ユウ君がボール遊び

2022年01月13日 15時18分54秒 | 投稿欄
月に2回、ユウ君が来る。
12月24日は、ケーキを取りに。
1週間早いお年玉をバーバが渡す。
 
大晦日は、長男が餅を取りにきたのだ。
次男のおじさんからお年玉をもらったが、階段にミカンを並べるいたずら過ぎて、おじさんを怒らせる。
さすが、ユウ君も首を垂れて、しょ気ていた。
 
2021年12月31日2歳8か月のユウ君がボール遊び
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ユウ君がボールで遊ぶ2021 12 31
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利根川堤防を走る野球部員たち2022 1 8
 
 
 
2021年12月28 日1利根川のジロー
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2021年12月28日利根川の猫ジロー
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利根川の猫ジロー 2021 12 28
 
 
 
 
 

核戦争に勝者はなく、決して戦ってはならない

2022年01月13日 14時18分32秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼子どもの人材育成の要は「触発」である。
激励すれば、知恵が湧き、勇気が出せる。
▼1月17日、阪神・淡路大震災から27年となる。
その地震発生の時間帯に早朝散歩中で、携帯のラジオで地震を知り、慌てて家まで走って戻る。
そして、神戸の知人、友人の無事を祈る思いで安否確認の電話したことが忘れられない。
同僚の一人は翌日、激励と取材活動で現地入りする。
▼<いかなる国家も他国との戦争において、将来の和平において相互の信頼を不可能にするような敵対行為をしてはならない>
哲学者カント(7年戦争からナポレオン戦争への時代を生き抜いた)
▼核戦争に勝者はなく、決して戦ってはならない。
人類滅亡にもなるのだから。


精神疾患 オープンダイアローグとは何か

2022年01月13日 13時19分52秒 | 医科・歯科・介護

斎藤環  (著, 翻訳)

精神科医/筑波大学医学医療系社会精神保健学教授

斎藤 環

1961年生まれ。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。爽風会佐々木病院などを経て、現職。専門は思春期・青年期の精神病理学で、ひきこもりの治療でも知られる。文学、映画、美術、漫画など幅広いジャンルで批評活動を展開。
著書に『社会的ひきこもり』『心理学化する社会』『家族の痕跡』『母は娘の人生を支配する』『関係の化学としての文学』『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。
 
精神疾患 対話を通じて回復をめざす

対談「オープンダイアローグ」に学ぶ 子どもとの対話の持つ可能性」 

斎藤環教授(精神科医/筑波大学)× 高橋暁子(元小学校教員/ITジャーナリスト)
2019/07/11 公益財団法人 博報堂教育財団
 
対談

フィンランド発の「オープンダイアローグ」という精神療法をご存知でしょうか。ダイアローグとは「対話」という意味であり、オープンダイアローグとは文字通り開かれた対話のこと。

従来は薬が必要だった統合失調症の治療に高い効果があることで、注目を集めています。 オープンダイアローグとはどのようなものなのでしょうか。子どもとの対話などにも活用できるのでしょうか。小学生の子どもを持つ母として、オープンダイアローグについて研究し、『オープンダイアローグとは何か』(医学書院)などの著書を持つ筑波大学斎藤環教授に話を聞きました。

「オープンダイアローグ」とは何か

高橋 まず、オープンダイアローグとはどういうものか、わかりやすく教えてください。

ミーティングの参加者は、患者、家族、友人、医師、看護師、セラピストなど、患者に関わる全ての人が対象となります。ミーティングは基本的に全員参加で、医療チームでの話し合いもすべて患者の眼の前で行い、患者の同意なしに進めることはありません。斎藤 患者や家族から連絡をもらって24時間以内に訪問し、繰り返しの対話を通して症状緩和を目指す療法のことです。単に手法というばかりではなく、実践のためのシステムや思想を指す言葉でもあります。1980年代にフィンランドのケロプダス病院で始まりました。

オープンダイアローグを導入した西ラップランド地方では、統合失調症患者の入院治療期間が平均19日短縮されました。また、通常治療では服薬が必要な患者が、この療法後は35%しか必要としませんでした。さらに2年後の予後調査では、再発がないか軽微なものにとどまっていた患者は82%(通常治療50%)、再発率も24%(同71%)と大きな成果を上げています。

これまで薬を使うことが前提だった統合失調症の治療が、対話だけで解決できるのです。対話全般のあり方を見直す上でも大きな可能性があると思います。

高橋 そのすべてが対話の力なのですね。対話にそこまでの効果があるとは、本当に驚きました。

斎藤 ええ、モノローグ(独り言)ではなくダイアローグ(対話)なところがポイントです。妄想とはモノローグであり、患者をモノローグから抜け出させるのが周囲との対話なのです。

世間一般で対話と思われているものも、実は対話じゃないことがほとんどです。対話とは何かを知るためには、対話ではないものを考えるとよいですね。たとえば、議論や説得、説明は対話ではなく、モノローグとも言うべきものです。議論、説得、説明は、すべて結論ありきですよね。このように、相手にわからせよう、伝えよう、意見を変えてやろうという意図のやりとりは、すべて対話ではないと考えてください。

対話の目的は、対話を続けることそれ自体です。相手の気持が変わる、結論が変わる、選択肢が変わることを目指すのは対話ではありません。治療の成果は、あくまで対話の副産物なのです。

結論を求めるためではなく、支援を必要とする主体がいて、その主体との対話が軸となります。主役は主体であり、周囲はそれに対して感想などを返していきます。そうするうちに、中心にいる患者の症状が消えていくというわけです。

高橋 オープンダイアローグについて知った時、どのように感じましたか。

斎藤 直感的に「いける」と感じましたね。これまで考えあぐねていたことがすべてつながり、色々なピースが一気にはまった感じです。

たとえばオープンダイアローグには、クライアント(患者)不在のところでクライアントに関することを決めてはいけないとか、治療者だけで話さず必ずクライアントの眼の前で話すというルールがあり、倫理性が一貫しています。クライアントの知る権利を尊重しているわけですね。

また、通常の治療場面のように、医師--患者という権力構造のもとにある二者関係はしばしばハラスメントの温床であり、問題が起きがちですが、オープンダイアローグはチームで治療しますのでこうした問題を回避できます。社会の様々な場面では、無意識のうちにヒエラルキーがあるまま会話を行ってしまうわけですが、そうした階層構造を徹底的に無くすことがオープンダイアローグのまさに根幹となる考え方なんです。

薬はほとんど使わないし、知る権利も尊重しているし、権力関係にも依存しない。これほど倫理的な手法は、治療法に限定しても、ちょっとほかに例がありません。治療上の倫理性が高いほど効果的なのが素晴らしいですね。

親子でも使えるオープンダイアローグという手法

高橋 オープンダイアローグは統合失調症の治療に使われる療法ですが、それ以外にも活用できるのでしょうか。たとえば、小学生や中学生の子どもとの親子間コミュニケーションでも使えるのでしょうか。

 

斎藤 できるでしょう。対話全般、つまり色々な場面で使えると思いますし、特に、悩みがある場合に役に立つと思いますね。オープンダイアローグでは、治療者は一般的/客観的な世界に住んでいて、患者は特殊/主観的な世界に住んでいるとは考えません。全く対等な存在として扱います。これは、大人と子どもの関係にもあてはめてみることはできると思います。

高橋 とても興味があります。具体的にはどのようにすればいいのですか? 親子間で聞く場合のコツを教えてください。

斎藤 時間にして、1時間〜1時間半くらい、話をしっかり聞いてください。その時に、複数メンバーがいた方が聞いてもらえた感じが深まります。

母と子の一対一ではなく、その他の家族や友達が参加するほうがいいですね。そもそも一対一は難しく、高いスキルが必要になります。特に親子関係のように、力の関係がはっきりある場合はそれだけでも難しい。また親子では関係が近すぎるために、見えなくなってしまう面があると思うのです。たとえば他人の子どもなら気づくのに、自分の子どもの成長には気づきづらい経験がある方は多いでしょう。

そこで、第三者に入ってもらうと、視点が変わり、色々なことに気づきやすくなります。普段と違うところに目が向きやすくなるわけです。権力関係があると助言や感想が命令に聞こえたりしてこじれやすいので、その意味でも、色々な人が入るほど関係性がフラットに近づくのでいいですね。

これに加えて、「リフレクティング」という手法があります。例えて言えば、クライアントの前で専門家どうしがクライアントの噂話をするような形を取ります。具体的には、クライアントの評価や今後の方針などを、専門家同士の対話のなかで話し合ってみせるのです。例えば「この人はこういうことをがんばっていると思う」とか「努力が及ばないときには治療を受けてみるのもいいのでは」などのように。人は自分について誰かが話し合っているのをなかなか無視できないものです。そのせいか面と向かって話す場合よりも、こちらの話をしっかり聞いてくれます。その応用で言えば、子どもの目の前で、両親が子どものがんばりを評価し合ったり、褒めたりしてもいいですね。普通にほめるよりも喜ばれると思います。

高橋 ただ褒められるより、「◯◯さんが褒めていたよ」などと第三者の言葉で褒められると嬉しいのと同じですね。

高橋 実際に活用してみたいので、聞く時のコツを教えてください。

基本的姿勢は「あなたのことをもっと知りたい」という興味関心を前面に出すことです。上からでも下からでもなく、相手に対する好奇心と尊重の気持ちを忘れずに向き合うことです。経験をもっと深めるような質問をするのがいいでしょう。その時の気持ちを語らせたり、経験を描写してもらうのもおすすめです。斎藤 まずは共感することが大切です。たとえば、「私も同じ経験があるので、その辛さはよくわかります」とか、「話を聞いていて私も苦しくなってきました」のように、感情を伴った聞き方ができるといいですね。

基本的には、相手の話を批判したり否定したりしないことです。言葉で否定しなくても、態度に出すのもいけません。否定や批判は、思った以上に態度に出ているものです。対話の目的は「なにが正しいか」を追求することではありません。いわば主観と主観の交換ですから、批判をする必要はありません。

感想を伝えるのもいいですね。相手の好きなものを「私も好き」と言えるなら結構ですが、もし嫌いだったら「私にはよくわからない」と伝えても構いません。なんでも迎合する必要はありませんが、相手がなぜそれを好きなのか、この点について丁寧に尋ねてみるのは大切なことです。

高橋 子どもの話を聞いていると、つい「つまりこういうことね」とまとめてしまうんですが...

斎藤 まとめたり解釈したりするのは好ましくないとされています。相手を不安にしてしまうことがあるからです。わかりにくいことは一つ一つ質問を繰り返すことです。「わかったつもりになる」ことを、いかに我慢できるかが大切です。

高橋 耳が痛いです...。他に注意点はありますか?

斎藤 親御さんの多くはお子さんの言葉を、みなまで言わせないでさえぎってしまう傾向にあるので、とにかく最後まで話させることが大切です。一時間じっくり話を聞ければ、ほとんどの方が満足します。ただ聞きっぱなしではなく、子供の発言にはさまざまな反応を返してください。お子さんが「お母さんの態度に腹がたった」と言ったら、「お母さんの態度に腹が立ったのね」と繰り返したうえで「よかったら、どういうところに腹が立ったのか、もう少し話してくれる?」と聞いてみましょう。言葉を丁寧に聞き取り、それに誠実に反応しましょう。家族はお子さんにとって環境そのものです。ただしっかり話を聞くようにするだけでも、お子さんの「居場所」が広がり、呼吸がしやすくなるのです。

わからないものを無理にわからなくてもいいんですよ。たとえば統合失調症の患者さんが「幻聴が聞こえた」とい訴えてきても、無理に「わかる」と同意する必要はありません。「私には聞こえないのでわかりませんが、わからないのでもっと詳しく教えてください」でいいんです。我々も、他人に知りたがられると嬉しいですよね。知りたいと思われていること自体が喜びなんです。

それから「オープンダイアローグ」という名称からよく誤解されることですが、喋りたくないことは喋らなくていいんです。自分の隠したいことを喋る必要はありません。つい出てしまうことはありますが、秘密を暴く手法ではないのです。

 


 高橋
 自分から話してくれる子ならいいのですが、子どもに話を振ってもなかなか話してくれないことがあります。面倒臭がって「忘れた」と言われてしまったり。

高橋 自分から話してくれる子ならいいのですが、子どもに話を振ってもなかなか話してくれないことがあります。面倒臭がって「忘れた」と言われてしまったり。

斎藤 無理に言葉を引き出そうとする必要はありません。ただでさえ子どもにとって親の「知りたい」は、監視や管理と誤解されやすいのです。その意味では「何を考えているか」よりも「何を感じているか」のほうに焦点を当てるといいでしょう。リフレクティングも効果的です。お子さんはなかなか話してくれなくてもご両親間で、ご本人のいるところで、お子さんについて話し合うのです。「この子はこんなふうに考えているのかしら」「この子の将来を心配することしかできない自分がもどかしい」みたいに。これはお子さんから「そうじゃないよ」と突っ込まれるのを期待してのことでもあります。あと、もちろんお子さんから相談などをもちかけられたら、しっかり反応を返して話をふくらませてください。対話の目的は解決ではなく、対話が続くようにすることですから。

対話はシンフォニーでなくていいんです。調和ではなく、お互いの違いを掘り下げることが大切です。オープンダイアローグでは、シンフォニーではなくてポリフォニーと言っています。様々な音が混じって一つの音楽になるというというよりも、様々な音がそれぞれ混じらずに並列していても成立するような音楽という比喩ですね。

高橋 最近は、親子間でもLINEなどのチャットでコミュニケーションすることも多くなっています。オープンダイアローグは、そのようなものでも可能でしょうか?

斎藤 残念ながら、チャットでは難しいですね。感情的なものが伝えにくいからです。やはり直接話すことが大切ですね。

高橋 私はそちらが専門ですが、やはりチャットなどではコミュニケーションが難しいと感じています。直接話し合うことが大切なんですね。ぜひ実践として、子どもとの対話を心がけてみたいと思います。

本日は興味深いお話をありがとうございました。

(2019年1月29日 筑波大学研究室にて)

 

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なぜ人は、“対話”だけで回復するのか。

依頼があったら「24時間以内」に精神科の「専門家チーム」が出向く。
そこで患者・家族・関係者をまじえて、状態が改善するまで、ただ「対話」をする――。
フィンランドの一地方で行われているシンプルきわまりないこの手法に、世界の注目が集まっています。
この手法に、かねて「人薬(ひとぐすり)」の効用を説いていた斎藤環氏が魅入られました。

《結論から言いましょう。いまや私は、すっかりオープンダイアローグに魅了されてしまっています。
ここには確実に、精神医療の新しい可能性があります。》(本書12頁)

《経験を積んだ専門家ほど、その手法と思想を聞いて「これは効かないほうがおかしい」
と感じてしまうのは無理もありません。私自身が文献を読んだだけで、
これほど入れあげてしまったのもおわかりいただけるでしょう。
それほどこの「開かれた対話」には確たる手応えがあったのです。》(本書14頁)

オープンダイアローグの第一人者セイックラ氏の論文と、斎藤環氏の熱情溢れる懇切丁寧な解説が融合。
生き生きとした事例、具体的なノウハウ、噛み砕いた理論紹介で、話題のオープンダイアローグの全貌がわかる一冊です。

 

フィンランド発、今までの精神医療を越える、強力でシンプルな手法。簡単に言えば「オープンに話し合う」というだけ。それだけで症状が治るというもの。統合失調症を始め、うつ病、PTSD、家庭内暴力など、その対象範囲は広い。 
 この方法では、治療者が一方的に病理を見つけて早急に手をくだすようなことはしない。相互性を重視し、対話のなかで生まれるプロセスを尊重する。 
 
 オープンダイアローグが広がると、仕事を失って困る人がたくさんいるだろうし、それと、どこの国や地域でも同じように成果が出るかどうかとか、ほんとうに普遍性のある手法かどうかは、まだまだこれから向き合っていかなければならないところだろう。 
 けれど、医療関係者はもちろん、一般市民も取り組みに参加して、積極的に活かしていけたらいいのではないかと思う。 
 思想的な背景もきちんと書かれてるので、ちょっとした勉強にもなる。具体的な事例も書かれてるから、実践する上でも参考になると思う。

 

オープンダイアローグを知るために、斎藤氏は、第1部解説「オープンダイアローグとは何か」で、概略・理論・臨床・その周辺として解説しています。
精神療法の最先端をいくのが、オープンダイアローグではなかろうかと思います。
 当事者・クライエント・本人を、精神障害を持つ「人」として取り扱うのではなく、同じ世界に生きる一個のかけがいのない「人」として、会話を通して、同じ世界で共に生きていくことを真剣に追い求める治療チームの活動と言えるのでしょう。
 精神障害について、多少知っていれば、第2部の「オープンダイアローグの実際」にあるヤーコ・セイックラ教授の論文を直接読んでみるのが良いでしょう。
斎藤氏が論文中に、訳註をつけて解説しています。巻末には、用語解説もあり、至れり尽くせりです。
 はじめは、表面的に理解して、興味がある所は、さらに用語解説や第1部の斎藤氏の解説を読むことをお勧めします。
 私は、通読して、ヤーコ・セイックラ氏の論文中の事例こそオープンダイアローグがいかに興味ある精神療法であるかを提示していると感じました。「治療的な会話においては、何が癒やす要素となるのだろうか ー愛を体現する物としての対話ー 」(p.149〜181)が、特に心に留まりました。
 ヤーコ・セイックラ氏が、オープンダイアローグの詩学(p.93〜99)で、治療面接の基本として、「不確実性への耐性」、「対話主義」、そして「ポリフォニー」を挙げています。
  不確実性への耐性は、精神障害をもつ当事者が、混乱状態にある時に、「家族が危機のなかで孤立していると感じないように、十分な頻度でー必要があれば毎日―ミーテングの機会が持たれること」により、不確実性を受け止めていくことと言っても良いのでしょう。
  対話主義は、「精神病的な発話、幻聴や幻覚にとどまっている特異な体験に、共有可能な言語表現をもたらすこと」と記しています。対話を通して、表現しきれない内的経験を、参加している人々との会話のなかで、言語化していくことでしょう。
  ポリフォニーは、「意見が食い違ったときに大事なことは、…すべての声が受け入れられ、傾聴とやりとりが促されることです。」
  つまり、「治療を達成するために、ミーテングの言語的実践は、まず十分に時間をかけて人々を支えていきます(不確実性への耐性)。そこにはふたつの目的があります。ネットワークのなかの重要な他者の助けを借りながら(ポリフォニー)、語り得なかったものに声を与えること(対話主義)です。」(p.99)
  
  最後に、私なりに、オープンダイアローグが必要なわけを考えてみます。
  人は様々な問題に出会い、トラウマを心に刻み生きています。しかし、人はそれぞれに、心に刻まれた「トラウマ」を何らかの方法で解決し生きていると言えます。あるいは、その「トラウマ」に圧倒されることなく生きているのではないかと思います。
  しかし、現代において、あまりにも複雑化した社会問題・圧倒的な情報等により、にっちもさっちも行かない状況に置かれているのが今日の「人」ではないでしょうか?このにっちもさっちも行かず、精神医療に依存し、薬の投与によって症状を抑えたつもりになっているが、「人」の魂・精神・霊魂・プシュケー・などと言われる「内的存在」は、放置されたままであったのではないでしょうか。この放置されてきた人としての「内的存在」へのアプローチがオープンダイアローグによって、可能になりつつあるのではないでしょうか。
  個として放置されてきた人の「内的存在」が、本来の「人」としての存在に復権する時、それはさらに「コミュニティ」に波及していく出来事になっていくと感がられます。「さまざまな回復要因は、コミュニティを形成することに寄与しています。」(p.176)
  今日的課題は、遡れば、世界中が、お金で「もの」の価値を測り、究極的に「人」・「人の精神」までもお金で評価する社会に変容してしまった結果ではないでしょうか。全人格的「人」の復権を目指します。

 

斎藤環さんの文章からは誠意と知性が伝わってくる。内容も興味深かった。不登校や引きこもりに対してもオープンダイヤローグが有効か否か、斎藤さんに論じてもらいたい。

 

 

 


「知っているつもり」

2022年01月13日 12時38分26秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼「市の風にあてたこどもは強くなる」という庶民の思想があったそだ。
市の風とは、家族以外の人と接することで世間を知り、見知らぬ世界への目を開く機会になるという考えである。(暮らしの世相)
▼思えば世間知らずで育ってきた。
新聞を読んだのは、社会人になってから。
就職活動で銀座のある企業での面接の時、「あなたは、何も知らないんでね」と女性の面接担当者に呆れ顔で言われたものだ。
▼教育は、21世紀の幸福と平和建設の源泉。
人間をつくる教育こそ、未来の懸け橋であり、人類の希望。
▼世の中には「知っているつもり」があふれています。
知っているつもりになると、その状態から疑問は湧いてきません。
全て「知っているつもり」でいいのでしょうか。
必要な専門分野に関してのことや、新たに開発に携わるときなど、「知っているつもり」を乗り越えなけれなりません。
そのためには、断片的な知識を、疑問を生じやすいシステムに作り替え、整備することは必要です。
孤立化した知識をシステム化することは、学習にも役立ちます。
宮城教育大学名誉教授 西林克彦さん

2022年1月7 日雪の利根川

文学散歩に同行する

2022年01月13日 07時13分30秒 | 沼田利根の言いたい放題

我が師の一人の文芸評論家の窪川鶴次郎は、築地警察署の前に立ち止まり、眉間に皺を寄せた。
「私もここに留置されていました」皺がれた声が震えていた。
徹は恋する同期生の中田亜紀の横顔を見詰めた。
だが亜紀は美し表情をいつものように変えない。
そして、むしろ瞳は空虚である。
徹は夏目漱石の小説の三四郎の若く美しい女性里見 美穪子を脳裏に浮かべた。
当時、読売新聞に連載されていた文学散歩に、我々学生は執筆者である窪川鶴次郎に同行していた。
築地、銀座、新橋などが近代文学の作家により描かれていた。

沼田利根

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窪川 鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日 - 1974年6月15日)は、日本の文芸評論家。

経歴
静岡県菊川市出身。掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)から金沢の第四高等学校に進学し、中野重治と知り合う。そのために、理系ではあったが文学に熱中するようになる。
文学への欲求のために高校を中退して上京し、貯金局に勤務する。
大学進学のために上京した中野と再び文学活動をはじめ、堀辰雄たちも含めて同人誌『驢馬』のメンバーとなる。そのころ、田島いね子と知り合い、結婚する。
いね子は彼や中野のすすめで小説「キャラメル工場から」を発表し、小説家窪川稲子としてプロレタリア文学の新進作家として登場するが、鶴次郎はなかなか陽の目をみなかった。
ただし、1930年11月号の『ナップ』に掲載された詩「里子にやられたおけい」は、作曲されて広く歌われるようになった。

評論家として窪川が認められたのは、1931年頃からのことである。1932年1月には共産党に入党し、そのために3月24日に検挙され、5月4日に起訴された。
翌1933年、獄中で結核が再発し、政治活動をしないという条件で11月に保釈となった。
その後、1934年に作家同盟が解散してからは総合雑誌や文芸雑誌にも活躍の場を広げた。このころの主要な著作として1939年に中央公論社から出版された『現代文学論』などがある。これらの評論集で、鶴次郎は、戦争へと傾斜する文学に警鐘を鳴らし、現実社会を描く文学のありかたを追究した。

