歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

総社市・窪木遺跡 庇付きの大型建物跡が出土、賀夜郡衙跡か

2010年02月17日 | Weblog
 総社市教委が発掘調査している窪木遺跡(同市窪木)で15日までに、格式の高い庇付きの大型建物を中心に大溝などが規則的に配され、鍛冶工房跡も付属した藤原京期(7世紀末〜8世紀初め)の遺構群が出土した。所在地不明だった賀夜郡衙跡とみられるという。
 同遺跡は郡名寺院である栢(かや)寺廃寺の約200m東にあり、北に鬼ノ城を望める場所にある。
 古代・備中国は、『和名類聚抄』では都宇・窪屋・賀夜・下道・浅口・小田・後月・哲多・英賀の九郡があったとされる。賀夜郡は、南は現在の岡山市西部から北は高梁市まで及び、備中国全体の行政府・国府も所在したと記録される。だがこれまで、同時期の官衙遺跡は確認例がなかった。
[参考:山陽新聞、岡山県古代吉備文化財センターHP]

過去の関連ニュース・情報
 2008.6.21 総社市・大文字遺跡・栢寺廃寺 岡山県内最古の文字瓦出土



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百済時代木製品の中に、日本産の樹木が多数含まれていることを分析で確認

2010年02月16日 | Weblog
 百済、最後の首都扶余で発掘された木製品に、日本列島だけに自生するスギが多数使われたことが16日確認された。
 これらは、国立中央博物館保存科学チームと国立扶余博物館保存科学室が、扶余地域の百済時代遺跡である陵山里(능산리)と双北里(쌍북리)、そして宮南池(궁남지)出土木製品16件70点のうち、53点に対する樹種を最近分析した結果明らかになった。
 分析結果、これら木製品からマツ(소나무)類、クヌギ(상수리나무)類、ケヤキ(느티나무)類、クリの木(밤나무)属、クワ(뽕나무)属、ヤナギ(버드나무)類・ビワの木(비자나무)、スギ(삼나무)、クルミの木(굴피나무)、ナツメの木(대추나무)属・モミの木(전나무)属の12種類が現れた。日本特産樹種のスギは全体の16%、9点であった。
 スギで製作した木製品は刃物状であり、機能が推察しにくい他の加工製品も含まれた。
 「スギは韓国では育たない日本特産樹種で、加工と工作が易しくて日本では建築用材をはじめとして、機具、家具、船舶などその利用範囲が広く、このようにスギ製品が検出されたことは、当時の百済と日本とに活発な交流が確認できる」と保存科学チームは説明している。
 他にビワの木、モミの木で作られた木製品もまた、「韓国ではこれら木が生育する所が限定され、スギとともに日本から持ってきた可能性がある」と付け加えた。
 百済時代の木製品出土遺物中、武寧王陵の棺材が日本特産コウヤマキ(金松、금송)でもあり、さらに武寧王妃の木製頭枕(두침)も日本特産である可能性が大きいと発表された。さらに宮南池出土木簡1点もまた、日本産スギが原料であることが判明した。
 これらの分析結果は、国立中央博物館が発刊する学術誌の「博物館保存科学」2009年12月号(通巻10集)に掲載された。
[参考:聨合ニュース]
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岐阜市・岩田西遺跡 「美濃国」と刻印された奈良時代(8世紀)の須恵器の破片2点が出土

