北海道新聞記者逮捕は「行き過ぎ」 メディアで働く女性ネットが抗議声明

2021年07月04日 20時22分30秒 | 事件・事故

6/28(月) 23:18配信

毎日新聞

北海道新聞社=札幌市中央区で、源馬のぞみ撮影

 北海道新聞旭川支社の女性記者(22)が旭川市の旭川医科大の建物内に無断で侵入したとして建造物侵入容疑で現行犯逮捕され、その後釈放されたのを受け、新聞、テレビ、出版、インターネットメディアなどで働く女性で組織した「メディアで働く女性ネットワーク」が28日、記者の逮捕に関する抗議声明を出した。

 声明では逮捕と拘束について「報道機関による取材・報道の自由に抵触し、取材活動に萎縮効果をもたらしかねない重大な問題をはらんでいる」と指摘。国立大学法人の旭川医科大に対しては「庁舎は国民の財産。特段の理由がないかぎり、国民に対して開かれた存在で、取材記者の通行も当然認められるべきだ」としたうえで、「逮捕は明らかに行き過ぎた措置だった」として抗議している。

 旭川東署によると、女性記者は22日午後4時半ごろ、同大学長の解任を審査していた非公開の学長選考会議を取材する際、同大看護学科棟4階に侵入した疑いが持たれている。同署は24日に記者を釈放。在宅で捜査を続ける。【源馬のぞみ】

【関連記事】

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@メディア

旭川医大に侵入容疑 道新記者逮捕、背景は

毎日新聞 2021/7/3 

大学「逃げ去ろうとした」/道新「事実関係を調査中」

 現場では何が起きていたのか――。北海道新聞旭川支社の女性記者(22)が取材の際、国立大学法人旭川医科大(旭川市)の建物内に無断で侵入したとして建造物侵入容疑で現行犯逮捕された事件。逮捕までの経緯や背景をさぐった。

 まず、当時の状況を振り返りたい。同大を巡っては学長選考会議が設置した外部調査委員会の非公開の審査内容などに注目が集まり、学長の解任審査に関する報道が過熱していた。吉田晃敏学長は6月17日に文部科学相に辞任を申し出たと突然公表。学長選考会議の内容について各社の記者が追っていた。

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北海道新聞の女性記者を釈放 取材中に旭川医科大に侵入し22日逮捕
[2021年6月24日18時43分]

北海道警旭川東署は24日、旭川医科大(旭川市)で取材中、建造物侵入の疑いで現行犯逮捕した北海道新聞の女性記者を釈放した。在宅に切り替えて任意で捜査する。

女性記者は22日午後4時半ごろ、正当な理由なく大学の看護学科棟4階に侵入したとして逮捕された。

大学では同日、吉田晃敏学長の解任を審査する学長選考会議を開催。新型コロナウイルス感染防止のため、部外者の構内立ち入りを原則禁止していた。

署によると、会議中の部屋前の廊下にいたのを見つかり、立ち去ろうとしたため職員が取り押さえた。(共同)

 


【100年前のスペイン風邪】足かけ4年で収束

2021年07月04日 20時16分44秒 | 事件・事故

 新聞見出し「侮るな」から「恐れよ」 80万感染、1万人死亡も歴史に埋没

2021 74日 日曜日 南日本新聞

   
インフルエンザとの戦いが、長丁場になることを伝える鹿児島新聞(1921年2月8日付)


第2波の県内の犠牲者は1920(大正9)年5月までの半年余りで4810人を数えていた。その後もくすぶり、6月に5人、7月4人と感染は続いた。そして12月、流行は再燃する。患者の数は一気に2千人を超え、24人が命を落とした。出水や蒲生で始まった流行は、すぐに各地へ広がった。

 「流感襲来 商船校突然休校」(21年1月30日、鹿児島朝日新聞)
 全生徒の3分の1にあたる77人に加え、校長までも冒された。「先年は健康を誇りたるに、本年は他校に先立ちて不幸を見た」

 このような感染状況の変化や地域差は、前年の第2波でも確認できる。第1波で蔓延(まんえん)した川内や薩摩郡佐志は「一昨年に大流行があったためか、平穏」に終わったという。志布志も「不思議なほど魔の手が届かない」、日置郡西市来は「まるで無病地」のようだった。

