新聞見出し「侮るな」から「恐れよ」 80万感染、1万人死亡も歴史に埋没
2021 7月 4日 日曜日 南日本新聞
インフルエンザとの戦いが、長丁場になることを伝える鹿児島新聞(1921年2月8日付)
第2波の県内の犠牲者は1920(大正9)年5月までの半年余りで4810人を数えていた。その後もくすぶり、6月に5人、7月4人と感染は続いた。そして12月、流行は再燃する。患者の数は一気に2千人を超え、24人が命を落とした。出水や蒲生で始まった流行は、すぐに各地へ広がった。
「流感襲来 商船校突然休校」(21年1月30日、鹿児島朝日新聞)
全生徒の3分の1にあたる77人に加え、校長までも冒された。「先年は健康を誇りたるに、本年は他校に先立ちて不幸を見た」
このような感染状況の変化や地域差は、前年の第2波でも確認できる。第1波で蔓延(まんえん)した川内や薩摩郡佐志は「一昨年に大流行があったためか、平穏」に終わったという。志布志も「不思議なほど魔の手が届かない」、日置郡西市来は「まるで無病地」のようだった。
集団免疫を獲得していた地域があったのだろうか。幸い第3波は患者の多くが「軽症」だった。
今年の流感は左程(さほど)悪性でなく仮令(たとい)感染しても滅多(めった)に死亡するようなことはない(2月1日、鹿児島新聞)
それでも21年6月までに計85人が犠牲になった。そして新聞には、この後に強いられる“長期戦”への警告が紹介された。
「英国保健省が警告 今後30年間は苦しめる」(2月8日、鹿児島新聞)
鹿児島を足かけ4年にわたって襲ったスペイン風邪では、約80万の県民が感染し1万人余りが命を落とした。その混乱を伝える日々の紙面で際立っていたのは、地元の医師らの冷静な発言だった。
「医者も薬も全く権威ない」「風邪だと思って軽視するが、害毒を与える事はペストやコレラ以上」など、その正体は「風邪」とは別物で死に至る病だと強調している。マスクやワクチンの予防効果も限定的だと指摘していた。
スペイン風邪を「侮るな」と呼び掛けていた新聞の見出しも、死者が増えるにつれて変化した。
「流感を恐れよ」(20年1月18日、鹿児島朝日)
行政も「注意!流感!あなたの命は大事でしょう」と大書きしたビラを街中に張り出した。県は国に補助金を要請しつつ、自前のワクチン製造までも手掛けている。
多くの児童や教員が犠牲になった教育界でも、全員が教室でもマスクを付け、毎日4回以上のうがいをするよう取り組んだ。児童用マスクを作った学校もあった。
スペイン風邪はこの後再び、大流行することはなかった。そして人々を苦しめた「悪魔」も、忘れ去られてしまう。流行直後に起きた関東大震災のような物的被害の大きい自然災害と違い、目に見えない厄災だったことや死亡率の低さが「軽い」病気に見せた。そして、けた違いの死者を出した昭和の戦争などの出来事に埋没したと歴史家はみる(速水融「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」)。
鹿児島でも当時は天然痘やコレラなど、死亡率が極めて高い感染症が身の回りにあった。第1波の4年前には桜島の大正噴火も起きていた。
流感? それはマスクの時節と云(い)った方が早(は)や判(わか)りかも知れぬ(20年12月15日、鹿児島朝日)
死と隣り合わせの感染症を乗り越えようと、100年前の県民はなじみのなかったマスクを暮らしに取り込んだ。特効薬やワクチンがない環境を生きるのは、新型コロナウイルス感染症が流行する現在もまた同じだ。=おわり=
●このころ
鹿児島市で初めて公設市場が設置された1921年、「大正の歌麿」と呼ばれた同市出身の版画家橋口五葉が39歳で死去した。流行性感冒にかかった後の脳膜炎が原因だった。
この年のノーベル物理学賞を受賞したのは一般相対性理論研究で知られるアインシュタイン。翌22年に、薩摩川内市出身の山本実彦らの招きで来日した。また21年にはフランスで、結核を予防するワクチンBCGが初めて人に投与された。