2010年02月16日 | Weblog
 岐阜市教育文化振興事業団埋蔵文化財調査事務所は15日、岩田西遺跡(岐阜市岩田西2丁目ほか)の人工的な水路跡などから「美濃国」と刻印された奈良時代の須恵器2点が見つかったと発表した。
 見つかった須恵器の破片は、直径10cmの須恵器の杯(つき)の底部分で、縦3・5cm、横2・5cmの「美濃国」の刻印があった。別の1点は縦7cm、横4・5cmの三角形の焼き物の一部で縦2・8cm、横0・8cmの刻印が見つかった。異なる字形で「美濃国」と刻印されていた。須恵器の形状などから1300年前に焼かれたとみられる。
 遺跡から1km東には須恵器の生産地として知られる同市芥見の国指定史跡「老洞(おいぼら)・朝倉須恵器窯跡」がある。美濃国と刻印入りされた須恵器はこれまで岩田東A遺跡周辺で6点が発見されたほか、長野県佐久市の西近津遺跡群や平城京(奈良県)、斎宮跡(三重県)など6府県で見つかっている。これらは老洞・朝倉須恵器窯跡で造られ、長良川を通じて広く流通したとみられていた。
 今回、老洞・朝倉須恵器窯跡と長良川の間に位置する岩田西遺跡の人工的な水路跡などで須恵器が出土したため、発掘した同事務所は「同窯跡で生産された須恵器を長良川に運び出す物流拠点が岩田西遺跡付近に存在したのではないか」と指摘する。
 市道拡幅に伴い、昨年3月から今年1月14日まで、岩田西遺跡と隣接の岩田東A遺跡計2040㎡を発掘調査した。その結果、弥生土器や須恵器、土師器、石器など約3万点が出土した。刻印付き須恵器片は、幅4~5m、長さ約10mの人工水路(奈良~平安時代)から出土した。
 岩田西遺跡ではこれまで平安時代の水路や、室町、戦国時代の水田跡などが見つかっている。
 発掘された須恵器2点を含む出土品は、21日午後1時半に同市芥見の東部コミュニティセンターで開く「市東部地域歴史講座」で展示する。
[参考:岐阜新聞、中日新聞、毎日新聞]

過去のニュース・情報
  2010.1.21 佐久市・西近津遺跡群「美濃国」刻印の須恵器が出土


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池島・福万寺遺跡 弥生時代中期の水田跡や水路跡などが出土

2010年02月16日 | Weblog
 大阪府文化財センターの調査で池島・福万寺遺跡(東大阪市池島町)から、弥生時代中期(紀元前1世紀頃)の水田跡や水路跡などが出土した。大規模で組織的な水田経営の一端がうかがえるという。
 2008年11月から恩智川治水緑地の整備に伴う発掘調査で、南から北へ流れる川跡(幅19~24m、深さ約2m)約70m分を確認した。川跡の東側には人工の土手(幅2m、残存の高さ0・5~0・6m)、その東側に、畦で区切られた水田跡4枚(1枚約200㎡)が広がっていた。川跡には杭40~50本を打ち込んだ堰の痕跡があり、そこから取水して、水田に供給していたとみられる。
 現地公開が、恩智川治水緑地Ⅱ期用地内(東大阪市池島町)で20日午前10時から正午まで行われる。
[参考:読売新聞、大阪府文化財センター]



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渋川市・行幸田寺後遺跡 平安時代の石帯の「巡方」が出土

2010年02月16日 | Weblog
 渋川市が発掘調査していた同市行幸田の行幸田寺後(みゆきだてらうしろ)遺跡で、平安時代の住居跡から役人が身に着けていたとみられる石帯という腰帯に付ける飾り「巡方」(じゅんぽう)が出土した。
 出土した巡方(幅3.3cm、厚さ6.0mm)は、石製で濃緑色。奈良~平安時代の役人は、官位ごとに身に付ける帯金具と石帯で飾られた銙帯(かたい)にも、色や幅が細かく決められていた。
 巡方を含めた同様の装飾品の出土例は県内で100例を超えるとされるが、国衙など大きな役所がなかった同地にも役人が住んでいた可能性があるとみられる。
 同市ではこれまでに、かまぼこ型の飾り「丸鞆(とも)」4例と、巡方と思われる破片の出土があるが、完全な巡方の発見は初めてという。
 出土した巡方は、現在、北橘総合支所内の同課で展示されている。
[参考:上毛新聞、渋川市HP]
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淡路市・垣内遺跡 出土した土器の復元から丹波との交易浮上

2010年02月15日 | Weblog
 弥生時代後期の鍛冶工房跡とみられる「垣内遺跡」(同市黒谷)から出土した土器の復元作業の結果、垣内の工人たちと丹波地方の人たちとの交易が浮かび上がってきた。
 遺跡からはコンテナ約200箱に上る土器のかけらが見つかっており、市埋蔵文化財事務所で復元作業が進められている。これまでに高坏や甕、壺が昔の姿を取り戻した。
 昨年8月、3か年計画で県の「垣内遺跡調査研究プロジェクト」が発足。今月4日、全体検討会が開かれ、石野博信・県立考古博物館長や村上恭通・愛媛大教授(冶金考古学)ら8人が参加し復元作業を見学した。
 その際、メンバーが一つの高坏に注目し、「土が違う。これは丹波系」と、形状などを詳細に確かめた。鉄素材の輸入ルートとして朝鮮半島からの直接ルート、九州や瀬戸内経由のほかに、日本海ルートも今後、検討する必要が出てきた。
 当日の全体会では、土器に年代幅があるという意見で一致し、市教委が述べてきた1世紀中頃~3世紀初めにまたがる遺跡であることを確認した。今後は23棟の竪穴建物跡ごとに遺構面と上層面で、高坏やt壺や甕などそれぞれの出土状況と年代を分け、各建物が使われた年代の変遷を探る方針だ。
[参考:読売新聞]