 集団免疫を獲得していた地域があったのだろうか。幸い第3波は患者の多くが「軽症」だった。

 今年の流感は左程(さほど)悪性でなく仮令(たとい)感染しても滅多(めった)に死亡するようなことはない(2月1日、鹿児島新聞)
 それでも21年6月までに計85人が犠牲になった。そして新聞には、この後に強いられる“長期戦”への警告が紹介された。

 「英国保健省が警告 今後30年間は苦しめる」(2月8日、鹿児島新聞)

 鹿児島を足かけ4年にわたって襲ったスペイン風邪では、約80万の県民が感染し1万人余りが命を落とした。その混乱を伝える日々の紙面で際立っていたのは、地元の医師らの冷静な発言だった。

 「医者も薬も全く権威ない」「風邪だと思って軽視するが、害毒を与える事はペストやコレラ以上」など、その正体は「風邪」とは別物で死に至る病だと強調している。マスクやワクチンの予防効果も限定的だと指摘していた。

 スペイン風邪を「侮るな」と呼び掛けていた新聞の見出しも、死者が増えるにつれて変化した。

 「流感を恐れよ」(20年1月18日、鹿児島朝日)

 行政も「注意!流感!あなたの命は大事でしょう」と大書きしたビラを街中に張り出した。県は国に補助金を要請しつつ、自前のワクチン製造までも手掛けている。

 多くの児童や教員が犠牲になった教育界でも、全員が教室でもマスクを付け、毎日4回以上のうがいをするよう取り組んだ。児童用マスクを作った学校もあった。

 スペイン風邪はこの後再び、大流行することはなかった。そして人々を苦しめた「悪魔」も、忘れ去られてしまう。流行直後に起きた関東大震災のような物的被害の大きい自然災害と違い、目に見えない厄災だったことや死亡率の低さが「軽い」病気に見せた。そして、けた違いの死者を出した昭和の戦争などの出来事に埋没したと歴史家はみる(速水融「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」)。

 鹿児島でも当時は天然痘やコレラなど、死亡率が極めて高い感染症が身の回りにあった。第1波の4年前には桜島の大正噴火も起きていた。

 流感? それはマスクの時節と云(い)った方が早(は)や判(わか)りかも知れぬ(20年12月15日、鹿児島朝日)
 死と隣り合わせの感染症を乗り越えようと、100年前の県民はなじみのなかったマスクを暮らしに取り込んだ。特効薬やワクチンがない環境を生きるのは、新型コロナウイルス感染症が流行する現在もまた同じだ。=おわり=

 ●このころ
 鹿児島市で初めて公設市場が設置された1921年、「大正の歌麿」と呼ばれた同市出身の版画家橋口五葉が39歳で死去した。流行性感冒にかかった後の脳膜炎が原因だった。

 この年のノーベル物理学賞を受賞したのは一般相対性理論研究で知られるアインシュタイン。翌22年に、薩摩川内市出身の山本実彦らの招きで来日した。また21年にはフランスで、結核を予防するワクチンBCGが初めて人に投与された。


百年前のスペイン風邪を振り返る!

2021年07月04日 20時14分29秒 | 医科・歯科・介護

~『感染症の日本史』磯田道史著を読んで~

令和2年10月の定例勉強会(令和2年10月21日開催)

 新型コロナウイルス感染症は欧米を中心にさらに流行の勢いを増し、WHOの報告によると10月時点で全世界の感染者は4000万人を超え、死亡者は110万人を上回ったとされています。いまだ確実な治療薬や有効なワクチンのない現状を考えると、過去のパンデミックの歴史を学ぶことは、新型コロナの今後を占う意味でも大切ではないかと考えます。
 そこで、磯田道史著『感染症の日本史』(文藝春秋)から、百年前のスペイン風邪が日本でどのように流行したのか振り返ってみましょう。

百年前に流行したスペイン風邪とは

スペイン風邪(H1N1新型インフルエンザウイルス)は、1918年から1920年にかけて流行し、世界の人口(当時18億人)の半数から3分の1が感染し、全世界で5000万人以上の人が死亡したとされています。

