明日香村教委は9日、国史跡・牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)で、墳丘を八角形に囲む凝灰岩の石敷きが発掘され、八角形墳と確認されたと発表した。1977年作成の測量図で八角形と推定されており、今回の発掘で裏付けられた。
牽牛子塚古墳は、飛鳥時代の古墳が集中する明日香村北西部に位置する。巨大な凝灰岩をくりぬいた埋葬施設の横口式石槨が露出し、過去の調査で「夾紵棺(きょうちょかん)」などが出土していたが、墳丘の構造は未確認だった。
墳丘北西の裾に計20mにわたって、幅約1m、深さ約20cmの溝の中に凝灰岩の切り石(長辺約40~60cm、短辺約30~40cm、厚さ約30cm)を敷き並べているのが見つかった。石敷きは9mの1辺と、135度の角度でつながる左右2辺の一部が確認され、墳丘を八角形に囲んでいることが分かった。八角形の対辺の長さは22mで、石敷きの外側に2重に敷かれた小石を含めると、対辺32m以上。石敷きからの高さは4.5m以上とみられ、墳丘斜面にも凝灰岩の切り石を並べた跡があった。
また、石槨を囲む縦2.8m、横1.2m、厚さ70cm、重さ5トンの直方体の切り石(石英安山岩)が3個見つかった。石槨を保護する目的があったという。石槨は入り口部分を除き、16本の柱で囲っていたと推測される。
石槨は東西5m、南北3.5m、高さ2.5m、重さ約70トンの1個の巨大な凝灰岩をくり抜いた構造で、中央を壁で仕切り、2人用の合葬墓として造られていたと判明した。
石造埋葬施設の周りに巨大な切り石を立て並べ、築造当初は墳丘表面も切り石をピラミッド状に積み上げた特異な石造の古墳とみられる。
村教委によると、古墳に使われた石は総重量550トンに及び、石槨に使った1個が70トンの凝灰岩は、約15km離れた二上山西麓から木製の「修羅(しゅら)」で運ばれたらしい。また、石槨を取り囲む16個の石英安山岩と、墳丘の裾に敷き詰められた凝灰岩も二上山西麓から運ばれた。
日本書紀によると、斉明天皇(594-661)は661年に死去。667年までに娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)と合葬された。また続日本紀は、陵が699年に修造されたと伝えている。(注1)
野口王墓古墳(天武・持統天皇合葬陵)や中尾山古墳(推定、文武天皇墓)など7世紀の天皇陵は、いずれも八角形とみられ、牽牛子塚が天皇陵であることは確実。間仕切りをして2室にした石槨の構造、間人皇女と同年代の女性とみられる歯などの出土品と合わせ、斉明陵が、宮内庁が指定する同古墳から南西約2・5kmにある奈良県高取町の車木ケンノウ古墳(直径45m、円墳)ではなく、牽牛子塚古墳だとほぼ確定した。
現地見学会が、11、12日午前10時~午後4時に開かれる。
[参考:毎日新聞、産経新聞、共同通信、時事通信、読売新聞、KTV関西テレビ、「斉明天皇の葬地」(明日香村「広報あすか」2010.9月号)]
(注1)
日本書紀 天智天皇6年(667) 春二月の壬辰の朔戊午。 天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す。
続日本紀: 文武天皇3年(669) 10月20日辛丑。遣淨廣肆衣縫王。直大壹當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。(略)功修造焉。
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牽牛子塚古墳は、飛鳥時代の古墳が集中する明日香村北西部に位置する。巨大な凝灰岩をくりぬいた埋葬施設の横口式石槨が露出し、過去の調査で「夾紵棺(きょうちょかん)」などが出土していたが、墳丘の構造は未確認だった。
墳丘北西の裾に計20mにわたって、幅約1m、深さ約20cmの溝の中に凝灰岩の切り石(長辺約40~60cm、短辺約30~40cm、厚さ約30cm)を敷き並べているのが見つかった。石敷きは9mの1辺と、135度の角度でつながる左右2辺の一部が確認され、墳丘を八角形に囲んでいることが分かった。八角形の対辺の長さは22mで、石敷きの外側に2重に敷かれた小石を含めると、対辺32m以上。石敷きからの高さは4.5m以上とみられ、墳丘斜面にも凝灰岩の切り石を並べた跡があった。
また、石槨を囲む縦2.8m、横1.2m、厚さ70cm、重さ5トンの直方体の切り石(石英安山岩)が3個見つかった。石槨を保護する目的があったという。石槨は入り口部分を除き、16本の柱で囲っていたと推測される。
石槨は東西5m、南北3.5m、高さ2.5m、重さ約70トンの1個の巨大な凝灰岩をくり抜いた構造で、中央を壁で仕切り、2人用の合葬墓として造られていたと判明した。
石造埋葬施設の周りに巨大な切り石を立て並べ、築造当初は墳丘表面も切り石をピラミッド状に積み上げた特異な石造の古墳とみられる。
村教委によると、古墳に使われた石は総重量550トンに及び、石槨に使った1個が70トンの凝灰岩は、約15km離れた二上山西麓から木製の「修羅(しゅら)」で運ばれたらしい。また、石槨を取り囲む16個の石英安山岩と、墳丘の裾に敷き詰められた凝灰岩も二上山西麓から運ばれた。
日本書紀によると、斉明天皇(594-661)は661年に死去。667年までに娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)と合葬された。また続日本紀は、陵が699年に修造されたと伝えている。(注1)
野口王墓古墳(天武・持統天皇合葬陵)や中尾山古墳(推定、文武天皇墓)など7世紀の天皇陵は、いずれも八角形とみられ、牽牛子塚が天皇陵であることは確実。間仕切りをして2室にした石槨の構造、間人皇女と同年代の女性とみられる歯などの出土品と合わせ、斉明陵が、宮内庁が指定する同古墳から南西約2・5kmにある奈良県高取町の車木ケンノウ古墳(直径45m、円墳)ではなく、牽牛子塚古墳だとほぼ確定した。
現地見学会が、11、12日午前10時~午後4時に開かれる。
[参考:毎日新聞、産経新聞、共同通信、時事通信、読売新聞、KTV関西テレビ、「斉明天皇の葬地」(明日香村「広報あすか」2010.9月号)]
(注1)
日本書紀 天智天皇6年(667) 春二月の壬辰の朔戊午。 天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す。
続日本紀: 文武天皇3年(669) 10月20日辛丑。遣淨廣肆衣縫王。直大壹當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。(略)功修造焉。
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