過去のニュース
 2010.1.28 垣内遺跡 08年度に出土した鉄製品(板状鉄斧)は朝鮮半島南部製か
 2009.6.26 垣内遺跡 保存のため埋め戻し始まる
 2009.4.4 垣内遺跡 国内最大の弥生後期の鉄器工房


キーワード: 五斗長垣内遺跡

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盛岡市・川目A遺跡 土偶700点を発掘 男性風土偶も出土

2010年02月15日 | Weblog
 岩手県埋蔵文化財センターが13日遺跡報告会で、盛岡市川目の川目A遺跡で土偶約700点を発掘したと明らかにした。
 これほどの数の土偶が一遺跡で発掘されるのは、三内丸山遺跡(青森県)や釈迦堂遺跡(山梨県)など、県内では北上市の九年橋遺跡と少ない。
 センターが2006~09年に行った同遺跡の第5次調査で、縄文時代後期から晩期(約4000年~2500年前)の遺跡と判明し、石器類約6万点、土器類約10トンなど膨大な出土品が見つかった。
 発掘された土偶は、板状土偶や遮光器土偶などの全体もしくは一部で、最大で全長20cmほど。男性風土偶は、腹からひざ部分の下半身で長さ7cmほど。土偶は全国で1万点以上発見されているが、ほとんどが女性がモデルと見られ、男性土偶は花巻市の石鳩岡遺跡や北海道千歳市のウサクマイ遺跡などで出土しただけという。
 川目A遺跡では、石群が半円状に並ぶ配石機構、土偶や非実用的な石器が多数発見。一方、住居が2棟と少なく居住地から独立した葬儀や祭祀の場に特化されていた可能性があるという。
[参考:読売新聞]

過去のニュース・情報
2005年 9月 5日 (月) 盛岡タイムスより
 川目A遺跡は簗川南岸の狭い平坦面に立地している。縄文時代晩期の配石遺構(ストーンサークル)32基。お墓跡と考えられる土坑が83基確認されている。
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松原市、羽曳野市・河内大塚古墳 陵墓参考地、18日より府内初調査

2010年02月13日 | Weblog
 宮内庁は12日、大塚陵墓参考地に指定している松原・羽曳野両市にまたがる河内大塚古墳について、日本考古学協会など16の学会に対し18日に立ち入り調査を認めたと発表した。
[参考:読売新聞]

河内大塚古墳
 全長335mの前方後円墳。前方部230m(高さ4m)、後円部180m(高さ20m)、楯形の三重周濠がある。
 前方部をほぼ北に向けて立地する。江戸時代18世紀後半頃まで「磨戸石」とよばれる横穴式石室の一部が後円部南東に開口していたという。
 築造時期は6世紀中葉から後半とみられている。

過去のニュース・情報
 2008.12.10 松原市・河内大塚山古墳 発掘中の陵墓参考地を考古学研究者らが見学 周濠浅かった
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白山市・横江荘遺跡 新たに東側回廊跡とみられる柱列を確認

2010年02月11日 | Weblog
 白山市教委は9日までに、石川郡庁か寺院跡いずれかの可能性がある「横江荘遺跡」(同市横江町)で、新たに東側回廊跡の一部とみられる柱列などを確認した。
 今回の調査では、東側回廊跡の一部とみられる幅3m、長さ約6mの柱列跡が見つかり、既に見つかっている西側回廊跡とみられる柱列と合わせて、東西方向の遺構の大きさが約54mと分かった。
 また、遺構中心部の発掘では、郡庁跡なら正殿、寺院跡なら本殿とみられる建物跡の大きさが、縦約6m、横約16mと判明。北側の門の可能性がある総柱建物跡は縦約8m、横約10mと推定された。
[参考:富山新聞、北國新聞]

