歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

川西市・多田神社 文献を裏付ける鎌倉時代末期から安土桃山時代の遺構を発見

2010年02月09日 | Weblog
 川西市教委は8日、国史跡の多田神社(同市多田院多田所町)の発掘調査で室町時代の火災跡や豊臣秀頼が再建した建物に関連する石列が見つかったと発表した。文献に記録は残っているが、裏付ける遺構の発見は初めてという。
① 拝殿南側の空き地2カ所から約50cm四方の建物用礎石計4個と土の焼け跡が見つかった。同神社が所蔵する「多田神社文書」(国重要文化財)には鎌倉時代に北条氏が老朽化した建物を再建した時の建物配置図が残っている。その後の室町時代に大火に遭っていることから、2カ所は僧侶の修行場の「常行(じょうぎょう)堂」と「法花堂」と推定されるという。
② 現在の拝殿の西側の地中から、南北に長さ11mほどの石列が見つかった。石は地盤を固め、水の浸入を防ぐ基壇に使われたとみられる。その南側近くに火事で焼けた土の層や当時の土器も見つかった。1578年に織田信長が荒木村重の有岡城(現在のJR伊丹駅付近)を攻めた際の戦乱で多田神社も被災し、秀頼が再興したという記録がある。
 多田神社は清和源氏の祖、源満仲が平安時代の970年に多田院を創建したのが始まりで、現在の建物は徳川4代将軍家綱が再興した。本殿、拝殿などが国重要文化財になっている。
 11日午後1時半から現地説明会が開かれる。
[参考:朝日新聞、毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川越市の日枝神社と東京・永田町の日枝神社

2010年02月09日 | Weblog
写真上は川越市小仙波町の日枝神社、下は千代田区永田町の日枝神社。

 河越館跡(川越市上戸)から西に僅か1km足らずのところに、日枝神社(川越市上戸)がある。河越荘の総鎮守である。
 同社の縁起には、「当社は元日吉山王権現と称し、遠く貞観年代(860年)の創立なり。陸奥岡の住人休慶と言う修業僧が、京都比叡山麓にある日吉山王を深く信仰し、神告により武蔵の此の地に社を建立せり。…(略)…永暦元年(1160)、後白河法王が京都に新日吉(いまひえ)山王社(注1)を祀ったのにともない、河越氏が河越庄を後白河法皇に寄進、以後後白河法皇の御領地となり、新日吉山王権現と称す。・・・(略)・・・」と記される。
 また、川越市内にはもう一つの日枝神社(川越市小仙波町2丁目)がある。当社は星野山無量寿寺喜多院の鎮守として創立された。
 境内の説明板には「日枝神社は、俗に日吉(ひえ)といい山王権現とも呼ばれている。…(略)…ここに日枝神社が祀られているのは、喜多院の草創時に比叡山坂本の日枝山王社を勧請したものと言われている。この日枝神社を太田道灌が文明十年(1478)六月、江戸城内紅葉山に分祀したことが、「落穂集」「江戸砂子」などに記されており、のちに麹町永田町に移され、天下祭りで知られる赤坂山王の起源となったことは有名である。本殿(国指定重要文化財建造物)は、朱塗りの三間社流れ造り・銅板葺で、規模は小さく簡素である。この本殿が寛永15年(1638)の大火後の再建なのか、あるいは、それ以前の建築なのかははっきりしないが、建物の一部に古式造りが認められるので、室町時代末期説もある。厨子は神輿形をした木造で、中に安置されている御神体は、大山咋命を僧形にあらわしたものだと伝えられている。昭和57年3月 埼玉県」
 ここに記された赤坂山王、現在永田町にある日枝神社にはいかに記されているかを次に紹介する。

