浪江は、芙由子と話しながら仙台北方面での衝撃的な人身事故のこのことを話そうか、止めようかを思案していた。
浪江にとって、それは生れて初めて体験したことであり、一生消えない悪夢のような出来事であった。
浪江は、人身事故には触れず、「太宰治は何度か、自殺未遂をしているけど、本当に死ぬ気があったのかしら」と自分の気持ちの中にある疑問を吐露した。
「私には、わからないれど、<生きていてすいません>というような負い目は、常にあったと思うの」芙由子は、最後の心中は太宰にとって、避け難い決断と想われていた。
妻子が居て、二人の女性との恋愛は同時進行下にあったのである。
太宰の愛は<男の身勝手さ>であり、<どこかで清算>しなけれない、世間の納得は得られない、と太宰は追い込まれていたかもしれない。
電車は宇都宮を過ぎ大宮へ向かっていた。
大宮は長野、群馬、新潟へ向かう電車と東北方面へ向かう電車の分岐点である。
「大宮駅を過ぎると旅から帰ってきたのだ」と心がほってする。
「旅はおわりね」と浪江は鶯谷、日暮里のネオンを見てつぶやく。
「浪江さんに会えて良かった」と芙由子が握手を求めた。
浪江は肯いて、芙由子の手を確りと握りしめていた。
子供みたいな あなたを見てると 私は小さな 海になる
遠い過去から 私たち 愛してたような 気がするの
胸に火照(ほて)った 耳を当てれば
せつなくてあたたかい 生命(いのち)のひびき
都会の風は 気まぐれで
今にも別れが 来そうだけど 花が散っては 咲くように
このつぎの人生も 会いましょう
浪江は、風のメルヘンの世界へ戻ってきた心情になっていた。
---------------------------------
太宰生きていて、すいません
「二十世紀旗手」
寺内 寿太郎(てらうち じゅたろう 1900年? - 没年不明)は昭和初期の詩人。
川柳にも才能を発揮。
当時流行の探偵小説にも凝ったことがある。
評論家山岸外史のいとこ。
幼時に父を日露戦争で亡くし、親戚の間を転々として育つ。
伯父の世話で慶應義塾大学理財科(現在の経済学部)を卒業して会社勤めをしていたが、不遇を託ち、家出すること数回。
伊豆の天城山の奥深く分け入り、自殺を企てたこともあるが、10日間消息を絶った後、親戚に発見されて連れ戻された。
極端な寡作家ながら、宮古時代に「遺書」(かきおき)と題する一行詩(「生れてすみません」)を含む7〜8作の詩稿を完成して帰京。
この「遺書」の詩稿は1936年(昭和11年)、山岸を通じて太宰治の目にとまり、太宰の短篇「二十世紀旗手」の冒頭において、エピグラフ「生れて、すみません。」として剽窃されるに至った。
もともと寺内は早い時期から太宰の読者だったが、1937年(昭和12年)頃、この「二十世紀旗手」を読んで山岸のもとに駆けつけるなり、顔面蒼白となって「生命を盗られたようなものなんだ」「駄目にされた。駄目にされた」と叫び、途方に暮れたという。
山岸からこのことを伝えられた太宰は、「あの句は山岸君のかと錯覚するようになっていたのですよ」「わるいことをしたな」と狼狽した。
この後、寺内は文学に挫折し、憂鬱症に陥り、家出を繰り返し、やがて失踪してしまった。敗戦後まもなく、品川駅で目撃されたのが最後の姿だった。
寺内はまた、佐藤春夫の小説「芥川賞-憤怒こそ愛の極点(太宰治)」(『改造』1936年11月、のち「或る文学青年像」と改題)に寺内清の名で登場している。
序唱から終唱まで12篇の断章によって成り立つ難解な構成の短編作品で、近年それなりに研究が進んでいるものの同時代では ... 二十世紀旗手」という矜持と「生れて、すみません」という罪意識の共存に表れているように、引き裂かれた現代人の心情を太宰なり ...