過去の関連ニュース・情報
  2008.7.11 横江荘遺跡 周辺から仏具が出土し郡庁跡か寺院跡か確定できず
  2008.7.9 横江荘遺跡 近くに正殿の柱列跡か 『石川郡庁』確定的に
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伊予市・池田遺跡 四国最古・6世紀後半の黒色土器が出土

2010年02月10日 | Weblog
 県埋蔵文化財調査センターは10日、去年4月から行われた池田遺跡(伊予市下吾川)の発掘調査で古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初)の集落跡と四国最古、6世紀後半の黒色土器が出土したと発表した。
 6世紀中頃から7世紀初頭の竪穴住居18棟や柱穴110本、自然流路、須恵器、土師器、土錘、砥石などが出土。住居跡から黒色土器の碗2個体を発掘した。
 黒色土器は土師器に炭素を吸着させ保水性がある。今回の土器は一緒に出土した須恵器の年代から6世紀後半のものと推定。四国で一般的になるのは9世紀後半以降で、この時期の出土例はない。
 現地説明会が今月13日午後1時から行われる。
[参考:愛媛新聞、RNB南海放送、愛媛県埋蔵版家財調査センター]



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倉吉市・東前遺跡 弥生中期の玉作り工房跡確認

2010年02月10日 | Weblog
 同市教委は8日、同市不入岡(ふにおか)の東前遺跡(ひがしまえいせき)から竪穴式住居3棟を確認し、遺構から多数の碧玉製管玉の未完成品、失敗作、さらにサヌカイト製石針や砥石、石鋸などの工具類が出土し、玉作り工房跡とわかったと発表した。
 錐(きり)のように回して管玉に穴を開けるサヌカイト製石針は直径1.3~1.9mm、長さ7~22.8mmのものが9本出土した。
 出土した土器から弥生時代中期(約2200年前)のものとみられる。サヌカイト製の石針は県内で初出土。玉作り工房跡が確認されたのは市内では初めて。県内でも数例しかないという。
 建物跡は2棟が直径約8m、1棟が直径約7m。それぞれ重なっており、建て替えた際に少しずらしたらしい。いずれの建物跡からも管玉の未完成品などが見つかった。石鋸で溝を切って角柱に割ったもの、未穿孔のもの、穿孔途中の未完成品と、失敗して割れてしまったものなどがあった。完成品だと長さ5mm前後の管玉となる。細いものは直径2.1mmしかなく、高度な技術を有していた。
 碧玉は周辺では産出されず、また管玉の製作技法が北陸地方の技法と同じで、何らかの交流があった可能性があるとみている。
 同様の玉作り工房は鳥取市の青谷上寺地遺跡でも確認されており、繋がりがあった可能性がある。
[参考:日本海新聞、毎日新聞]


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奈良県明日香村・飛鳥京跡 3m幅の大きな溝から大量の土器が出土

2010年02月10日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所が明日香村の飛鳥京跡で行った「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の世界遺産登録に向けた発掘調査で、飛鳥京跡で最大の幅3mの溝と溝から大量の土器が見つかった。京域に流れ込む水を飛鳥川に排水した基幹水路と考えられる。
 溝の中から出土した大量の土器は、古いものではハソウ、杯や蓋のある器、大小の皿など土師器や須恵器を中心にコンテナ40箱以上になる。7世紀後半の遺物が主体で、溝が埋まった時期が特定できた。
[参考:奈良新聞]
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熊本市・池辺寺跡 竹製矢柄とセットで古代の赤い鉄鏃が出土

