歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

浜松市・篠場瓦窯跡 静岡県内最古の文字瓦が出土

2013年03月08日 | Weblog
 静岡県埋蔵文化財センターは6日、浜松市浜北区根堅(ねがた)の篠場瓦窯(しのんばがよう)跡で、8世紀初めの白鳳時代に作られた県内最古の文字瓦が見つかったと発表した。
 3基のうちひとつの窯跡から、破片を含めて14点の文字瓦が見つかった。 文字は「廣山」「山作瓦」の二種類で、「廣山」は人名とみられ、「山作瓦」も元は「廣山作瓦」だったとみられるという。 粘土が乾燥する前に指で書かれたらしい。 「作瓦」と書かれた瓦は全国でも初の出土という。
  篠場瓦窯跡は新東名高速道路の建設に伴って2002~04年に発掘が行われた。 瓦を焼いた窯跡3基が見つかり、計5.7トン分の大量の瓦が出土した。 白鳳時代の7世紀末~8世紀初頭に瓦を生産していた遺跡としている。
 県内ではこれまで、8世紀前半の竹林寺廃寺(島田市)と、8世紀後半の片山廃寺(静岡市駿河区)で文字瓦が見つかっているが、これらより数十年遡る。
 瓦は当時、寺院専用に作られ、窯は建設する寺院近くに設置されることから、篠場瓦窯跡近くに寺院の跡があるかもしれないとみている。
 今回確認された文字瓦は、県立中央図書館(静岡市駿河区)で9~17日に一般公開される。
[参考:中日新聞、浜松情報BOOK/浜名湖国際頭脳センター]
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木津川市・鹿背山城跡 堀切遺構を初めて確認

2013年03月07日 | Weblog
 木津川市教委が6日、山城地域最大の山城とされる木津川市の鹿背山(かせやま)城跡で、尾根上の堀切(ほりきり)の遺構が見つかったと発表した。同城跡には計6カ所に堀切の遺構があるとみられているが、発掘調査で確認されたのは初めて。
 鹿背山城は標高136mの山にあり、これまでに3つの主郭(城の中核となる曲輪)を持つ構造だったことが判明している。 堀切は3つの主郭のうち、一番南に位置する第3主郭の北側で見つかった。 主郭に続く尾根を分断する形で築かれ、 堀切の断面はV字型(薬研堀)で、深さ約2・5m、長さ約20mとみられている。 鹿背山城は文献などから15世紀代に奈良市・興福寺の軍事拠点として築かれ、その後、大和を治めた戦国武将、松永久秀(1510?-1577)が改修を行ったとされている。
 今回の調査では、第3主郭南側で16世紀後半の土器が初めて出土し、この時期まで城が存続していたことが、考古学的に初めて確認されたとしている。
 現地説明会は9日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.4.13 鹿背山城跡 16世紀後半の切岸(きりぎし)の遺構を確認
 2010.2.25 鹿背山城跡 「薬医門」跡が見つかる、興福寺時代から存在か
 2009.3.26 鹿背山城跡 多聞櫓の遺構
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鳥取市・良田平田遺跡 飛鳥末期(7世紀末~8世紀初頭)の文書木簡出土

2013年03月06日 | Weblog
 鳥取県教育文化財団は4日、鳥取市良田(よしだ)(注1)の良田平田遺跡で、7世紀末~8世紀初頭(飛鳥時代末頃)の文書木簡が出土したと発表した。木簡は昨年10月の調査で新たに出土し、 近くから出土した須恵器や、木簡の内容から時代を特定した。 同遺跡では昨年2月に平安時代前半(9世紀後半~10世紀前半)の木簡などが出土し、役所関連施設が存在したことが明らかになっているが、今回の発見でさらに200年近く前の律令制施行前にも同様の施設があったとみられる。
 (注1)良田地区は律令時代の高草郡(たかくさのこおり)に含まれる。

