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羽曳野市・塚穴古墳 北側の土手に人工築山を持つ外堤が見つかる

2010年01月15日 | Weblog
 同市教育委員会が14日、聖徳太子の弟、来目皇子(?-603)の墓と伝えられる塚穴古墳(1辺54mの方墳、7世紀前半)の北側で、大規模に盛り土を施した人工の築山(つきやま)状遺構がある巨大な外堤(高さ3m、幅38m、長さ推定130m)が見つかったと発表した。
 従来は自然地形と考えられていた北側を発掘調査した結果、人工的な築山を確認した。土手は、推定で幅約38m、高さ2・4m以上あり、北側の土手の両端から南に延びる東西の土手も、盛り土だった可能性がある。
 築山は、粘土や砂などを交互に積み重ねた厚さ約1mで幅22mにわたって確認された。調査区域一帯は現在も周囲より数m高くなっている。
 平成18年の調査では、墳丘南側に高さ2・5m、長さ約100m、幅約16mの外堤が確認されている。今回の調査や現在の地形をもとに推定すると、外堤を含めた古墳の規模は130m四方(総面積約1万7千㎡)で、同時代の蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(奈良県明日香村)の85㎡四方を大きく上回り、国内最大級になるという。
 飛鳥時代の皇族クラスの墓は、中国の風水思想に基づき、墳丘北側に山、南側に谷が広がる場所に築かれたともいわれており、塚穴古墳は比較的平坦な場所にあるために、墳丘北側に人工の築山を設けた可能性もあるという。
 来目皇子説を補強する資料となりそうだという。
 日本書紀によると、来目皇子は推古10年(602)に新羅征討将軍に任じられ筑紫に赴いたが、翌年筑紫にて病死。周防の国で殯した後、「河内の埴生山の岡の上(現在の羽曳野丘陵)に葬る」とされている。
 現地説明会は行われない。
[参考:産経新聞、共同通信、読売新聞]

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