風のメルヘン

2018年05月01日 18時08分03秒 | 創作欄
父親が胃がんの苦しみに耐えかねて、自宅の裏山の山林で農薬を飲んで自殺したことを知った時の浪江の心の衝撃。
このため心の奥底には、<自ら死を選ぶ人>への拘りがあった。
小説『足摺岬』の田宮寅彦も自殺であった。
田宮の小説の基本モティーフは、<人が人であることへの絶望感である>とされている。
でも、浪江にはそのような絶望感は知ることできない。
誰かに恋をしたいと思っていても、浪江にはそのような機会は訪れなかった。
仙台への一人旅で何かが起きることを期待していた。
そして、仙台から山形へ向かっていた。
電車は北仙台駅を過ぎるとすぐ旧奥州街道と交差し、以後、梅田川と並走しながら北山丘陵北斜面を走る。
浪江が乗った北山駅を過ぎると北山丘陵南斜面側に移り、国見丘陵南斜面を走って、梅田川流域から広瀬川流域にかわる。
丘陵地はマイホーム用の住宅地として開発されていた。
突然、電車は激しく警笛を鳴らした。
そして寸前に急ブレーキがかかったのだ。
浪江は電車の車窓に頭を密着させるにして、景色を眺めていたので身に激しい衝撃を受けた。
咄嗟に席の反対側をみるホームに学生たちの姿が見えた。
外はただならぬ雰囲気であった。
東北福祉大前駅ホームで、若い女性が電車に飛び込んだのだ。
「いったい、何があったんだ」
浪江が座る隣の席の中年男性が窓を引き上げて、線路を覗く。
そこには、女性の切断された細い足が転がっていた。
それは人間の足というより、マネキンの足のようにも見える真っ白い身体の一部であった。
浪江は声を失い、両手で目を覆った。
絶対に見たくはない<リアルな実体>を見てしまったのだ。
次の国見駅付近には大学、市立高校があり、このような場所で人身事故起きたことが実に皮肉なことであった。
「う~え!吐きそう」と言って男は窓を引き下ろす。
結局、浪江は電車がしばらくは動かなくなったので、山形行きを止めることになった。

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あかりがにじむ 窓ごとに
いろんな顔した 愛がゆれる
誰もが時の 河をゆく
さみしくて ひたむきな旅人
都会の風は 気まぐれで
今にも別れが 来そうだけど
花が散っては 咲くように
このつぎの人生も 会いましょう

浪江は<好きな歌の世界に溶け込めたら>とせつなく思った。
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田宮寅彦
1988年1月に脳梗塞で倒れ日産玉川病院にて療養、右半身不随になり、同年4月9日午前9時15分頃、同居人である旧友の子息の不在中に東京都港区北青山2丁目のマンション11階ベランダから投身自殺を図る。
その後東京女子医科大学病院へ搬送されたが、午前10時前に死亡が確認された。
脳梗塞が再発し手がしびれて思い通りに執筆できなくなったため命を絶つとの遺書が残されていた。享年77。
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鉄道自殺は最悪
遺体の損壊も大きく変わる。
いずれも悲惨だが、体が車体に車両の下に入り込み、台車に巻き込まれ、轢断されてバラバラになれば悲惨である。
運転再開は遅れるし、自殺遺体を拾う鉄道マンは哀れである。
現場での処理が終わり、運転再開になれば、ようやく乗客たちは救われる。
多くの鉄道マンたちも胸をなでおろす瞬間だという。
なお、対応は続く。
人身事故の車両は、回送で検修現場に入り、異常がないか検査を受ける。
このとき、車両が汚れていれば清掃も行う。
凄惨な事故の場合、車両の床下機器が血に染まったり、肉片が残っていたりする。
それに目を背けず、壊れている機器がないかを確認し、汚れているところを洗い流すのが仕事だ。
人間の肉片を見てしまうと、しばらくの間、肉類は食べる気になれないだろう。

戦前日本のポピュリズム

2018年05月01日 15時39分31秒 | 社会・文化・政治・経済
「政党批判」と「天皇シンボル」の存在   ポピュリズムの主要な内実は、日本語で言えば、劇場型大衆動員政治である。
その意味で、ポピュリズムは何も近年の現象ではない。戦前日本にも劇場型大衆動員政治はあった。
そして、その先に日米戦争という破滅があったのである。

 日露戦争の後、ロシアとポーツマス講和条約が結ばれた。賠償金が得られない講和に反対する国民大会が日比谷公園で開かれ、暴動になった。
多くの警察署が焼き打ちされ、新聞社も襲われた。7人が死亡し、多くの負傷者が出た。
1905年9月に起きた日比谷焼き打ち事件である。