しかし1938年には、19歳年上の田村俊子との情事が発覚、夫婦仲が悪化し、1945年二人は離婚、稲子は筆名を佐多稲子と改める。そして、ふたりの関係に取材した小説をいくつか書いた(『くれない』など)。

戦後は新日本文学会の結成に参加し、民主主義文学の立場から批評活動を続ける。
1950年代にはいると、日本大学での講義に力を入れるようになり、評論活動はほとんどおこなわなくなったが、石川啄木研究を中心とする短歌論にも多く手をかけ、晩年は啄木研究者としてのイメージが強い。

息子は映画監督の窪川健造、娘は戦後を代表する振付家の一人の佐多達枝である。

戦時中は1941年12月23日の『朝日新聞』「戦時提言欄」に「文学者として何を為すべきかに、迷うことは少しもない。日本にとって前古未曾有のこの大東亜戦争に直面して、国民の一人として必死の覚悟があるならば文学の仕事に携っている限りは、私たちの責務は、あくまで文学にたいする真の自覚より他にないであろう。かくて日本文化の法燈はいよいよ輝くであろう」という文章を掲載し、大日本言論報国会のメンバーであった。
このことに対しては『文学者の戦争責任』(吉本隆明、武井昭夫共著、淡路書房、1956年)で批判もされた。暴露本『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』(全貌社、1957年)には窪川について、「皇国文学の御用理論家」という副題が付けられた。

 


個人として国家と向き合う

2022年01月13日 06時05分40秒 | 新聞を読もう

論点

2022年にのぞんで 

 対談 加藤陽子・東京大教授(日本近代史)/温又柔・作家
注目の連載 
オピニオン
 
朝刊解説面 毎日新聞 2022/1/12 

 今年は、北京オリンピック・パラリンピックが開かれる。大国化する中国との関係を考えながら私たちは、歴史や国家とどう向き合うべきか。どう個人として生きるか。台湾出身で「日本語育ち」の作家、温又柔さんと、日中戦争期の軍事と外交を研究する加藤陽子さんが語り合った。【構成・鈴木英生】

理性喪失への恐怖、戦争研究の発端に 加藤さん

――加藤さんはなぜ戦争を研究されてきたのでしょうか?

 加藤さん 自分の体が小さいからこそ感じる怖さが原点です。どんなに理知的な男性に対しても、酔って理性を失った瞬間などに恐怖を感じる。連想すると例えば、日本のよき父や夫、兄や弟たちが、日中戦争で「南京を陥落させたら帰れる」と言われて戦闘と行軍を続けたあげく、「まだ帰れない」とはしごを外された瞬間に何をしてしまうのか……。そのような直感から、なぜ人は目の色を変えて戦争に突き進むのか、例えば、なぜ戦前の…

温さん 中国政府の強圧はすさまじいですし、台湾が中国にのみ込まれてしまうような事態は私も阻止したい。

ただ、中国を敵視することのみが目的のようなナショナリズムには疑問があります。

加藤さん 私も文学に示唆を得てきました。

1933年にプロレタリア作家、小林多喜二が拷問死した際、川端康成は文芸時評で作「家離れした<急死>」と書いたと、あるとき知りました。

虐殺をそのまま糾弾した言葉では検閲は通りません。

小林の死に様を示唆する迫真の言葉で検閲を突破し、むしろ読み手の共感を誘いました。

国家の暴力を描く際に、直接的な表現ならば人に届くというわけではない。

私がすべきは、無数の選択肢に迷い、最善を選ぼうと悩み、それでも「戦争」を選んでしまった日本人の過程を描くこと。

この有効性に気付いた瞬間でした。

温さん それでも、日本人はそのように生きた・・・。

加藤さんの本を読むと歴史のただ中にある人間の機微に触れることができ、現在の自分もまた、その流れの中にいると実感できます。

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国家権力は実に、露骨なまで鋭敏である。

<加藤さんが危険人物である!>と21世紀の我が国と国家権力が加藤さんにレッテルを張った意味がここで、深く、如実に理解できた。

沼田利根