 木簡は下半分が欠け、二つに折れた状態で穴(直径70cm、深さ45cm)から出土した。残存長さは18・7cm、幅2・5cm、厚さ0・5cmで、赤外線カメラで撮影し解析したところ、両面に墨書され、
  表は「□□□御前謹?白寵命□」 (□□□の御前(おんまえ)に謹みて白(もう)す、上司の命令を伺って…」
  裏は「使孔王部直万呂午時」
の文字が判明。 地方役所間の行政連絡に使われていた文書(もんじょ)木簡の「前白(ぜんぱく)木簡」と言われ、701年に制定された大宝令で公文書の様式が整えられる前の7世紀末頃に多用されたもので、口頭での伝達を文書化したものという。
 同じ書式の木簡は他に、藤原京跡(橿原市)や西河原森ノ内遺跡(野洲市)など全国4カ所で出土しているが、中国地方では初めてで、文書木簡としては中国地方最古となる。 ただし、出雲国府跡(松江市)からは荷札か名簿とみられる同時期の木簡が発掘されている。
 今回の調査で掘立柱建物跡や硯なども見つかった。
 県立博物館で3月6日から4月7日まで出土品を展示する。 木簡は10日までの5日間だけの展示になる。
[参考:共同通信、日本海新聞、山陰中央新報、読売新聞、産経新聞、NHK鳥取]

過去の関連ニュース・情報
 2012.2.25 鳥取市・良田平田遺跡 「孔王部」姓が記された平安時代前半の木簡が出土
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宇治市・松殿跡 藤原基房の「別業」土塁で包囲

2013年03月06日 | Weblog
 京都府宇治市は5日、平安時代末期の関白藤原基房(1145-1230)の別業(別荘)跡といわれる遺跡「松殿跡(まつどのあと)」(同市木幡)で、敷地を囲む土手が最大で高さ1・7m、幅2・5mに土を盛り上げた土塁だった可能性が高いと発表した。  
市は「源平の兵乱期を反映した特別な防御施設だったのではないか」とみている。
 松殿跡は財団法人「松殿(しょうでん)山荘茶道会」が所有している。 市が遺跡の保存方法を検討するため2012年度から5年計画で発掘調査を行う。 今回は敷地を囲む計約400mの土手で2カ所を調査した。  
 現地説明会は9日(土)午後1時から開かれる。
[参考:京都新聞]


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向日市・元稲荷古墳 西求女塚古墳(神戸市)と形も規模もほぼ同じ

2013年03月01日 | Weblog
 向日市埋蔵文化財センターが28日、3世紀後半築造の前方後方墳の元稲荷古墳(京都府向日市)が、同時期の西求女塚古墳(神戸市灘区)と双子のように形も規模もほぼ同じことが分かったと発表した。 それぞれの被葬者は大和政権の同じランクに属し、どちらも政権が派遣した同じ職人集団が設計したのではないかとしている。
 元稲荷古墳はこれまでに、同時期の卑弥呼の後継者壱与(台与)の墓説がある西殿塚古墳(奈良県天理市)の2.5分の1の相似形で、築造技術も似ていることが判明し、また、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳の約3分の1の規模であることがわかっている。
 1月からの調査で、後方部の西側で基底石や葺き石が出土し、墳丘の西端の位置を突き止めた。その結果、元稲荷古墳の全長が94m、後方部の幅、長さが50m、後方部とつながるくびれ部の幅は23m、前方部前端の幅47mと判明した。前方部は、これまでの調査で長さ約42mとしている。
 西求女塚は全長98m、後方部長さ・幅は50~52m、くびれ部幅が25m、前方部前端の幅49mで、2つはほとんど同じ大きさ。 細長い石を積み上げて葺く工法も似ているという。
 現地説明会は3月3日(日)午前10時半から開かれる。
[参考:共同通信、京都新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
2012.9.21 元稲荷古墳 全長94mの前方後方墳と確定
 五塚原古墳(全長90mを超える前方後円墳)、元稲荷古墳、寺戸大塚古墳の順で築造されたことが判明。
2012.2.15 元稲荷古墳 西殿塚古墳の2.5分の1で造営
 前方部の形が西殿塚古墳と酷似し、2.5分の1サイズと分かった。
 前方部と後方(円)部の長さの比率が、箸墓古墳とほぼ同じと分かった。 
2010.9.23 元稲荷古墳 くびれ部で葺石が多数出土し、造り方の技法が大和の大王級古墳と相似
 中山大塚古墳(天理市)や黒塚古墳(同市)と造り方が相似
2010.2.27 元稲荷古墳 葺石の構築方法に違い、複数の集団が関与か
2009.2.19 元稲荷古墳 後方部でも敷石が見つかり墳丘表面全体を石で覆う
 箸墓古墳の約3分の1の規模だったことが確認された。
 讃岐産の祭儀用土器片が出土。被葬者と讃岐地方との関連がうかがわれる。
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