天台宗・長谷山(ちょうこくさん)聖天院(しょうてんいん)西光寺(さいこうじ) (東京都調布市上石原1丁目28-3)
縁起については、不明、不確かな部分があります。 また、聖天院は「しょうてんいん」なのか「しょうでんいん」なのか確かめていません。 埼玉県日高市にある高麗山聖天院勝楽寺は「しょうでんいん」です。
西光寺は、応永2年(1396)に石原聖天坊法師(幸承)により開基されたと伝えられています。
西光寺の前身は、現在の若宮八幡宮(調布市下石原3丁目5−1)の所にあり、聖天院という祈祷が主であった修験寺でしたが、上石原のの移転に伴い、現在の地に移されたそうです。
寛永年間(1624-1643)、のちの深大寺住職弁盛上人が真言系の寺院から天台宗に改め、深大寺末寺48寺の学頭寺として生れかわりました。
これにより、慶安2年(1649)11月に徳川三代将軍家光公より14石2斗の御朱印状を賜わりました。
本尊は本堂に納められている阿弥陀如来三尊です。
上左:山門、上右:仁王門、下左:本堂、下右:観音堂 近藤勇像
表門を入ると、山門、仁王門、観音堂が北から南に順に並んで配置され、観音堂の東隣に本堂が西向きに建てられています。
山門の手前左(東)に、平成13年に建立された新撰組局長近藤勇の像があります。近藤勇(1834-1868)は西光寺と同じ武蔵国多摩郡上石原村で誕生しました。 慶応3年(1867)3月、甲陽・鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣しました。その途中、西光寺で休憩し、その時、上石原村の鎮守・若宮八幡神社の方角を向き必勝を祈願したと言われています。しかしながら、勝沼・柏尾山の戦いで官軍に敗れ、二度と故郷へ戻ることはありませんでした。
西光寺から南へ600mのところに上石原若宮八幡神社があります。 また、近藤勇の生家(宮川家の旧家)跡が西光寺から北へ3kmのところにあります。そこから東へ500mのところには、曹洞宗萬松山龍源寺があり、宮川家および近藤家の菩提寺となっています。
山門の棟には「丸に桔梗」紋がありました。他の建物にも同じ「丸に桔梗」です。 観音堂にだけ「複弁八葉蓮華文」?が使用されています。桔梗紋は真言宗・智積院の寺門ですが、当寺は「丸に桔梗紋」を使用しています。 もとは真言密教の寺であった名残として使用しているのかもしれないということです。
□ 仁王門は2階に銅鐘が吊るされた鐘楼仁王門です。
市指定文化財に指定されており、調布市HPでは、「市内に残る唯一の仁王門で、寺の記録によると、西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(1704~10)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである」としています。
釣鐘の銘には、「西光蘭若、(略)、享保二丁酉天十一月吉日 願主 辨雄法印、長谷山聖天院西光寺、當寺務 本願施主 恭辨法印、下野国佐野天明町鋳師大工 長谷川弥市 藤原吉半 橋想兵衛、(略)」とあり、釣鐘は61世弁雄(?-1705)の願いにて享保二年(1717) 62世恭弁(?-1725)の時に完成されたと解釈できます。
佐野天明鋳物は平安時代の天慶2年(939)に、下野国の豪族であった藤原秀郷が、河内国から5人の鋳物師(いもじ)を連れてきたのが始めといわれ、室町時代になると茶の湯の世界で筑前の芦屋の釜と並んでその名を知られました。
長谷川弥市作のものは、ほかにも下記などがあります。
埼玉県加須市・不動ケ岡不動尊總願寺倶利伽羅不動剣 (1739年)
群馬県太田市鳥山上町・西慶寺梵鐘 (1742)
群馬県太田市細谷町・教王寺(真言宗)梵鐘 (1748年)
仁王像については、作者・造年など不明なので触れるのをやめます。
□ 観音堂は、元禄年間(1688~1703)に当寺六二世恭弁和尚の有縁である長谷川五兵衛尉正明(1645-1716)が当地を拝領したことから、報謝のため寄進しました。
正明は、堂内の本尊・十一面観世音菩薩と三十三身尊像なども寄進しています。
