人間にとって科学とは何か

2022年01月30日 10時49分21秒 | 社会・文化・政治・経済
 
村上 陽一郎  (著)
 
純粋な知的探究として発して二百年、近代科学は社会を根底から変え、科学もまた権力や利潤の原理に歪められた。人類史の転換点に立つ私たちのとるべき道とは? 
地球環境、エネルギー問題、生命倫理----専門家だけに委ねず、「生活者」の立場で参加し、考え、意志決定することが必要だ。科学と社会の新たな関係が拓く可能性を示す。
 

近代科学は人間が自然現象を観察し、そこから規則性を探求していく中で発展してきました。
その時、主体は人間であり、客体は自然という確固たる関係がありました。
一方、現代科学は人間自身の心や身体も観察の対象、つまり客体となったのです。
その結果、心理学や医学などが飛躍的に進歩しましたが、客体の世界が拡大したことに伴い、主体であったはずの人間という概念が縮小されてしまったのです。
加えて現代科学は、人間に欲望のまま生きることを促してきました。
しかし、人間には、欲望を抑制する意志もありますし、より良い社会を築きたいという理想を持つことができます。
たとえ民族や文化は違っても結び合っていく力があります。
そうした人間の可能性に目を向け、人間の精神を高めていく。
いわば「人間の拡大」が、科学技術のあり方を変え、社会全体の変革につながっていくと思うのです。

科学教育に携わってきた一人として、科学と並行して、人間の理性の限界を超えるものへの懼れがなければ、社会は破綻してしまうのではないかと憂慮しています。

(懼れ:自分よりはるかに力のあるものを尊ぶ。
神仏や目上の人物などの圧倒的な存在に対して慎んだ気持ち・態度になることを意味する)

ただ難しいのは、特に日本社会においては、宗教に対する興味・関心は全体的に低いと言わざるを得ない状況にあることです。
もちろん、個々人の心底には宗教心なるものは存在すると思います。
しかし、宗教的な思想やエネルギーを社会に現出させるような力は、ほとんどないのが現状ではないでしょうか。
宗教心も地域や社会に根付き、ひいては科学技術を支える哲学になっていくのではないでしょうか。
信仰心は大切です。
信念で行動する人が一人でも増えれば、それが周囲に触発を与え、社会全体をより良い方向に導いていけると信じています。

出版社からのコメント

学生の科学離れが言われ、研究予算の削減が取りざたされ、国際間では技術競争の優位を保てなくなった現代日本。まさに「必読の書」。

内容(「BOOK」データベースより)

純粋な知的探究から発して二百余年、近代科学は社会を根底から変え、科学もまた権力や利潤の原理に歪められた。人類史の転換点に立つ私たちのとるべき道とは?地球環境、エネルギー問題、生命倫理―専門家だけに委ねず、「生活者」の立場で参加し、考え、意志決定することが必要だ。科学と社会の新たな関係が拓く可能性を示す。

著者について

1936年東京生まれ。科学史家、科学哲学者。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。
上智大学、東京大学先端科学技術研究センター、国際基督教大学、東京理科大学大学院などを経て、東洋英和女学院大学学長。著書に『科学者とは何か』『文明のなかの科学』『あらためて教養とは』『安全と安心の科学』ほか。訳書にシャルガフ『ヘラクレイトスの火』、ファイヤアーベント『知についての三つの対話』、フラー『知識人として生きる』など。編書に『伊東俊太郎著作集』『大森荘蔵著作集』など。
 
 
 
  表題のとおり,「人間にとって科学とは何か」という古くて新しい,しかも厄介な難題に具体例を紹介しながら平易に解説した好著。われわれ人間社会の存続にとって不可欠な科学の意義を一般市民にも開かれたもの(ないしは開かれるべきもの)として語ってゆく姿勢に敬意を示したい。第9章「私たちにとって科学とは何か」などには,新政権の目玉となった「事業仕分け」への論評もある。この論評から著者自身の科学観が鮮明になっている。

  一連の諸問題に科学史から紐解く姿勢はさすがだが,そもそも科学は一部の専門家のみが研究してその内容を理解していればよいというものではなさそうだ。「トランス・サイエンス」という言葉があるように(著者によれば,「トランス」は「超えた」よりは「広がった」と把握したほうがいい),科学にもとづく論理から導かれる合理性(科学的合理性)とは異なる,「社会的合理性」もが尊重される時代であることを明確に認識しなければならない。生命倫理,環境・エネルギー問題など,科学の見識だけでは決着のつかないものがあまりにも多い。だからこそ,「市民参加型技術評価」のような新たな制度的枠組みへの関心が高まるのだろう(138頁)。科学リテラシーの鍛錬が必要だ。

