納得しやすいです。
 寛治6年(1092)、基家は盛谷庄(東京・渋谷)の地に八幡宮を勘請しました。
 そして、渋谷氏は八幡宮を中心に館を構築して居城としました。重家の子(あるいは重家の子・重国の子)金王丸常光(注2)はこの地で成長し、17歳の時に源義朝に従い保元の乱で功を立てます。その後の平治の乱に敗れた義朝は、東国に下る途中に尾張国野間で長田忠宗の謀反によって殺されます。随従していた金王丸は越後に落ちたとも伝わっています。金王丸没落後も渋谷氏はこの地で渋谷城を拠点としていたようですが、その後の動向は不明です。

注1:谷盛庄
 新編武蔵風土記稿に、「合村9、中豊沢村八幡所蔵鳴応村岡五郎左衛門重義記「縁起」に、秩父十郎武綱に奥州攻の軍忠として、源義家一字を与えても基家と号し、矢盛庄を宛行うと伝える」とある。
注2:金王丸
 土佐坊昌俊とする説がある。


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