 著者は、この事件に政治的大衆の最初の登場を見る。

『戦前日本のポピュリズム――日米戦争への道』(筒井清忠 著 中公新書) 定価:本体920円+税 日露戦争中、たびたび戦勝祝捷(しゅくしょう)会が開かれた。新聞社は祝捷会を広く告知するだけでなく、自ら主催した。
劇場型大衆動員政治において、メディアは「劇場」を作りだし、大衆を「動員」する。
日露戦争中に「勝利」を喧伝し、大衆を熱狂させた新聞に深くかかわって、日比谷焼き打ち事件の暴力的大衆は生まれたのである。

 日比谷焼き打ち事件の延長に昭和戦前期の劇場型大衆動員政治があった。その間、1925年には普通選挙法が成立している。大衆は選挙というかたちで政治の世界へ入力されるより大きな存在となった。

 普通選挙が実施される前には、松島遊郭事件、陸軍機密費事件などがスキャンダルとして大々的に新聞をにぎわした。そこでは「大物」を含む多くの政治家が登場した。著者は、次のように述べる。

 《普選を前にここでも大衆の興味を引きやすい話題のみが取り上げられて注視され、議会政治の地盤は掘り崩されていったのである》

 この時期の劇場型大衆動員政治につながる出来事として、著者は朴烈(パク・ヨル)怪写真事件に注目する。朴烈は関東大震災後の混乱のさなか、内縁の妻金子文子とともに検束され、治安警察法違反容疑で起訴された。周辺人物の逮捕などを経て、事件は大逆事件の様相を帯びてくる。

 朴は死刑、金子は無期懲役の判決を受けるが、朴は恩赦で無期懲役に減刑される。金子は自殺し、予審調室で撮影された朴烈が彼女を膝の上に載せた写真が流出するといった展開もあり、新聞はセンセーショナルに報道する。

 野党は、朴烈の減刑をめぐって内閣の責任を追及した。そこに、「天皇」シンボルが登場する。恩赦は天皇の名で行われる。怪写真の流出で明らかになった司法当局の「威信失墜」に加えて、「大逆犯人」についてみだりに減刑を奉請したとして糾弾されたのである。

 政党間の権某術策に満ちた泥仕合を経て、結局、憲政会若槻礼次郎内閣は、金融恐慌の発生もあって総辞職に追い込まれた。

 著者は、この間、「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性を一部の政党人が悟ったことを重要な点として指摘している。この天皇シンボルの存在こそ、戦前日本における劇場型大衆動員政治の最大の特質となっていく。

 「本格的二大政党」の時代の到来が言われる中、天皇シンボルは野党が政権党を批判する有効な武器として繰り返し使われた。よく知られた出来事は1930年に調印されたロンドン海軍軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題である。

 時の浜口雄幸政友会内閣は、天皇・宮中グループの支持と状況に追随する新聞世論の支援によって批准承認をどうにか勝ち取った。だが、それは政党内閣の勝利ではなく、政党の外にある勢力に依存した危うい結末でもあった。

 1931年9月に勃発した満洲事変は、状況に追随する新聞世論による劇場型大衆動員政治を見せつけることになる。軍制改革、財政整理などを大きな論点にしていた新聞は事変勃発とともに戦地からの大々的な報道を展開し、大衆の戦争への熱い支持を取り付けることになった。

 天皇シンボルが大きな政治的有効性を発揮した出来事は、1935年に起きた天皇機関説事件である。新聞はやはり大きな役割を果たす。同年5月8日の大阪毎日新聞の論説が引用されている。次はその一節。

 《されば若し美濃部博士にして今の内に其罪を悔いて翻然転向をしないならば、其不臣の罪は子々孫々にまで及ぶであろう事を注意して置きたい》

 日中戦争が泥沼化するなか、大衆の圧倒的な人気を背景に近衛文麿首相が登場した。新聞に加えて、ラジオやレコードも大衆を動員するメディアとして力を発揮する。近衛は1937年6月4日の組閣当夜、「全国民に告ぐ」というラジオ放送を行った。史上初めての試みであり、近衛はその後もしばしばラジオを通じて自らの声を国民に届けた。普通選挙が始まった時期とは違う劇場型大衆動員政治の新しい段階が始まった。無内容な「新体制」が叫ばれ、日本は日米戦争へ突入した。

 戦前日本のポピュリズムの構造として、著者はメディアによる一貫した政党批判が持ったネガティブな意味を指摘している。政友会・民政党の2大政党が対立した時代、地方に至るまで官僚が「政党化」した。地域社会の分極化である。たびたびの不正事件やスキャンダルもあって、メディアは政党の弊害を声高く叫んだ。

 大衆は、「悪しき政党」を超える中立的な力による分極化した社会の統合を求めることになった。天皇シンボルの存在と重なって、そこには一種の「天皇親政型中立主義」を待望するムードが生まれた。

 戦前日本のポピュリズムは、1度目は政党政治への反発の中で生まれた。2度目は既成政党を超える「何ものか」を求めて駆動した。

 戦前日本で劇場型大衆動員政治はどのようにして始まったのか。いかなる特質を持っているのか。歴史から安易な「教訓」を導くのは慎むべきだが、本書における歴史社会学者の具体的にして冷静な分析は、現代日本を考える上でも大いに示唆的である。

戦前日本のポピュリズム|新書|中央公論新社
2018年1月22日 - 戦前日本のポピュリズム. 日米戦争への道. 筒井清忠 著. 現代の政治状況を表現するときに用いられる「ポピュリズム」。だが、それが劇場型大衆動員政治を意味するのであれば、日本はすでに戦前期に経験があった。日露戦争後の日比谷焼き打ち事件に始まり、怪写真事件、満洲事変、五・一五事件、天皇機関説問題、近衛文麿の登場、 そして日米開戦。普通選挙と二大政党制は、なぜ政党政治の崩壊と、戦争という破滅に至ったのか。現代への教訓を歴史に学ぶ。
二十一世紀初頭、ポピュリズムが政治を解析する概念のひとつとなっている。著者は、 この「大衆の人気に基づく政治」は戦前からみられ、アメリカとの戦争に至ったのもポピュリズムによっていると主張する。そして、その戦前日本の歴史過程を具体的に綴( つづ)る。 発端となるのは、一九〇五年の日比谷焼き打ち事件である。ポーツマス講和条約に反対し、警官隊と衝突する騒擾(そうじょう)となったこの出来事に、著者は「大衆」 の登場を見るとともに、新聞の影響力を指摘する。そして続けて、ポピュリズム ...
日露戦争後の日比谷焼打ち事件から日米開戦時までの戦前日本の政治言論空間をポピュリズムという視点から分析。強まってくる民意を無視できない政党は大衆の意思・ 意向を無視できず、これに迎合して強硬路線にいく。また、党利党略に走る政党政治への嫌悪感があおられ、マスメディアと大衆の無意識の共謀関係が、より「中立」で「正しく」 「新しい」と見られた天皇・軍部・官僚・近衛新体制への雪崩をうった支持を生み出していった。戦争への道は軍部や一部の支配層の暴走ではなく、社会全体の総意によって ...
戦前日本のポピュリズム / 筒井 清忠【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア
www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784121024718 - キャッシュ
現代の政治状況を表現するときに用いられる「ポピュリズム」。だが、それが劇場型大衆動員政治を意味するのであれば、日本はすでに戦前期に経験があった。日露戦争後の日比谷焼き打ち事件に始まり、怪写真事件、満洲事変、五・一五事件、天皇機関説問題、近衛文麿の登場、そして日米開戦。普通選挙と二大政党制は、なぜ政党政治の崩壊と、戦争という破滅に至ったのか。
現代への教訓を歴史に学ぶ。

つくば霞ケ浦りんりんロード

2018年05月01日 14時56分21秒 | 社会・文化・政治・経済
総延長180kmのサイクリングロードが茨城県に誕生!!その走りやすさと整った整備で人気のつくばりんりんロードと、霞ヶ浦湖岸道路が一体化!
ぜひ、茨城県にサイクリングを楽しみにきてください。

全国第2位の面積を誇る霞ヶ浦と、日本百名山にその名を連ねる筑波山。
茨城の風光明媚なふたつの絶景をダイレクトにつなぎ、14市町村にまたがるフラットな平野を中心としたサイクリングロードが「つくば霞ヶ浦りんりんロード」です。
その総延長はなんと約180km。
ツール・ド・フランスなど、自転車レースで走る1日の距離にも匹敵する長さですが、ここは関東平野!ゆったりと穏やかな平地が中心。
そのため、初心者でもロングライドを安心して楽しめます♪もちろん、クライマーなら筑波道とも直行する「つくば霞ヶ浦りんりんロード」から筑波山、加波山などの1級山岳も楽しめます。全ての市民サイクリストが楽しめる「つくば霞ヶ浦りんりんロード」!2020年までに走行環境のさらなる改善を目指し、現在あるつくばりんりんロードと霞ヶ浦自転車道も再整備中です。

つくば霞ヶ浦りんりんロードの楽しみ方!
かすみがうらエンデューロの舞台 歩崎公園を中心に楽しむ!
かすみがうら未来づくりカンパニーが運営するかすみキッチンを中心に、いま自転車で熱く盛り上がっているのが歩崎公園♪
かすみキッチンには「地産地消」×「ヘルシー」をコンセプトにしたサイクリストにも嬉しいメニューが並びます。

充実の筑波山麓グルメスポット 美味しい寄り道を楽しむ!
つくば霞ヶ浦りんりんロード周辺には美味しいお店がたくさんあります!そう、地元の美味しい補給食は自転車乗りの楽しみのひとつです。
とっておきのグルメスポット!!

渋滞知らずの自転車でスイスイ いばらきの季節のイベントを満喫!
全国でもトップクラスの自動車保有台数(※人口割合)を誇るクルマ社会いばらき!大きなイベント時には駐車場の混雑が予想されますが、そんな時、自転車でお出かけしてみませんか♪

坂馬鹿歓迎!ツール・ド・つくばで大人気 クライマー御用達の筑波山へ
高低差500m、全長12kmを一気に駆け上がる「ツール・ド・つくば」の会場となっている筑波山。
一本外れれば、坂好きサイクリストにとっては絶対に外せないヒルクライムがあります。

つくば霞ヶ浦りんりんロードを動画でもチェック!!
プリン1個で80㎞!ロードバイクでつくばりんりんロードを往復してみた!
つくば霞ヶ浦りんりんロードの旅

バラの花が香る季節

2018年05月01日 14時13分52秒 | 日記・断片
朝の散歩も、風が爽やかである。
ジャスミンの花が香る。
昨日は、午前4時過ぎ、西に傾く満月が驚くほど大きく橙色に輝いていたが、たった1日の違いで月は何時もの色合いであり普通の大きさに映じた。
猫のタマがどこまでも着いて来るので、西田さんが道を何度か曲がって、着いてくるのを諦めさせていた。
先代のタマが利根川の方まで追い掛けてきたそうで、その後、家に戻らなくなる。
犬のように人間に着いて散歩する猫であった。
「どこで、どうしているかね」と西田さんは気遣う。
今のタマは3代目タマ。
ヤオコウで鈴村さんが待っていた。
鈴村さんは昨日、かなりの距離散歩したそうだ。
また、東京中野に住む孫などに菜園を体験させてと言っていた。
今朝も、各地に設置されている菜園を見て回る。
ネギやカブ、ダイコン、セロリ、ニラ、タマネギ、ハクサイなど季節の作物を育てている家庭菜園や借りている畑に人影があった。
水路沿いの柵の細長い空き地なども畑になっている。
バラの花が香る季節となった。
ハナミズキやボタンは終わった。
「もう5月、1年の3分の1以上が過ぎた。今月は、どんな絵手紙にしようか」と鈴村さんが言う。
「俳句も添えて」
「大体25日ころ書く予定で、俳句が大変でね」
「絵が画けるといいですね」と羨む。






























住宅地に残る田圃





偉大な使命を教えた

2018年05月01日 13時00分47秒 | 医科・歯科・介護
ナイチンゲールの事業がなぜ成功したのか?
それは人材を育てたからだ。
なぜ、人材が育ったのか?
「偉大な使命を教えた」こと。

看護婦は貴婦人のする仕事ではなく、身分の低い下女たちのするような卑しい仕事であるとされていた。

コレラなどの伝染病が広まっていた野戦病院での兵士の死亡率は、ナイチンゲールら看護師の活躍によって40%前後から2%程度まで引き下げられた.

クリミア戦争における兵士たちの死亡の原因究明を、統計学的に立証したこと、および病院統計という考え方を確立した
衛生環境の改善が大事だということを軍の上層部に分かってもらうため、幼い頃から数学と統計学が得意だったナイチンゲールは、この野戦病院での死亡統計などをまとめ提出.


生年月日:1820年5月12日
出身地:フィレンツェ
死没:1910年8月13日 (90歳)
フローレンス・ナイチンゲールは、イギリスの看護師、社会起業家、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の母。病院建築でも非凡な才能を発揮した。クリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で著名。

国際看護師の日(5月12日)は彼女の誕生日である。
ロンドンの聖トーマス病院に付属してナイチンゲール看護学校を設立、これは世界初の宗教系でない看護学校であり、現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部となっている。