
ニュースや日常のなかで「言葉が雑に使われている」と感じたことはないだろうか?
かつて哲学者のウィトゲンシュタインは、「すべての哲学は「言語批判」である」と語った。
本書で扱うのは、巷でよく見かける、現実をぼやかす言葉、責任を回避する言葉のほか、
日常の中で文化の奥行きを反映する言葉などの「生きた言葉」たちだ。
結局、言葉を大切にするとは何をすることなのか。
サントリー学芸賞受賞の気鋭の哲学者が、
自分自身の表現を選び取り、他者と対話を重ねていくことの実践法を説く。
【目次】
第一章 言葉とともにある生活
1 「丸い」、「四角い」。では「三角い」は?
2 きれいごとを突き放す若者言葉「ガチャ
3 「お手洗い」「成金」「土足」―生ける文化遺産としての言葉
4 深淵を望む言葉―哲学が始まることの必然と不思議
5 オノマトペは幼稚な表現か
6 「はやす」「料る」「ばさける」―見慣れぬ言葉が開く新しい見方
7 「かわいい」に隠れた苦味
8 「お父さん」「先生」―役割を自称する意味と危うさ
9 「社会に出る」とは何をすることか
10 「またひとつおねえさんになった」―大人への日々の一風景
11 「豆腐」という漢字がしっくりくるとき―言葉をめぐる個人の生活の歴史
第二章 規格化とお約束に抗して
1 「だから」ではなく「それゆえ」が適切?―「作法」に頼ることの弊害
2 「まん延」という表記がなぜ蔓延するのか―常用漢字表をめぐる問題
3 「駆ける」と「走る」はどちらかでよい?―日本語の「やさしさ」と「豊かさ」の緊張関係
4 対話は流暢でなければならないか
5 「批判」なき社会で起こる「炎上」
6 「なぜそれをしたのか」という質問に答える責任
7 「すみません」ではすまない―認識の表明と約束としての謝罪
第三章 新しい言葉の奔流のなかで
1 「○○感」という言葉がぼやかすもの
2 「抜け感」「温度感」「規模感」―「○○感」の独特の面白さと危うさ
3 「メリット」にあって「利点」にないもの―生活に浸透するカタカナ語
4 カタカナ語は(どこまで)避けるべきか
5 「ロックダウン」「クラスター」―新語の導入がもたらす副作用
6 「コロナのせいで」「コロナが憎い」―呼び名が生む理不尽
7 「水俣病」「インド株」―病気や病原体の名となり傷つく土地と人
8 「チェアリング」と「イス吞み」―ものの新しい呼び名が立ち現せるもの
第四章 変わる意味、崩れる言葉
1 「母」にまつわる言葉の用法―性差や性認識にかかわる言葉をめぐって1
2 「ご主人」「女々しい」「彼ら」―性差や性認識にかかわる言葉をめぐって2
3 「新しい生活様式」―専門家の言葉が孕む問題
4 「自粛を解禁」「要請に従う」―言葉の歪曲が損なうもの
5 「発言を撤回する」ことはできるか
6 型崩れした見出しが示唆する現代的課題
7 ニュースの見出しから言葉を実習する
8 「なでる」と「さする」はどう違う?
