歴歩

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エライザ・シドモア提唱によるワシントンD.C.のポトマック河畔の桜が2012年に100周年を迎える

2010年04月11日 | 小泉八雲
 ナショナル・ジオグラフィック(日本版)2010年4月号の記事、『日本の百年』の中の「桜を愛した米国女性の一生」で、The National Geographic Society (NGS)1914年7月号「若き日本」の取材で米国人ジャーナリスト、エライザ・シドモア(Eliza Ruhamah Scidmore、1856-1928)の言葉「4月の陽光を浴びて咲く桜ほど、理想的なものはない」を、当時撮った写真とともに紹介していた。
 シドモアは1884年に初来日して以来、桜に魅了され、日米友好の証として、ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜を植えることを提唱した人と知られる。東京市(市長・尾崎行雄)と大統領夫人(ヘレン・タフト)の協力を得て、1912年に植樹が実現した。再来年は、100周年を迎える。
 さらに、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850-1904)も「日本の庭にて」で、親交のあったチェンバレン教授(B.H. Chamberlain)(1850-1935)から、「ヨーロッパのどんな花も比較にならないほど美しい」と紹介し、自らも桜の花を武士の生き方に例え「高い礼節と、きめ細やかな情感と清廉潔白な生き方の象徴」と賛美している。
小泉八雲が来日したのは1890年であるから、シドモアは八雲より6年も早く来日している。二人に交流があったかはわからない。

2010.6.12追記
 2012年は、米国・ワシントンDCのポトマック川沿いにある桜並木が、日本から友好の証しとして贈られて100周年に当たる。 桜並木の実現は、エリザ・R・シドモア(注1)と当時の大統領夫人ヘレン・H・タフトの2人の女性によるところが大きいが、その実現を果すためには、多くの関係者の苦労と努力があった。
(注1) エライザ・シドモア(Eliza Ruhamah Scidmore、1856-1928)は、講談社学術文庫ではエリザ・R・シドモアと表記している。

 タフト大統領の出身地・オハイオ州シンシナティ市立クローン植物園では4月~6月に「日本のチョウ展」を開催した。 オオムラサキ、オオゴマダラ、ナガサキアゲハ、リュウキュウアサギマダラ、アゲハの5種類計900頭のチョウを育成し発送したのは、足立区生物園(足立区保木間2丁目)。 ちなみに、ポトマック川沿いの桜並木の桜の穂木には植物学者三好学博士の助言により、荒川堤(現足立区)の桜が使われている。


 写真は足立生物園のオオゴマダラと龍谷寺(盛岡市名須川町)のモリオカシダレ(国・天然記念物)。
 モリオカシダレは大正9年(1920)、三好学博士が龍谷寺で新種として発見した。 龍谷寺は石川啄木(1886-1912)の伯父・葛原対月(妹が啄木の母)が住職(1871-1892)をしていた。 少年時代の啄木は、しばしばこの寺を訪れて、伯父対月から詩歌の手ほどきを受けたと伝えられる。
 エライザ・シドモアが初来日したのは1884年秋であるが、観桜したと初めて記されるのは1886年4月浜離宮でのことである。 この年に啄木が生まれている。

2011.4.15追記
 外務省のホームページでも2月付けで、「日米桜寄贈100周年」として掲載されている。
 この記事を載せたときから懸念していたが、すなわち「1912年3月27日にタフト大統領夫人と珍田大使夫人によってワシントンDCのポトマック河畔に植樹されました。」と記され、最大の功労者であるエライザ・シドモアの名前が消されてしまっていること。現地のポトマック河畔の説明文でも同様に、植樹に立ち会った珍田大使夫人がいかにも功労者のような書き方には本当の歴史が失われてしまう。


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