2010年02月09日 | Weblog
 熊本県教委は9日、平安時代の山岳寺院・池辺寺(ちへんじ)跡(熊本市池上町)近くのかつて池があったとみられる場所で、9~10世紀のものとみられる赤い鉄鏃(長さ約10cm)が見つかったと発表した。赤色の顔料、ベンガラなどで塗られたと考えられ、ベンガラであれば全国で初出土となる。昨年9月、鉄鏃に装着する竹製の矢柄(15cm)と伴に出土した。
 鉄鏃は全体的に赤く色づいている。赤色は錆びの可能性もあり、今後、エックス線などで詳しく成分を分析、鑑定する。
 池辺寺跡の「池」は、味生池(あじうのいけ) に由来している。『続日本紀』に「養老2年(718)4月11日 筑後守正五位下道君首名卒。(略) 和銅末。出爲筑後守、兼治肥後國。(略)興築陂池。以廣漑潅。肥後味生池。及筑後往往陂池皆是也。(略)」と見え、味生池が和銅年末頃に国司道君首名(みちのきみのおびとな) によって築かれた灌漑用溜池であることがわかる。現在は埋没しているが、池辺寺が展開する妙観山と万日山にはさまれた低地一帯が想定地である。
 池には水害を起こす竜神がすんでいたという伝承が残っており、竜神の怒りを鎮めるため国府が行った祭事に使われた可能性もあるという。池の遺構から矢尻や矢柄が見つかるのは全国でも珍しいという。
 池辺寺と味生池は、奈良から平安初頭に肥後国の国府があったとされる二本木遺跡群の近くにあり、県教委が2006年から遺構の調査を始めている。
 県教委は14日午後1時~4時、くまもと県民交流館パレア(熊本市手取本町)で「県発掘調査速報会」を開き、矢尻など本年度の発掘成果を公開する。。
[参考:共同通信、西日本新聞、熊本県教育委員会HP]
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熊本市・北岡横穴群 6世紀後半?イモガイで飾った馬具が出土 

2010年02月09日 | Weblog
 熊本県教育委員会は9日、熊本市春日1丁目の二本木遺跡群/北岡横穴群(6~8世紀)から、琉球列島などで採取されるイモガイで飾った馬具が3個出土したと発表した。6世紀後半のものとみられる。
 馬具は直径4~5cmのイモガイの上部を輪切りにして、金銅のメッキが施された鉄製の金具を取り付けた馬の背にかける綱留め用で、祭事などに使用したとみられる。
 平成19年から始めた発掘調査で確認された横穴墓10基のうち1基から見つかった。
 イモガイを使用した馬具は6~7世紀に全国で流行したが、貝の部分が残ったままの出土品は珍しいという。
 墓道ではハソウ・横瓶・平瓶などの多くの須恵器が出土した。この遺物は6世紀後半から7世紀にかけてのものと考えられ、当時の葬送儀礼を行なった様子がうかがえるという。
[参考:産経新聞、熊本県教育委員会HP]


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奈良県明日香村・飛鳥寺 南側で石敷き広場を発見

2010年02月09日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所が9日、国内最古の寺院・飛鳥寺(6世紀末)の南門跡から南におよそ40m離れた地点を発掘したところ、「石敷き広場」の一部とみられる7世紀前半ごろの石敷きや石組みの溝の跡が見つかったと発表した。
 出土した土器や瓦の年代からおよそ1400年前の飛鳥時代のもので、これまでの調査で確認されている南北約20m、東西約70mの石敷きの広場の一部と広場に隣接した施設の跡あるいは道路と見られている。
 石敷きは広場の南辺に当たり、東西約4m、南北約5mの範囲で確認された。人頭大の川原石を丁寧に敷き詰め、平らに造成していた。南側は階段状になった石組みの側溝(幅約90cm、深さ約30cm)が付いていた。
 この側溝から南へ延びる幅60cmのL字形の石組み溝も出土し、石敷き広場の南側に張り出す方形区画の一部とみられる。
 広場などは、飛鳥寺に伴うものと見られているが、寺の施設が中国の思想を取り入れて、東西や南北の方角にそろえて配置されているのに対し、広場や溝は斜めの方向に広がっていた。
 このため、寺と広場があった土地はそれぞれ異なる時期に区画された可能性があるという。飛鳥寺より前に広場の区画があり、寺をつくる際に取り込んだのではないかと推測している。
 現地説明会(飛鳥京跡第164次発掘調査)が2月14日(日)10時30分~15時30分に開かれる。
[参考:産経新聞、共同通信、NHK奈良のニュース、奈良県立橿原考古学研究所HP]

過去の関連ニュース・情報
  2009.2.19 明日香村・飛鳥寺 中金堂の礎石が葛城産と判明
  2009.2.10明日香村・飛鳥浄御原宮 北限溝の北に大型建物跡が出土
  2008.11.25 明日香村 飛鳥寺跡 南東方向に7世紀の石敷き道路
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