スペイン風邪の流行は第1次世界大戦の後半と重なっており、この大戦による戦死者が1000万人だったことを考えると、実にその5倍の人々がスペイン風邪で命を落としたことになります。スペイン風邪は、患者1人が2~3人にうつす感染力があったとされ、パンデミックとなって世界で多数の死者を出したことなど、今回の新型コロナウイルス感染症とよく似ています。

当時の新聞記事などから、感染終息までにはおよそ2年かかり、3つの流行の波があったようです。1つの波の期間は長くても6か月で猛烈な感染のピークは2~4か月でした。

① 第1波(春の先触れ):1918年5月~7月
② 第2波(前流行):1918年10月~翌年5月頃まで
③ 第3波(後流行):1919年12月~翌年5月頃まで

第1波は最初の流行のため広く多くの人が感染しましたが、死者はほとんどでませんでした。

同年10月からの第2波では、ウイルスが変異したことで致死率が高まり26万6千人もの死者がでました。とくに11月からは猛威を振るい翌年の1月には死者が集中しています。

第3波は、12月1日が旧日本陸軍への新兵の入営日であり、第2波を免れた新兵の入隊兵舎での集団感染が全国各地でおこりました。それが全国流行の発火点となりました。そして翌年1月以降本格的な殺戮がやってきました。第3波は、第2波より感染者数は少なかったものの多くの死者がでて致死率はさらに高まりました。政府はこの時期になって社会的隔離を呼びかけ、1920年3月にようやく流感は伝染病であると断定しました。第3波の流行に至るまで、政府によるイベントや営業の自粛、行動制限などの流行拡大のための予防対策はとられなかったのです。

このように新型ウイルスが2波、3波と繰り返すのは、ウイルスが変異したり他の地域から繰り返し感染が持ち込まれることにより、人口の大部分が免疫(集団免疫)を得るまで流行するためです。

ウイルスの変異によって致死率が高まっていったスペイン風邪

スペイン風邪では、ウイルスの変異によって第1波より第2波のほうが致死率が高まりました。

第1波では死者がほとんどでていないのに、第2波では26万6千人の死者がでました。第3波ではさらに致死率が高まり、感染者数は第2波より少なったものの18万7千人の死者(致死率5%)がでました。

最終的なスペイン風邪による日本での死者数は、日本本土で45万人(人口の0.8%)、外地(朝鮮、台湾)を含めると74万人の死者がでました。諸外国との比較では、日本の死亡率は欧米とほぼ同じで総人口の1%以下であったのに対し、そのほかの国は軒並み1%を超え、インドは6%にのぼっています。

日本国内でのスペイン風邪の流行

国内で流行が目立ったいくつかの地域の流行状況についても記載されています。

神戸は貿易港のためヒトの移動・密集・接触の場が多く、流行の拠点になりました。市電の運転手がスペイン風邪にかかり欠勤し運行本数を減らしたという記事が残っています。

京都は当時から修学旅行と観光のメッカで人の流入が多いことから、第2波では東京を抜いて死亡率が最も高くなりました。

青森県は人口が多いわけではありませんが、北海道への出稼ぎ者が多く、全国からウイルスをもって集まった出稼ぎ労働者から感染し、その感染者が青森県に帰って流行を広めました。青森は北海道と内地を結ぶ(青函連絡船の発着地)地点となっていたため、インフルエンザ患者が行き来してウイルスを振りまいた可能性も高いのではないかと推察しています。

政治の要職にある総理大臣原敬、山形有朋、大正天皇、皇太子(のちの昭和天皇)もスペイン風邪にかかりました。政府の要人の感染は連日の会議や宴席が、皇族の感染は展覧会等のイベントでの多くの人との接触がその原因ではないかと述べられています。

当時の新聞記事をみるかぎり、政府もメディアも早期から特別な伝染病であるとは警告していません。これが感染の被害につながりました。集会やイベントの制限もほとんどなされていません。与謝晶子の新聞投稿で、学校、興行所、工場など人が密集する場所の一時休業をなぜ要請しなかったのかと政府の無策を非難しています。いち早く行動制限と集会規制を行った都市は後手に回って都市に比べて死亡率に大きな差があったことも報告されています。