十一面観音は聖天宮の本地仏としてお祀りしたものと思われます。 安永四年の『新古什物帳』によると、「十一面本尊観音像厨子入壱体」と記載されています。
調布市HPには、「観音三十三身像は、観音菩薩が人々を救うために、いろいろな姿で現われるという『法華経』の教えを造形化したもので、観音霊場の33か所という数字も、これを表したものです。(略)。 正明が、「天下御泰平国土御安全」のために、元禄11年(1698)に寄進したことが台座裏に記されています。」、と記されています。
文化七年(1812)の『新篇武蔵風土記稿』(文政11年(1828)江戸幕府編纂)によれば、観音堂のことを、
「本堂ノ前、西ニ向ヒテアリ、三間ニ、三間半萱葺向拝五尺二九尺椽欄附、長谷山ノ三字ヲ扁ス、佐玄龍ガ筆ナリ、
十一面観音、木ノ立像ニシテ、タケ一尺八寸其ノ作不伝」
とあり、この額の裏には、
「元禄十一年(1698)三月、願主六十二世恭弁」
と記されています。
和尚はその縁にちなみ、当山をその後、長谷山と称するようになったといわれます。
佐玄龍とは佐々木池庵(1650-1722)で、加賀の人。 唐様・朝鮮系の書体で知られた能書家です。
現在の観音堂は昭和59年に再建されたものです。
正明は、正長(1536-1573)の3男正吉(1569-1608)を初代とし、正信、正相に続き4代目に当ります。正吉は群馬県吉井町の曹洞宗仁叟寺に、正信、正相、さらに正明の次、5代目正武は文京区駒込の曹洞宗吉祥寺に葬られていますが、何故か正明(戒名:多門院殿観明日音居士)は台東区谷中の日蓮宗大行寺に葬られています。
[参考資料:「調布市百年史」昭和43年調布市役所発行、「調布市史」平成2年同編纂委員会発行、天台宗東京教区HP→西光寺、調布市HP→文化財、新篇武蔵風土記稿(文政11年(1828)江戸幕府編纂)]
2012.5.19追記
読売新聞の朝刊で、埼玉県熊谷市の「歓喜院聖天堂」が国宝にとの記事があった。読みは「かんぎいんしょうでんどう」である。
キーワード: 長谷川正長、長谷川正吉
縁起については、不明、不確かな部分があります。 また、聖天院は「しょうてんいん」なのか「しょうでんいん」なのか確かめていません。 埼玉県日高市にある高麗山聖天院勝楽寺は「しょうでんいん」です。
西光寺は、応永2年(1396)に石原聖天坊法師(幸承)により開基されたと伝えられています。
西光寺の前身は、現在の若宮八幡宮(調布市下石原3丁目5−1)の所にあり、聖天院という祈祷が主であった修験寺でしたが、上石原のの移転に伴い、現在の地に移されたそうです。
寛永年間(1624-1643)、のちの深大寺住職弁盛上人が真言系の寺院から天台宗に改め、深大寺末寺48寺の学頭寺として生れかわりました。
これにより、慶安2年(1649)11月に徳川三代将軍家光公より14石2斗の御朱印状を賜わりました。
本尊は本堂に納められている阿弥陀如来三尊です。
上左:山門、上右:仁王門、下左:本堂、下右:観音堂 近藤勇像
表門を入ると、山門、仁王門、観音堂が北から南に順に並んで配置され、観音堂の東隣に本堂が西向きに建てられています。
山門の手前左(東)に、平成13年に建立された新撰組局長近藤勇の像があります。近藤勇(1834-1868)は西光寺と同じ武蔵国多摩郡上石原村で誕生しました。 慶応3年(1867)3月、甲陽・鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣しました。その途中、西光寺で休憩し、その時、上石原村の鎮守・若宮八幡神社の方角を向き必勝を祈願したと言われています。しかしながら、勝沼・柏尾山の戦いで官軍に敗れ、二度と故郷へ戻ることはありませんでした。
西光寺から南へ600mのところに上石原若宮八幡神社があります。 また、近藤勇の生家(宮川家の旧家)跡が西光寺から北へ3kmのところにあります。そこから東へ500mのところには、曹洞宗萬松山龍源寺があり、宮川家および近藤家の菩提寺となっています。
