岐阜市教育委員会は1日、岐阜城下町遺跡(岐阜市松ヶ枝町)の発掘調査で、戦国武将斎藤道三が、後に岐阜城となる稲葉山城があった稲葉山(現・金華山)の麓に築いたとされる城下町の遺構が初めて確認されたと発表した。
16世紀中期の斎藤道三の時代に築かれた武家屋敷の一部とみられる掘立柱建物の跡や井戸、屋敷の庭園に使ったとみられる石組み遺構、武家屋敷の敷地を区画する幅約5mの溝などが確認された。今回確認された地下約1mの遺構の上層には、火災によって焼けた土や炭の層が約10cmの厚さで堆積していた。消失した建物のものと思われる炭や、中国・明時代の青磁や白磁、瀬戸・美濃産陶器など同時代の陶磁器の破片も土中から発見された。 信長家臣の太田牛一が記録した「信長公記」には、永禄10年(1567)信長が美濃に攻め入り、城下町に火をつけたという記述があり、今回の発見はこの記述の裏付けとなった。
またこの直後、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスが信長と面会するため訪問しており、1569年に書かれたイエズス会への報告書の記述とも符合しているとする。
現地説明会は5日(土)午前10時から12時まで開催される。 同時に「信長公居館発掘調査」の現場一般公開も行われる。
[参考:共同通信、読売新聞、岐阜市HP]
16世紀中期の斎藤道三の時代に築かれた武家屋敷の一部とみられる掘立柱建物の跡や井戸、屋敷の庭園に使ったとみられる石組み遺構、武家屋敷の敷地を区画する幅約5mの溝などが確認された。今回確認された地下約1mの遺構の上層には、火災によって焼けた土や炭の層が約10cmの厚さで堆積していた。消失した建物のものと思われる炭や、中国・明時代の青磁や白磁、瀬戸・美濃産陶器など同時代の陶磁器の破片も土中から発見された。 信長家臣の太田牛一が記録した「信長公記」には、永禄10年(1567)信長が美濃に攻め入り、城下町に火をつけたという記述があり、今回の発見はこの記述の裏付けとなった。
またこの直後、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスが信長と面会するため訪問しており、1569年に書かれたイエズス会への報告書の記述とも符合しているとする。
現地説明会は5日(土)午前10時から12時まで開催される。 同時に「信長公居館発掘調査」の現場一般公開も行われる。
[参考:共同通信、読売新聞、岐阜市HP]
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