百年前のスペイン風邪流行から、いま私たちが学ぶこと

このようなスペイン風邪の流行から、我々は新型コロナ感染症について何を学ぶことができるでしょうか。

第1には、人の移動や密集がいかに流行を拡大させるかということを思い知らされたことです。
専門家が繰り返し啓蒙している“三密を避ける”ことの重要性を改めで認識させられました。

第2には、流行は一つの波では終わらないということです。
集団免疫を獲得するまで繰り返し流行が起こります。そして感染をくりかえすことにより、ウイルスが変異して致死率が高まる可能性があるということです。

100年前と違い、今では新型コロナウイルスの遺伝子配列がわかりPCR検査で診断ができるようになりました。医療は飛躍的に進歩しており、第1波の治療経験を生かすことで現在では救命率が上がり死亡者も少なくなってきています。しかし、有効な治療薬やワクチンが開発されていない点においては当時と変わりません。

このような状況下でスペイン風邪の教訓を生かすとすれば、国民一人一人が三密を避け、手洗い消毒を心がけることで、できるだけ流行のピークを緩やかにすることが最も重要だと思います。流行を緩やかにすることで医療崩壊を防ぎ、経済をなんとか回していく、その間に有効なワクチンが開発されることを期待する、そんなシナリオを描きながら新しい生活様式のなかで今を楽しんでいけたらと思います。

令和2年10月21日
あおい小児科 院長


スペインかぜ、日本の総人口の4割が罹患 ワクチンなしでも3年で収束

2021年07月04日 20時10分44秒 | 医科・歯科・介護

4/16(金) 19:05配信

NEWSポストセブン

スペインかぜはどう収束した?(SipaUSA/時事)

〈中国湖北省東部で原因不明の肺炎が複数発生〉。世界保健機関(WHO)が2020年1月にこう発表してから15か月。この間、新型コロナウイルスは全世界で猛威を振るい、累計感染者数約1.4億人、同死者数約300万人を記録した。このパンデミックは今後、どのような展開を辿るのか──見通せない未来を推測するために、20世紀初頭に世界中で流行したスペインかぜのケースで検証してみよう。

【グラフ】患者数2116万人(1918年8月、第1波)、241万人(1919年9月、第2波)…国内のスペインかぜの感染者数の推移、等

 コロナワクチンが開発されるなど光明もあるが、日本では医療従事者や高齢者向けの優先接種が始まったばかり。大阪などを中心に感染の広がりを見せる変異型ウイルスの懸念も広がり、先行きは見えない。

 この状況はいつまで続くのか、その参考となり得るのが、人類が疫病と戦ってきた歴史である。かつて世界を襲った感染症は、発生後どのように増加し、いつ収束したのか。発生から1年後、2年後、5年後、10年後の動向を見ていく。

 いまから約100年前(1918年)に世界中で流行した「スペインかぜ」には当時の世界人口の3割近くに相当する約5億人が感染し、死者数は4000万人(5000万説も)といわれている。(日本だけで約40人が死亡)

東京慈恵会医科大学教授の浦島充佳医師(予防医学)が解説する。

「スペインかぜは第一次世界大戦中に流行した感染症で、現代でいう『A型インフルエンザ』です。大戦によって国をまたいで大勢の人が行き交うようになり、それに伴いパンデミックが引き起こされたと考えられています」

 スペインかぜは、発生から拡大まで大きく「3つの波」に分かれて感染が確認された。

「当時の内務省が感染の経過についてまとめた『流行性感冒』という報告書を見ると、日本では3回にわたって流行が起きていたことがわかります」(浦島医師)

 日本に上陸したのは欧米諸国から約半年遅い1918年8月以降。9月後半に日本全土に拡大した。翌年春までの約半年間が感染のピークで、当時の総人口の4割近い2000万人以上が罹患し、25万7000人の死者を出した。

 第1波の1年後には第2波が襲来。新規感染者数は年間241万人に減ったものの、ウイルスは性質を“変異”させて強毒化したと考えられており、致死率が約4.3倍に高まった。1919年12月20日付の『香川新報』は〈感冒は頗る悪性にて約二割の死亡者を出しつつあり〉と報じている。さらに翌1920年に第3波が生じたが、感染者数は年間22万人にまで減少した。