主にウィトゲンシュタインを研究対象とする著者による、言葉をめぐる論考を集めたもの。いずれも日常のことや社会的な関心を集めていることから軽いタッチで話は始まるが、かなり踏み込んだ議論へと進んで行く。それぞれの分量は決して多くはないが、じっくり読ませる内容かつ読者の側にも思索を巡らせることを促す内容である。
本書の最後は、次のような文章で締めくくられている。「私たちの生活は言葉とともにあり、そのつどの表現との対話の場としてある。言葉を雑に扱わず、自分の言葉に責任をもつこと。言葉の使用を規格化やお約束、常套句などに完全に委ねてはならないこと。これらのことが重要なのは、言葉が平板化し、表現と対話の場が形骸化し、私たちの生活が空虚なものになること-ひいては、私たちが自分自身を見失うこと-を防ぐためだ。本書はここまで、この点を跡づけてきたつもりである。」
特に今般のコロナ禍の中で言葉に関して起きたあれこれ。例えば「濃厚接触」や「社会的距離」などの問題ある訳語の出現、「新しい生活様式」という新たな言葉の創出、「自粛を解禁」といった歪んだ言葉の使用など。言葉という切り口から、実は問題があった出来事を鮮やかに腑分けしてみせたところが素晴らしい。
古田徹也さんの本はこれで3冊目です。
過去に、論理哲学論考(角川選書)、はじめてのウィトゲンシュタイン(NHK出版)を読んでいます。
古田徹也さんの特筆すべき特徴として、物事に対する中立的な姿勢があると思います。
相手を言い負かすような議論はネットに限らずよく目にするようになり、
いったい彼らは何のために議論しているのかとうんざりすることが多いのですが、
古田さんは自身の主張をしつつ相手を言い負かすような議論をしないという姿勢が感じ取れて好印象です。
どのコラムも共感しながら読むことができました。
個人的な意見ですが、幼児に対する一人称(「お父さん」「先生」など)は、
古田さんが主張されていた幼児に対して役割を明示するという意味よりも、
幼児は交換可能な一人称(「私」など)を理解できないという理由の方が大きいのではないかと思いました。
私は"私"、あなたも"私"、これがまだ分からないのではないか?と思うのです。
(理解できないから明示的な一人称にするという解釈でよければ両方とも成立しますね)
また、前述した2冊に比べて少し物足りなさを感じたのは否めません。
誰もが誤読なく手軽に読める内容ですが、古田さんの思想をもっと深く知りたかったです。
このレビューのタイトルは、本書の188頁からのものだが、この件に限らず、まったくもって感心する文章に、何度も出会う、秀逸本。
とりわけ、わたしがうーんと唸ったのは、71頁にある、以下の注記。
「自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと」という言葉。
たまたまこの頁のこの文章を見て、購入を決めた。
まだまだ、読みたい文章が、てんこ盛りの新書であると思う。
ウィトゲンシュタインの研究者である、古田さんの本だからだろうといえばそれまでですが、言葉の
面白さと怖さ、そしてそこからくる「言葉の大切さ」がストンと腹落ちしました。
前半部分は、言葉の「面白さ」について多く触れられていて、後半は「恐ろしさ」が中心になって
います。
■ 言葉の面白さ
挙げだすとキリがないので、ほんの数例だけですが、実に興味深いです。
・「白い」「黒い」「赤い」「青い」とは言われるが、「緑い」「紫い」などとは言わない
これは日本人にとって古来「白」「黒」「赤」「青」が基本的な色彩であったことを示す
・「土足で入ってくる」という表現は、プライベートスペースに土足のまま入ってくることに対して
強い拒否反応を示す文化内でのみ、独特の意味をもつ
・日を数える時に、ついたち、ふつか、みっか、よっかというように、「ついたち」になっている
のは、「月立ち」から来ているからだ
・オノマトペ言葉は幼稚な代物ではなく、「しとしと」「ぽつぽつ」「ぱらぱら」などで雨が降る
様子を表すように、繊細な使い分けが要求される成熟した言葉表現である
古田さんは「言葉について考えることは、それが息づく生活について考えることでもある」と評して
います。言葉の感性を持つことの大切さや、それを持ち合わせていると、言葉が面白くなることに
気付かされました。その古田さんが本書で使われている文章も、平易だけれども知的で味わい深い
ものがあります。ひとつだけ取り上げます。