剽窃(ひょうせつ)の意味
他人の作品・学説などを自分のものとして発表すること。
盗用・剽窃
太宰の心中未遂
不確かな例も含むと、伝えられているのは6回です。
昭和4年 弘前?の下宿でカルモチン(睡眠薬)自殺未遂
昭和5年 鎌倉の海岸の岩場でカルモチンを飲み心中未遂、田辺あつみ(本名・田部シメ子)は死亡
昭和10年 鎌倉の山中で縊死(首吊り)失敗
昭和12年 群馬・水上村谷川温泉で睡眠薬を飲み内縁の小山初代と心中未遂
昭和22年 睡眠薬の誤飲?詳細不明
昭和23年 東京・玉川上水に投身して心中
(太宰治・山崎富栄ともに死亡・・・入水前に青酸カリ服毒、富栄に縄で首を絞められた後に入水したとの説が有力)
註:昭和23年以外は狂言もしくは自殺のまね事、あるいは太宰による創り話という説もあります。
浪江にとって、それは生れて初めて体験したことであり、一生消えない悪夢のような出来事であった。
浪江は、人身事故には触れず、「太宰治は何度か、自殺未遂をしているけど、本当に死ぬ気があったのかしら」と自分の気持ちの中にある疑問を吐露した。
「私には、わからないれど、<生きていてすいません>というような負い目は、常にあったと思うの」芙由子は、最後の心中は太宰にとって、避け難い決断と想われていた。
妻子が居て、二人の女性との恋愛は同時進行下にあったのである。
太宰の愛は<男の身勝手さ>であり、<どこかで清算>しなけれない、世間の納得は得られない、と太宰は追い込まれていたかもしれない。
電車は宇都宮を過ぎ大宮へ向かっていた。
大宮は長野、群馬、新潟へ向かう電車と東北方面へ向かう電車の分岐点である。
「大宮駅を過ぎると旅から帰ってきたのだ」と心がほってする。
「旅はおわりね」と浪江は鶯谷、日暮里のネオンを見てつぶやく。
「浪江さんに会えて良かった」と芙由子が握手を求めた。
浪江は肯いて、芙由子の手を確りと握りしめていた。
子供みたいな あなたを見てると 私は小さな 海になる
遠い過去から 私たち 愛してたような 気がするの
胸に火照(ほて)った 耳を当てれば
せつなくてあたたかい 生命(いのち)のひびき
都会の風は 気まぐれで
今にも別れが 来そうだけど 花が散っては 咲くように
このつぎの人生も 会いましょう
浪江は、風のメルヘンの世界へ戻ってきた心情になっていた。
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太宰生きていて、すいません
「二十世紀旗手」
寺内 寿太郎(てらうち じゅたろう 1900年? - 没年不明)は昭和初期の詩人。
川柳にも才能を発揮。
当時流行の探偵小説にも凝ったことがある。
評論家山岸外史のいとこ。
幼時に父を日露戦争で亡くし、親戚の間を転々として育つ。
伯父の世話で慶應義塾大学理財科(現在の経済学部)を卒業して会社勤めをしていたが、不遇を託ち、家出すること数回。
伊豆の天城山の奥深く分け入り、自殺を企てたこともあるが、10日間消息を絶った後、親戚に発見されて連れ戻された。
極端な寡作家ながら、宮古時代に「遺書」(かきおき)と題する一行詩(「生れてすみません」)を含む7〜8作の詩稿を完成して帰京。
この「遺書」の詩稿は1936年(昭和11年)、山岸を通じて太宰治の目にとまり、太宰の短篇「二十世紀旗手」の冒頭において、エピグラフ「生れて、すみません。」として剽窃されるに至った。
もともと寺内は早い時期から太宰の読者だったが、1937年(昭和12年)頃、この「二十世紀旗手」を読んで山岸のもとに駆けつけるなり、顔面蒼白となって「生命を盗られたようなものなんだ」「駄目にされた。駄目にされた」と叫び、途方に暮れたという。
山岸からこのことを伝えられた太宰は、「あの句は山岸君のかと錯覚するようになっていたのですよ」「わるいことをしたな」と狼狽した。
この後、寺内は文学に挫折し、憂鬱症に陥り、家出を繰り返し、やがて失踪してしまった。敗戦後まもなく、品川駅で目撃されたのが最後の姿だった。
寺内はまた、佐藤春夫の小説「芥川賞-憤怒こそ愛の極点(太宰治)」(『改造』1936年11月、のち「或る文学青年像」と改題)に寺内清の名で登場している。
序唱から終唱まで12篇の断章によって成り立つ難解な構成の短編作品で、近年それなりに研究が進んでいるものの同時代では ... 二十世紀旗手」という矜持と「生れて、すみません」という罪意識の共存に表れているように、引き裂かれた現代人の心情を太宰なり ...
剽窃(ひょうせつ)の意味
他人の作品・学説などを自分のものとして発表すること。
盗用・剽窃
太宰の心中未遂
不確かな例も含むと、伝えられているのは6回です。
昭和4年 弘前?の下宿でカルモチン(睡眠薬)自殺未遂
昭和5年 鎌倉の海岸の岩場でカルモチンを飲み心中未遂、田辺あつみ(本名・田部シメ子)は死亡
昭和10年 鎌倉の山中で縊死(首吊り)失敗
昭和12年 群馬・水上村谷川温泉で睡眠薬を飲み内縁の小山初代と心中未遂
昭和22年 睡眠薬の誤飲?詳細不明
昭和23年 東京・玉川上水に投身して心中
(太宰治・山崎富栄ともに死亡・・・入水前に青酸カリ服毒、富栄に縄で首を絞められた後に入水したとの説が有力)
註:昭和23年以外は狂言もしくは自殺のまね事、あるいは太宰による創り話という説もあります。