 前述の『流行性感冒』には当時の米サンフランシスコ市の予防対策と流行状況が時系列でまとめられている。1918年9月以降、感染拡大に応じて、

〈学校や教会等の閉鎖〉〈マスクの使用を強制する規則発布〉

 など段階的に感染予防策を講じていたことが分かる。特にマスクの重要性を指摘しており、同年11月に感染者が減ったことでマスクの義務化を止め、学校などを再開すると感染者が再び増えたことが記されている。

「発生から約3年でワクチンも治療薬もなく収束したのは単純に大勢の人が感染したことで集団免疫を獲得したからだとされています」(浦島医師)

※週刊ポスト2021年4月30日号

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葉山嘉樹短篇集 葉山嘉樹短編小説選集

2021年07月04日 19時21分46秒 | 事件・事故

葉山 嘉樹 (著)

内容(「MARC」データベースより)

「セメント樽の中の手紙」「海に生くる人々」などの作品で、プロレタリア文学に金字塔を打ち立てた葉山嘉樹。民衆を最も深いところから把握し、暗い時代に圧し潰された悲劇の作家の短編17を収める。
 
読んでて面白いと感じた。特にセメント樽の中の手紙はたった5、6ページなのに、労働による犠牲の残酷さが尋常じゃなく身に滲みる。これ以上はネタバレになるので控えるが、プロレタリア文学に興味ある方はぜひ読んでいただきたい!
 
 
 
 
 
 

葉山嘉樹短篇集

葉山 嘉樹 (著), 道籏 泰三 (編集)

 葉山嘉樹(1894―1945)は、長篇『海に生くる人々』で知られているが、短篇小説でその本領を発揮した。葉山は虐げられた弱者、庶民、労働者を丹念に描き続けた。そこには、当時の日本文学が掬い切れなかった人間の破滅への衝動、思索的な内面性、文体・表現の斬新さ…、まったく独自の世界がある。 全短篇から、新編集により精選。葉山文学の真面目が初めて立ち上がる。

■収録作品
セメント樽の中の手紙/淫売婦/労働者の居ない船/天の怒声/電燈の油/人間肥料/暗い出生/猫の踊り/人間の値段/窮鼠/裸の命/安ホテルの一日

 生涯

士族の家庭に生まれる。旧制豊津中学(現:福岡県立育徳館高等学校)から1913年に早稲田大学高等予科に進学するも、学費未納により除籍。その後、船員としてカルカッタ航路や室蘭横浜航路の貨物船に乗船した。このときの経験が後年の作品の素材となっている。1920年(大正10年)、名古屋のセメント工場(1918年(大正7年)設立の名古屋セメント。同社は1922年(大正11年)に豊国セメントに合併される。)に勤務、そこでの労働事故をきっかけに労働組合を作ろうとするが失敗し、解雇される。その後名古屋労働者協会に加入、各種労働争議を指導した。

1923年(大正12年)、「名古屋共産党事件」で検挙名古屋刑務所に未決囚として投獄され、獄中で「淫売婦」「難破」(のちに「海に生くる人々英語版」と改題)を執筆。一旦保釈されたが、1924年(大正13年)有罪が確定。巣鴨刑務所に服役中、名古屋刑務所で遭遇した関東大震災の体験に基づき「牢獄の半日」を執筆し雑誌『文芸戦線』に発表する。1925年(大正14年)出獄後、『文芸戦線』1925年11月号に「淫売婦」、1926年1月号に「セメント樽の中の手紙」を、「海に生くる人々」を改造社から書き下ろしで発表し、これにより葉山は一躍文壇の新進作家となる。

既存のプロレタリア文学が観念的、図式的であったのに対し、葉山の作品は、人間の自然な感情をのびのびと描き、なおかつ芸術的完成度が高かった。特に「海に生くる人々」は、日本プロレタリア文学の傑作といわれる。プロレタリア文学運動が、『戦旗』派と『文芸戦線』に分かれたとき、『文芸戦線』派に属し、その代表的な作家として活動した。

特別高等警察(特高)による思想統制が激しくなり、日本の国論が中国大陸への侵出に統一されていくと、葉山は転向し、翼賛体制への支持を強めた。1934年からは長野県に住み、現地で小説を書きながら、工事現場で働いたりもした。

1943年には満州国で発行された『満州新聞』に投稿し、自らも満州国への開拓団運動に積極的にかかわるようになって何度も渡満した。最終的には開拓村に移住するために1945年6月、娘とともに渡満したが、ソ連軍の満州占領と第二次世界大戦日本敗北により日本への帰国を決める。その途中、1945年10月18日、列車内で脳溢血を起こし、徳恵駅に着いた時には死亡していた。戒名は清流院葉山大樹居士。遺体は徳恵駅付近の線路際に埋葬され、遺髪が長女によって青山霊園解放運動無名戦士墓に納められた

1977年10月18日、故郷のみやこ町(当時は豊津町)八景山に文学碑が設立された。

誠実な文章は底の底を照らす。
人が生きることの意味が、とても新しい角度から現れてくる。
人間の見方が、これまで感じることも、想像することもない形に変えられていくような気持ちになる。
どこを見ても際立つ傑作である。
小説の基底には働く人たちの連帯感がある。
そして社会に向ける激しい怒りがある。
でもそれだけではない。
抽象化や観念は一切同じない。
人間の姿にが鮮やかに打ち出されているのだ。
現実を「描く」のではなく、それをもとに、世界を「つくる」。
人間の書くものとして確かなものを、つくりあげるという作品なのだ。
著者はそこに一命を賭けた。
後期の作品も、滋味あふれるものだ。
これまでとは異なる柔らかい語りで、主に山村で暮らす人たちの日々を活写した。
いつも新しい世界を歩いた小説家だ。荒川洋治評

 

中学生の時にアンソロジーに収録されていた「センメント樽の中の手紙」を読んだ。強烈な印象だった。あれから50年たって、再読。
 編者の解説によれば、プロレタリア文学者とされている葉山はプロレタリア文学から「逸脱」しているという。確かに、初期の作品はプロレタリア文学というより、エロ・グロ・アナーキーという作風だ。
 12編の短篇が執筆年代順に収録されており、作風の変化がよくわかる。初期のエロ・グロ・アナーキーから、後期はプロレタリア文学っぽい理屈の多い私小説という感じ。私にとっては、初期の3作が圧倒的に面白かった。また、「セメント樽の中の手紙」、6ページの掌編なので、立ち読みでもいいから読んで欲しい、と思う。エロ・グロ・アナーキーという点では、この作品と江戸川乱歩の「芋虫」が双璧、と思う。
 なお、編者はドイツ文学者のようだが、忘れられつつある作家をとりあげ、丁寧な解説をしていることに敬意を表したい。

 

淫売婦 by [葉山 嘉樹]
 
淫売婦 
 
日本のプロレタリア文学を先導した作家、葉山嘉樹を代表する短編小説。初出は「文藝戦線」[1925(大正14)年]。後に同名の短編集が出版される。
横浜のメリケン波戸場で三人の男たちに取り囲まれた若い船員民平は、連れ込まれた倉庫のなかで、体を壊したが、生活のため体を売らざるをえない、やせ衰えた若い淫売婦と出会う。嘉樹の出世作にして、日本のプロレタリア文学を代表する名作。
 
 
この「淫売婦」は『文芸戦線』大正14年11月号に掲載された。約1年前に同誌に発表された「牢獄の半日」がかれの処女作であった。が、一般に注目されだしたのは当作品からであった。じっさい、広津和郎や宇野浩二といった面々が時評でこの作品に言及している。
「我々には想像もつかない世界の/人間生活のどん底の曝露である。/かうした題材を探し出してきた作者の眼のつけどころも、十分推奨に値する」(『新潮』大正15年3月号広津)「私は淫売婦の代わりに殉教者を見た。/彼女は、非搾取階級の一切の運命を象徴しているように見えた。/私は眼に涙が一杯溜まった。私は音のしないようにソーッと歩いて、扉の所に立っていた蛞蝓へ、一円渡した。渡す時に私は蛞蝓の萎びた手を力一杯握りしめた。/そして表へ出た。階段の第一段を下りるとき、溜まっていた涙が私の目から、ポトリとこぼれた。」というくだりは、明らかにかの有名な「セメント樽の中の手紙」を彷彿とさせるものであった。プロレタリア作家の誕生であった。