 永田町にある日枝神社の境内には、実は2つの説明板が立っており、若干異なる内容が記されている。
① 「日枝神社
 鎮座地
東京都千代田区永田町二丁目十番五号。世に山王台又は星が岡の古称がある。
 御祭神 御神徳
大山咋神(おおやまくいのかみ)。相殿神は、国常立神・足仲彦尊・伊弉冉神の三柱。
主祭神の神系は、須佐之男神 ─ 大年神─大國御魂神、御年神、大山咋神―別雷神
 古事記に『亦の名は山末之大主神。此神は近淡海国の日枝山に座す。亦葛野の松尾に坐し鳴鏑を用うる神也』とある。大山咋神は山・水(咋)を司り、大地を支配し万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う広大な御神徳は、山王の尊称に即して、比類のない人類の生命を司り給うこと如実である。
 御由緒
江戸山王の始元は遙に鎌倉中期に遡るが、古記社伝によれば、文明十年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、守護神として川越の山王社から勧請した。やがて徳川家康公江戸入城に際し、荒漠たる武蔵野開拓の要衝の地として、此の城祠に国家鎮護の基を定めた。歴代の将軍世嗣子女および諸大名の参詣が絶えず、やがて万治二年(1659)将軍家綱は、天下泰平、万民和楽の都を守護する祈願所を建立し奉る大志をいだき、現在地に結構善美を尽した権現造り社殿を造営した。明治十五年官幣中社に更に大正四年官幣大社に列せられた。
 大戦後の御復興のあらまし
万治二年造営の社殿は、江戸初期の権現造りの代表的建物として国宝に指定されていたが、昭和二十年五月に戦禍に遭い焼失した。戦後の神社神道は、大変革を余儀なくされ、混沌たる社会情勢の中で、復興事業は困難を極めたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により「昭和御造営」の画期的な大業が企画された。昭和三十三年六月本殿遷座祭斎行、引続き神門、廻廊、参集殿等が逐次完成、更に末社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで竣工し、全都をあげて之を慶賀し、昭和四十二年六月奉祝祭が先づ斎行されこの間、昭和三十三年六月現在地御鎮座三百年祭が執行された。
昭和五十二年七月江戸城内御鎮座五百年奉賛会が結成され、五百年を祝する式年大祭を厳修し、昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王神幸祭の復元。尚記念事業として、「日枝神社史」の刊行、「宝物収蔵庫」の建築、本殿以下社殿の修繕、境内整備等が計画されて着々実施され、昭和五十三年六月十五日の吉辰を卜し五百年大祭が厳粛に行われ、更に昭和五十四年六月十三日、宝物収蔵庫の建設という有終の功竣つて、日枝神社御鎮座五百年奉賛会事業達成感謝奉告祭を極めて意義深く執行し、朝野多数の御参列を賜わりました。」
と記されている。

② 「日枝神社 元官幣大社
御祭神 大山咋神  相殿 国常立神・伊弉冉神・足仲彦尊
御由緒 
 日枝神社は江戸第一の大社で江戸時代は日吉山王大権現とも呼ばれた。御祭神は
 大山咋神。亦の名は山末之大主神。この神は近淡海国の日枝山に座す。亦葛野の松尾に坐し鳴鏑を用うる神也(古事記上巻)
とあり、山・水を司り、万物の生成化育を守護し給う。
 当社の起源は、古く鎌倉初期秩父重継が江戸貫主を名乗り館に山王社を勧請し、文明年中(1469-1486)太田道灌が城内に、更に徳川家康入府に際し、紅葉山に新社殿を造営し、江戸城の鎮守神、将軍家の産土神とあがめた。後に元山王の地(今の国立劇場)に遷祀され、更に四代将軍家綱によって溜池に臨む景勝の地に祀られ今日に至る。・・・(略)・・・」と記されている。

すなわち、①では文明十年(1478)太田道灌が川越の山王社から勧請した説と、②では鎌倉初期に秩父重継(江戸氏の始祖、注2)が山王社を勧請した説の2つを別々の説明板として立てている。

(注1)新日吉神社(いまひえじんじゃ) 京都市東山区妙法院前側町451-1
 永暦元年(1160年)10月16日、後白河上皇が法住寺殿の鎮守として、皇居守護の山王七社の神々を、比叡山東坂本の日吉大社から迎えて祀った事が創祀であり、…(略)・・・明治30年豊 国廟復興に際し、現在地に移転した。≪京都府神社略記より≫
 河越重頼(?-1185)の父能隆(よしたか、注3)が河越荘の総鎮守として領内に祀ったと伝えられる。
(注2)江戸重継は秩父重綱の三男で、兄に秩父重弘、河越重隆(注3)がいる。
(注3)河越能隆の父は河越重隆。