山門の棟には「丸に桔梗」紋がありました。他の建物にも同じ「丸に桔梗」です。 観音堂にだけ「複弁八葉蓮華文」?が使用されています。桔梗紋は真言宗・智積院の寺門ですが、当寺は「丸に桔梗紋」を使用しています。 もとは真言密教の寺であった名残として使用しているのかもしれないということです。
□ 仁王門は2階に銅鐘が吊るされた鐘楼仁王門です。
市指定文化財に指定されており、調布市HPでは、「市内に残る唯一の仁王門で、寺の記録によると、西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(1704~10)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである」としています。
釣鐘の銘には、「西光蘭若、(略)、享保二丁酉天十一月吉日 願主 辨雄法印、長谷山聖天院西光寺、當寺務 本願施主 恭辨法印、下野国佐野天明町鋳師大工 長谷川弥市 藤原吉半 橋想兵衛、(略)」とあり、釣鐘は61世弁雄(?-1705)の願いにて享保二年(1717) 62世恭弁(?-1725)の時に完成されたと解釈できます。
佐野天明鋳物は平安時代の天慶2年(939)に、下野国の豪族であった藤原秀郷が、河内国から5人の鋳物師(いもじ)を連れてきたのが始めといわれ、室町時代になると茶の湯の世界で筑前の芦屋の釜と並んでその名を知られました。
長谷川弥市作のものは、ほかにも下記などがあります。
埼玉県加須市・不動ケ岡不動尊總願寺倶利伽羅不動剣 (1739年)
群馬県太田市鳥山上町・西慶寺梵鐘 (1742)
群馬県太田市細谷町・教王寺(真言宗)梵鐘 (1748年)
仁王像については、作者・造年など不明なので触れるのをやめます。
□ 観音堂は、元禄年間(1688~1703)に当寺六二世恭弁和尚の有縁である長谷川五兵衛尉正明(1645-1716)が当地を拝領したことから、報謝のため寄進しました。
正明は、堂内の本尊・十一面観世音菩薩と三十三身尊像なども寄進しています。
十一面観音は聖天宮の本地仏としてお祀りしたものと思われます。 安永四年の『新古什物帳』によると、「十一面本尊観音像厨子入壱体」と記載されています。
調布市HPには、「観音三十三身像は、観音菩薩が人々を救うために、いろいろな姿で現われるという『法華経』の教えを造形化したもので、観音霊場の33か所という数字も、これを表したものです。(略)。 正明が、「天下御泰平国土御安全」のために、元禄11年(1698)に寄進したことが台座裏に記されています。」、と記されています。
文化七年(1812)の『新篇武蔵風土記稿』(文政11年(1828)江戸幕府編纂)によれば、観音堂のことを、
「本堂ノ前、西ニ向ヒテアリ、三間ニ、三間半萱葺向拝五尺二九尺椽欄附、長谷山ノ三字ヲ扁ス、佐玄龍ガ筆ナリ、
十一面観音、木ノ立像ニシテ、タケ一尺八寸其ノ作不伝」
とあり、この額の裏には、
「元禄十一年(1698)三月、願主六十二世恭弁」
と記されています。
和尚はその縁にちなみ、当山をその後、長谷山と称するようになったといわれます。
佐玄龍とは佐々木池庵(1650-1722)で、加賀の人。 唐様・朝鮮系の書体で知られた能書家です。
現在の観音堂は昭和59年に再建されたものです。
正明は、正長(1536-1573)の3男正吉(1569-1608)を初代とし、正信、正相に続き4代目に当ります。正吉は群馬県吉井町の曹洞宗仁叟寺に、正信、正相、さらに正明の次、5代目正武は文京区駒込の曹洞宗吉祥寺に葬られていますが、何故か正明(戒名:多門院殿観明日音居士)は台東区谷中の日蓮宗大行寺に葬られています。
[参考資料:「調布市百年史」昭和43年調布市役所発行、「調布市史」平成2年同編纂委員会発行、天台宗東京教区HP→西光寺、調布市HP→文化財、新篇武蔵風土記稿(文政11年(1828)江戸幕府編纂)]
2012.5.19追記
読売新聞の朝刊で、埼玉県熊谷市の「歓喜院聖天堂」が国宝にとの記事があった。読みは「かんぎいんしょうでんどう」である。
キーワード: 長谷川正長、長谷川正吉
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