その普通の豆腐が、シンプルなかたちと洗練された滋味も相俟って、
自分のしていることの 卑小さと対照を成していると実感した
本書中盤の、「交ぜ書き」についてあたりから、言葉の面白さと、恐ろしさが交差し始めます。
「まん延」「ひっ迫」「破たん」のような交ぜ書きは、さしあたり、不自然で不格好だ、という
著者の意見には、完全に同意します。
単純に美しくないし、文化を貧弱にしていきます。
古田さんの言葉で言うなら、「画一的なものの見方や考え方に支配されることにつながる」です。
■ 言葉の恐ろしさ
現在進行形の新型コロナ感染症問題に関わる「濃厚接触」「都市封鎖(ロックダウン)」
「自粛解禁」「新しい生活様式」など、解釈が曖昧であったり、誤用されたりしていることの指摘
は、読者である私たちの多くが首肯するものです。
本書ではさらに踏み込んで、何気なく日常に紛れ込んで馴染んでしまっているけど、どこか
「違和感」を感じるときに、その言葉に対して改めて注意を向けて見直すことを提起しています。
著者の指摘に共感するものとして、次の2つを取り上げます。
・夫婦の呼び方で困っている問題
「主人」「旦那」「亭主」も、「家内」「嫁」「奥さん」も男性優位を彷彿させるため、避けよう
とする人が増えてきており、「夫」「妻」「パートナー」といった言葉が用いられる傾向がある。
・SNSなどの短文コミュニケーション
短いために、誤解や混乱を招く表現が多くみられるので、それらを避けるための技術の必要性が
増している。
言葉は、歴史と文化の蓄積であり、そこに内包される豊かさを、探れば探るほど、見つけることが
できる面白さがあります。
また、言葉は常に変わりゆくものでもあり、その方向性によっては社会を歪めて操作しうる恐ろしさ
もあります。
著者が『あとがき』で警鐘を鳴らしているように、「言葉に不関心であってはならない」のです。
これほど、言葉について楽しみながら考えることのできる良書はありません。お勧めです。
古田徹也(1979年~)氏は、東大文学部卒、同大学院人文社会系研究科博士課程修了、新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授等を経て、東大大学院人文社会系研究科准教授。『言葉の魂の哲学』(2019年)でサントリー学芸賞受賞。専門は現代哲学、現代倫理学。
本書は、2020年9月~2021年5月に朝日新聞に連載されたコラムのテーマをベースに、内容としては大半を書き下ろしたもの。
内容は、私たちが今、日常の生活の中で使っている様々な言葉について、それらの持つ多様な側面を考察した(著者はその行為を「哲学する」と表現している)ものであるが、34に分けられたテーマは、新聞連載から取られていることもあり、常日頃感じていることも多く、とても興味深いものとなっている。
私が面白いと思ったのは、例えば以下のようなテーマである。
◆近年若者がよく使う「●ガチャ」という言葉について
◆「まん延」、「ちゅうちょ」、「あっせん」、「ねつ造」、「改ざん」、「ひっ迫」等の平仮名書き、漢字との交ぜ書きについて
◆特定の障害のある人や在日外国人にも習得・理解がしやすいように調整された、いわゆる<やさしい日本語>について(人工的な共通言語は、G・オーウェルの『1984年』に登場する全体主義国家の公用語「ニュースピーク」に通じることに注意が必要である)
◆対話の「当意即妙さ」、「流暢さ」は言語実践において称賛されるべきことなのか
◆自由で民主的な社会において、「なぜそれをしたのか?」という問いに政治家が答えないことをどう考えるか
◆政治家・有名人が謝罪会見で使う「私の発言が誤解を招いたのであれば申し訳ない」、「ご心配をおかけして申し訳ありません」、「私の不徳の致すところで・・・」等は謝罪の言葉といえるのか
◆「スピード感」のような「●●感」という言葉について
◆氾濫するカタカナ語をどう考えるか
◆性差や性意識にかかわる言葉(「母」のつく熟語、「ご主人」、「女々しい」、「彼ら」等)をどう考えるか
◆コロナ禍で現れた「新しい生活様式」、「自粛を解禁」、「要請に従う」等の言葉をどう考えるか
◆政治家がよく使う「発言を撤回する」ことはできるのか
読了して、改めて、言葉の大切さ、「<しっくりくる言葉を慎重に探し、言葉の訪れを待つ>という仕方で自分自身の表現を選び取り、他者と対話を重ねていく実践>の重要性を認識することができた。
(2022年1月了)