追記(2010.7.28)
 「落穂集」(校注 荻原龍夫・水江漣子/S42.5.10 人物往来社)の(注)に、南北朝時代(貞治年間 1362-1368)、(略)「那智山文書」によっても、下平川村の鎮守として山王社は太田道灌より古くから祭祠されていたらしい。」と記されている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川越市・河越氏館跡 8羽の鳥が並ぶ姿を手彫りした滑石製スタンプが出土

2010年02月07日 | Weblog
 川越市教委の発掘調査で1月7日、鎌倉幕府の御家人・河越氏館跡(川越市上戸、国指定史跡)で、室町時代後期に築かれた関東管領・山内上杉氏の陣所跡の墓の跡とみられる土坑から、8羽の鳥が上下2列に飛ぶ姿が細かく手彫りされた滑石(縦約3cm、横約6cm、厚さ1.2cm、57g)が出土した。装飾として何かに押した「スタンプ」として使われたとみている。
 似た例は、坂戸市の鋳造遺跡から笹の模様が、神奈川県鎌倉市でも寺社や武家屋敷、庶民の家跡などで草花などの模様の滑石(破片含む)が、鎌倉~室町時代と推測される遺跡で出土している。使途など未確認の点が多く、いずれの遺跡でも押した物は見つかっていない。
 川越市教委は、例年6月に市内で開催する最新遺跡発表会で展示する予定。
[参考:毎日新聞]


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石垣市・白保竿根田原洞穴 日本最古2万年前の人骨を発見

2010年02月04日 | Weblog
 沖縄県教委は4日、同県石垣市(石垣島)の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴で昨年に古代の人骨9点が見つかり、放射性炭素年代測定の結果、うち1点が約2万年前のものと判明したと発表した。
 人骨の直接測定で年代が分かったものとしては、これまで国内最古とされてきた静岡県浜松市の浜北人骨(約1万4000~1万8000年)より古い。
 県が整備を進める新石垣空港の敷地で2007年度に洞穴を発見。内部の土の中から頭、脚、腕などの人骨9点と多数の動物の骨が見つかった。琉球大、東京大などとの調査で、保存状態が良かった人骨6点を年代測定した結果、まとまって埋まっていた3点がそれぞれ1万5000年前、1万8000年前、約2万年前のものと判明した。散在していた残る3点は約2000年前などのものだった。
 人骨そのものが測定できず、炭化物など周辺物から年代が判明した国内最古の人骨は、那覇市・山下町洞穴で見つかった約3万2000年前のものとされる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、時事通信、沖縄テレビ放送、琉球朝日放送、朝日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古河市・江口長沖窯跡 県内初、半地下式平窯跡2基を発見

2010年02月03日 | Weblog
 市教育委員会文化課は2日、発掘調査を行なっている江口長沖(ながおき)窯跡(同市江口)で、9世紀後半の平地に半地下式で作られた須恵器を焼く窯跡を県内で初めて確認し、報道陣に公開した。同窯跡は市内の「三和窯跡群」の5か所目の遺跡。
 1000度以上の高温で焼き上げる須恵器の窯は通常、斜面を利用した登り窯が多く、半地下式は関東では3件が確認されているが全国的にも珍しい。
 半地下式は大量生産には不向きであるが、火を扱う技術が向上したことにより少ない燃料で製作できるようになったとみている。
 窯跡は2基あり、燃焼室と焼成室が一体となっている。作業場にあたる前庭部や須恵器を焼き上げる焼成室が半地下にあり、焼成室の壁が内側にカーブしていることから、天井がドーム状だったとみられる。大きさは、それぞれ長さ2~3m、幅1.6~3.2m、深さ30~60cm。壁が内側に傾いていることから、いずれも同じ場所に2回作られた跡があり、1基は窯の向きが大きく変わっていた。千度近い高温で焼けた赤い土も残っていた。
 周辺からは、須恵器の台付き皿や坏(つき)、甕などの破片が1000個以上発見された。当時、発見場所の近くには、現在の常総市付近まで鬼怒川や利根川につながる大きな沼があり、焼き物を焼くにはあまり適さない環境だった。周辺の窯跡などを含めた三和窯跡群で作られた須恵器は、栃木県小山市、埼玉県春日部市、千葉県我孫子市などでも確認されており、沼を利用し流通に便利だったのではとみている。
 今月中旬までに調査を終えた後、窯跡は埋め戻される予定。
 6日午前10時半、午後1時半から現地説明会が開かれる。
[参考:茨城新聞、東京新聞、読売新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする