岸信介はCIAの手先だった - 日本を守るのに右も左もない
2007年6月、米国で出版された『Legacy of Ashes The History of the CIA』は、NYタイムズで20年以上CIAを取材してきた専門記者ティム・ ウィナー氏が膨大な資料と関係者の証言をもとにその歴史を描いた本です。
<岸は日本の外交政策を米国の希望に沿うように変えると約束した。そして米国は、材日米軍基地を維持することができ、日本においてはきわめて微妙な問題をはらんでいたが、そこに核兵器を貯蔵することができた。
その見返りとして岸が求めたのは、米国からの秘密裏の<政治的支援だった>
「秘密裏の政治的支援」とは、ずばりCIAからのカネだと、ウィナー氏は著書で断定している。
「1994年のことです。CIAと米国政府との秘密作戦について取材していた私は、米国国務省が毎年発行している『米国の外交』の発行が遅れていることを知りました。
CIAの自民党に対する支援について記述することに、CIAが難色を示したことが原因でした」
岸は首相に就任する以前から、CIAを含む米国人脈を築きあげ、その人脈を通じて米国側に自らの政権構想への理解を求めていた。その構想には、保守派を合同して自由民主党を結成することや、安保改訂の計画までもがすでに含まれていた。
同時に岸は日本政界についてのさまざまな情報をCIAに提供した。
その見返りとして岸がCIAに求めたのが、政界工作資金だったのだ。
岸はCIAのエージェントであった。そして、岸は首相の座につくや、<CIAと協力して安保条約を練り直すことを約束した>。
交渉相手は、マッカーサー元帥の甥、ダグラス・マッカーサー二世だった。
<岸は新任の駐日米国大使のマッカーサー二世にこう語った。もし自分の権力基盤を米国が固めることに米国が協力すれば、新安全保障条約は可決されるだろうし、高まる左翼の潮流を食い止めることができる、と。岸がCIAに求めたのは、断続的に支払われる裏金ではなく、永続的な支援財源だった。「日本が共産党の手に落ちれば、どうして他のアジア諸国がそれに追随しないでいられるだろうか」と岸に説得された、とマッカーサー二世は振り返った>
当時、アメリカの対日政策は転換期にあった。東西冷戦の激化に伴い、日本を共産主義に対する“防波堤”とすべく、再軍備と自立を促す方針に転換したのである。
こうして得られた資金はどのように使われたのか。米国の外交文書には、57年と58年の二回、岸の弟である佐藤栄作が米国側に資金援助を要請したことが記録されている。
二回の資金要請は、ともに58年の総選挙と59年の参院選挙への対策を名目としていることから、CIAからの資金は選挙対策に投じられたと考えられる。
ウィナー氏は、CIAの工作をこう総括した。
「資金提供の見返りにCIAが得たのは、これから誰が指導者の地位を占めるのか、日本が今後どのような方向に進むのか、といった日本政界に関する情報でした。 ~中略~ この関係によって米国は対日外交政策の目標を達成し、アジアにおける相当な影響力を持った反共勢力、つまり日本を作り上げたのです」
岸信介は、A級戦犯だったにも関わらず、巣鴨拘置所から出されてCIAの工作員として活動する事になります。
そして、米国から資金供与を受けた岸信介は、自民党を結成して...
自民党が権力の座を維持するために必要なカネはアメリカから供給されていた。
その代償は、安全改定を含む、日本がアメリカにとって都合のいい国になることだった。
アイゼンハワー大統領が主要な保守政治家への資金援助を決定したことは、昨年7月刊行の『米国の外交
1964-1968』にやっと記された。ウィナー氏が記事を発表してから12年後の昨年、国務省はようやく問題の記述を一部公開したというわけだ。
1994年秋、米ニューヨーク・タイムズは公文書や証言を基に、米中央情報局(CIA)が自民党に巨額の資金を提供したと報じた。
CIAの武器は、巨額のカネだった。彼らが日本で雇ったエージェントのうち、もっとも大きな働きをしたのは、岸信介と児玉誉士夫だった。
彼はグルー元駐日大使などCIA関係者と戦時中から連絡をとっていたので、CIAは情報源として使えるとみて、マッカーサーを説得して彼をA級戦犯リストから外させ、エージェントとして雇った。
岸は児玉ともつながっており、彼の資金やCIAの資金を使って自民党の政治家を買収し、党内でのし上がった。
1955年8月、ダレス国務長官は岸と会い、東アジアの共産化から日本を守るための協力を要請した。そのためには日本の保守勢力が団結することが重要で、それに必要な資金協力は惜しまないと語った。
岸は、その資金を使って11月に保守合同を実現し、1957年には首相になった。その後も、日米安保条約の改定や沖縄返還にあたってもCIAの資金援助が大きな役割を果たした。
CIAの資金供与は1970年代まで続き、「構造汚職」の原因となった。
CIAの東京支局長だったフェルドマンはこう語っている:「占領体制のもとでは、われわれは日本を直接統治した。その後は、ちょっと違う方法で統治してきたのだ」
2007年6月、米国で出版された『Legacy of Ashes The History of the CIA』は、NYタイムズで20年以上CIAを取材してきた専門記者ティム・ ウィナー氏が膨大な資料と関係者の証言をもとにその歴史を描いた本です。
<岸は日本の外交政策を米国の希望に沿うように変えると約束した。そして米国は、材日米軍基地を維持することができ、日本においてはきわめて微妙な問題をはらんでいたが、そこに核兵器を貯蔵することができた。
その見返りとして岸が求めたのは、米国からの秘密裏の<政治的支援だった>
「秘密裏の政治的支援」とは、ずばりCIAからのカネだと、ウィナー氏は著書で断定している。
「1994年のことです。CIAと米国政府との秘密作戦について取材していた私は、米国国務省が毎年発行している『米国の外交』の発行が遅れていることを知りました。
CIAの自民党に対する支援について記述することに、CIAが難色を示したことが原因でした」
岸は首相に就任する以前から、CIAを含む米国人脈を築きあげ、その人脈を通じて米国側に自らの政権構想への理解を求めていた。その構想には、保守派を合同して自由民主党を結成することや、安保改訂の計画までもがすでに含まれていた。
同時に岸は日本政界についてのさまざまな情報をCIAに提供した。
その見返りとして岸がCIAに求めたのが、政界工作資金だったのだ。
岸はCIAのエージェントであった。そして、岸は首相の座につくや、<CIAと協力して安保条約を練り直すことを約束した>。
交渉相手は、マッカーサー元帥の甥、ダグラス・マッカーサー二世だった。
<岸は新任の駐日米国大使のマッカーサー二世にこう語った。もし自分の権力基盤を米国が固めることに米国が協力すれば、新安全保障条約は可決されるだろうし、高まる左翼の潮流を食い止めることができる、と。岸がCIAに求めたのは、断続的に支払われる裏金ではなく、永続的な支援財源だった。「日本が共産党の手に落ちれば、どうして他のアジア諸国がそれに追随しないでいられるだろうか」と岸に説得された、とマッカーサー二世は振り返った>
当時、アメリカの対日政策は転換期にあった。東西冷戦の激化に伴い、日本を共産主義に対する“防波堤”とすべく、再軍備と自立を促す方針に転換したのである。
こうして得られた資金はどのように使われたのか。米国の外交文書には、57年と58年の二回、岸の弟である佐藤栄作が米国側に資金援助を要請したことが記録されている。
二回の資金要請は、ともに58年の総選挙と59年の参院選挙への対策を名目としていることから、CIAからの資金は選挙対策に投じられたと考えられる。
ウィナー氏は、CIAの工作をこう総括した。
「資金提供の見返りにCIAが得たのは、これから誰が指導者の地位を占めるのか、日本が今後どのような方向に進むのか、といった日本政界に関する情報でした。 ~中略~ この関係によって米国は対日外交政策の目標を達成し、アジアにおける相当な影響力を持った反共勢力、つまり日本を作り上げたのです」
岸信介は、A級戦犯だったにも関わらず、巣鴨拘置所から出されてCIAの工作員として活動する事になります。
そして、米国から資金供与を受けた岸信介は、自民党を結成して...
自民党が権力の座を維持するために必要なカネはアメリカから供給されていた。
その代償は、安全改定を含む、日本がアメリカにとって都合のいい国になることだった。
アイゼンハワー大統領が主要な保守政治家への資金援助を決定したことは、昨年7月刊行の『米国の外交
1964-1968』にやっと記された。ウィナー氏が記事を発表してから12年後の昨年、国務省はようやく問題の記述を一部公開したというわけだ。
1994年秋、米ニューヨーク・タイムズは公文書や証言を基に、米中央情報局(CIA)が自民党に巨額の資金を提供したと報じた。
CIAの武器は、巨額のカネだった。彼らが日本で雇ったエージェントのうち、もっとも大きな働きをしたのは、岸信介と児玉誉士夫だった。
彼はグルー元駐日大使などCIA関係者と戦時中から連絡をとっていたので、CIAは情報源として使えるとみて、マッカーサーを説得して彼をA級戦犯リストから外させ、エージェントとして雇った。
岸は児玉ともつながっており、彼の資金やCIAの資金を使って自民党の政治家を買収し、党内でのし上がった。
1955年8月、ダレス国務長官は岸と会い、東アジアの共産化から日本を守るための協力を要請した。そのためには日本の保守勢力が団結することが重要で、それに必要な資金協力は惜しまないと語った。
岸は、その資金を使って11月に保守合同を実現し、1957年には首相になった。その後も、日米安保条約の改定や沖縄返還にあたってもCIAの資金援助が大きな役割を果たした。
CIAの資金供与は1970年代まで続き、「構造汚職」の原因となった。
CIAの東京支局長だったフェルドマンはこう語っている:「占領体制のもとでは、われわれは日本を直接統治した。その後は、ちょっと違う方法で統治してきたのだ」