  著者は最後に「科学教育の必要」と題し,現在の専門家養成カリキュラムから教養教育に方向転換する時期に来ていると述べている。リベラル・アーツとしての教育の志向なのかもしれないが,興味深い。「新しい教養教育は,現代に即した現実的テーマを,分野横断的に取り扱う必要があります。・・・これからの時代は,理系でも法律や倫理の知識は欠かせませんし,同じように文系でも,科学や技術の影響を理解し,判断し,意思決定する能力が,読み書き能力と同様に大切なのです」(182頁)。本書を手がかりに,表題に対して自分なりに考えてみること,その一歩が切実に求められている。貴重な問題提起の書だ。
 
 
科学を俯瞰して解説している本は意外と少ないようです。執筆者の膨大な知識をベースに哲学が明確に述べられており、科学と人間との関係が判り易く記述されています。この考え方に賛同するかしないかは別にしても自分の考えを整理するのに大変役立つ本でした。
 
 

著者は、科学哲学者で、専門は物理学史。

本書に収められているのは、科学者の置かれた苦境、科学者の倫理、および複雑化する現代社会における科学者のあるべき姿などに関する論考である。
科学者ひとりひとりが、確固とした個人的な倫理観をもつことを著者は重視している。

印象に残った箇所を記し、コメントする。

かつて社会の中で孤立し、自己完結的であった科学が、現代社会の中で果たす役割がきわめて多様化し、複雑化しています。
それに対して、社会の仕組みは事態に見合うよう整備されていないことが、いやでも目に付くことになります。
コメント:
つまり、「社会変化の速度に、社会が追いつけていない」。
私たちに出来ることのひとつは、<みんなで怠けて「変化の速度」を遅らせる>ことではないだろうか。
不真面目だと思われるかもしれない。
しかし私は、「どこに向かっているかも分からずに猛スピードを出している車」のブレーキを、そろそろ踏んではどうかと思っているだけである。

数学者ロトフィ・ザデーの論文(Lotfi Asker Zadeh)のファジィ論理学は1が真で0が偽だとすると、1/0の論理学ではないんです。
いわゆる二値論理学(真か偽に必ず定まる)というのがヨーロッパの論理学です。
それに対して、ザデーは、一つの命題の真理値を1と0の間のどの値をとってもいい、という論理学を作りました。
この論理学は、最初はアメリカでは全く受け入れられなかった。
まず飛びついたのは日本人で、学会ができるのですが大半を日本人が占めて、論文の著者も七割が日本人。
私は本田財団に関わっていまして、ザデーに本田賞を差し上げたら、日本人は自分の理論の最初の理解者であってこんな賞まで頂けてどれだけ光栄であるかと、切々と訴えてくれました。
(略)
黒白をはっきりさせずグレーゾーンにことを落ち着ける方法というのを、日本は、文化的な価値観として持っているのかもしれません。
そうであれば、日本から発信するひとつの社会的な価値として、「状況的倫理観による紛争解決の方法」で貢献できるのかもしれません。
コメント:
そもそも黒か白かが仮に成り立つとしても、単一の属性に注目した場合にしか成り立たない場合が多い。
世界は、複雑である。
考慮する変数を増やせば、黒白に分類できはたずのものでさえ、どんどんグレーになる。
ハーバード大学のサンデル教授が著書『Justice』で述べているように、正義に関しては、「美徳」、「最大多数の最大幸福」、そして「自由」という相反する三つの属性が矛盾し合う。
そして、人々を少数の属性[信仰など]のみに基づいて「敵・味方」に分類することこそが、あらゆる暴力的紛争の元凶である。
ゆえに「状況的倫理観による紛争解決」は、正しい態度である。

社会的な科学のあり方を考える場合、日本の「公」ということばに問題があります。
公というのは、およそパブリックとはちがう意味、「お上」でしかないことです。「お上」とはいったいなんでしょうか。
「公(おおやけ)」は「大きな家」を意味します。
大和朝廷時代、一番大きい家は天皇家だった。
だから本来、公は天皇家のことなんです。
だから天皇家に勤める人たちは公の人で公家なんです。
そこで公という言葉が少しだけ広がります。
つまり個人的に天皇家だけではなくてその周辺領域に広がった。
江戸時代になって天皇家が架空の為政者になって、実権が征夷大将軍たる将軍家に移ったので、公は将軍家になりました。
現代では、政治家、それをとりまく官僚組織のことをお上といいますが、これは明治以降だと思います。
パブリックが「公」や「お上」ではないとしたら、訳すとすればなにか。
近頃少し定着してきた言葉が、「公共圏」ということばで、これは”public sphere”という英語をもとにしています。
それで相変わらず「公」はついていますが。
なかなか私たちの感覚の中に、パブリックという言葉のもつ本質的な意味合いが浸透してきません。滅私奉公という言葉もあります。今では死語なのかもしれませんが、感覚としては日本人の中に残ってしまっている。
「公」と「私」の間にとても大きな距離があるのです。
自分個人ではなくて、自分と手を結んでいる多くの他者との間に作られる空間のことが「公」なのです。
だからそういう意味で常に自分(「私」)を超えた何ものかへの感覚というものが、絶対に必要です。
だから公の世界にコミットするときは自分の私権をなにほどかは斟酌しなければならない必然性が出てきます。
コメント:
要するに、ここで著者は「日本人には、パブリックという概念がない。
なので、自己犠牲により公に奉仕するという発想にも乏しい」と述べている。
ただし、日本には「世間」という概念があるので、治安は悪くないし、人々も礼儀正しい。
ゆえに、おそらく日本社会は村上氏が思っているほど悪くない。
問題の本質はむしろ、<「世間」の範囲は「自分の知り合いの範囲」、すなわち「国家」よりはるかち小さい>という点、すなわち「日本人の心の中おける<公>の範囲の狭さ」にあるのではないか。

もともと哲学と科学は原点は同じです。
つまり、ものを考えるということがすべての原点になっているからです。
知は、自分を知り、他者を知ることの大きな助けとなる。
だから、科学に限らず、どんな知識も、人間にとって役立つのです。
経済にとって役立つかは別にして人間にとって役立つのです。
コメント:
一般的に「それが何の役に立つか」に答えることは、難しい。
そもそも私たちは、生きていて「何の役に立つ」のか。
冷静に考えてみると、よく分からない。
 
 
 

科学史・科学哲学の泰斗と言える著者が現代社会における科学とのつきあい方、科学のあり方を述べた書である。
口述筆記のためか、全体として非常に読みやすくなっている。取り上げられているテーマは軽いものではないが、難解すぎず、わかりやすくまとめられている。

まずは科学というものが如何に形成されてきたか、科学と技術の違い、日本における科学の受容と発展などについて触れ、現代社会における科学が純粋に科学のための科学(プロトタイプの科学)ではなく、社会と相互に関連し合う科学(ネオタイプの科学)に変貌してきたと説く。
では、ネオタイプの科学の時代において科学や科学者はどのように社会と関わっていくべきか。
このあたりから筆は問題の本質と言うより周辺をなで回して終わってしまっているように思える。
原子物理学、生命科学、地球科学、倫理や安全といった重要なテーマを扱いながらも、こういった問題がある、こういった考え方があると紹介されてはいるが、そこまでであるので、思考を深める材料がまったくないという印象であった。
本書の中で様子見も積極的な行為であると述べられているが、本書全体が様子見に終わってしまったようである。

座談風というか評論風になってしまっていて、内容が軽くなってしまっていることは否めないであろう。
現代における科学や科学者のあり方を考える入口には良い書であろうが、考えを深めていくには少々物足りないものである。
 
 

1.本書の構成について
 
 全体的に冗長でかつ雑な印象を受ける。もう少し丁寧に構成を組んで欲しい。話が飛んだり戻ったり、脇道にそれたりして読みにくい。これらは、著者のせいなのか編集者のせいなのかは分からない(語りおろしにより原稿を作成したとのことである)。また、一応章立てされてはいるが、章のタイトルとその内容はあまり関連のないものがある。

2.著者の主張について

 「科学技術と社会STS」に関する話題であるが、あくまで科学(科学者)の立場におり、擁護するスタンスをとっている。

 著者は科学および科学者に対してはきわめて寛大であり、美化し過ぎている部分さえある。すべての科学者が純粋な憧れや好奇心・探究心だけで突き進んでいるのではない。成果を上げやすい分野、注目を浴びやすい分野に大挙して押し掛けている現実に目を向けていない。

 また、「科学は人間の価値観には立ち入らないという信念」を肯定しているが、果してそれで良いのか? アメリカのガンロビーのスローガンの一つ「Guns don't kill people, people kill people (people do).」(銃は人を殺さない、人が殺す)を連想させ、そら恐ろしくなる。科学者の責任放棄ともとれるし、“われわれは社会に立ち入らないから、あなたがたも科学には立ち入らないでください、ただしお金だけは出してください”と言っているように聞こえる。

 一般市民に対して「科学のための科学」や「社会のための科学」に対し理解を示して欲しい、科学リテラシーを上げるべきだと主張するのは結構である。しかし、科学者に対し、社会リテラシーを上げるよう強く主張していただきたい。一方的な要求は虫がよすぎるし、一般市民はそれほどお人よしではない。科学はもはや科学者だけのものではなく、科学と社会の両方の歩み寄り・協力がなければ、この複雑化した世界はよいものにならないのだから。

 今度は、科学ではなく社会の方に軸足を置いた著作を読んでみたいと思う。
 

林修先生が著者を推薦されていたので読んでみました。あわせて、「あらためて学問のすすめ」、「安全と安心の科学」、「科学するまなざし」、「やりなおし教養講座」などにも目を通しました。著者は人文科学系の科学史家です。ですからここでは、科学にまつわる歴史や、科学についての単語、今日的課題が述べられています。

 林修氏はテレビの番組で、現代文の問題になるような作家の文章は、海老が小さくて衣ばかりの海老天であると表現されていました。大変失礼ですが、私も人文・社会科学系の作家の本は、海老が小さくて衣ばかりの海老天のような文章が多いと思う。

 この本は科学の話題を幅広く扱っている本です。
 
 

語りおろしを編集部がまとめたという、「科学と社会」を巡る長編評論とでもいうべき1冊。さすが科学史・科学論の大御所らしく、前半を中心に興味深いエピソードが次々に出てきて、面白く読み進めることができた。ところが後半、ページが進むにつれて話題が拡散気味になり、「あれ、ここは何の話?」といった気配が兆してくる。
科学のための科学というプロトタイプと、社会の中での科学というネオタイプの対比、という大まかな論点は漠然と維持されているが、ここに民主党の事業仕分けに対する不満・批判という時事的要素が混ざってきて論述がぼやけ始め、やがて尻切れトンボになっておしまい。率直に言って、編集が手を抜いたのではないか、とすら思えてきた。

 雑なところをもう少し挙げると、例えば、温暖化論争でアル・ゴアやIPCCの指導的研究者に「作為」が窺えることを指摘する一方、理屈抜きで「それでも温暖化対策は必要だ」と「飛躍」してみたり(82頁)、16〜17年前の、紫煙もうもうたる中に入った経験を「最近ではやや珍しい体験」だと言ってみたり(116頁)。口語体なので気楽に読めるものの、注意深く辿っていくと、他にも薄味な箇所はけっこう多かったように思う。
 
 
 

 

 


機械と神―生態学的危機の歴史的根源

2022年01月30日 10時49分21秒 | 社会・文化・政治・経済

リン ホワイト  (著), Jr. White,Lynn (原著), 1 more

内容(「MARC」データベースより)

科学と技術の無制限な研究・開発によってもたらされた、人類存続に対する危機。人間中心の自然観など、キリスト教的な世界像から原因を考察する。1972年刊の再刊。
 
一見すると、科学と宗教は相いれない関係性のように思われるかもしれません。
しかし、歴史学者のリン・ホワイトが、著書「機械と神」の中で、「(キリスト)教会は西欧思想の<母胎>ではないにしろ、少なくとも<子宮>である」と述べたように、西欧に誕生した科学技術文明にはキリスト教の影響があります。
彼は、むしろ、自然破壊の歴史的な源泉をそこに求めたのですが。
キリスト教の世界観による、自然界の全ては神によって造られており、中でも人間は「神に似た唯一の非造物」として特別に位置付けられています。
この考えに立つ時、全ての自然現象には、漏れなく神の意志や神の真理が内在していることになり、<神の似姿>である人間は、少なくとも、その一部を読み取れるという発想が芽生えていくわけです。
そして人間は、その真理を理解しようと自然現象を観察し、そこから規則性を探求していくのです。(村上陽一郎・東京大学・国際基督教大学名誉教授)
 
 
 

ホワイトの説は今の日本ではもはや陳腐な常識のようになっている。
いわく、「キリスト教は、神が、人間を自然の支配者として世界に置いた人間中心の教えによって自然破壊を促進した。これに対して、東洋的な自然宗教は人間もまた自然の一部にすぎないと教え、人間は自然を尊敬し、これを破壊しない。」しかし、これが相当作り話であることは、少し歴史の事実をふりかえればわかる。

 もし自然宗教が環境を保護して来たということが事実ならば、オリエントや中国の自然宗教の地域では環境は守られて来たはずだ。だが、実際はそうでなかった。かつて豊かな森林だったという古代メソポタミアは、今は不毛の地である。古代メソポタミア人の宗教は、いわゆる自然宗教だった。彼らは焼きレンガを作るためと、農地拡大のために森林伐採をした。その結果、森林の蒸散作用が失われて雨雲ができなくなり 、彼らは灌漑をしたが、その結果、川の水に含まれる塩分のために塩害が起こり砂漠化してしまった。
 古代中国もまた、自然宗教の地であった。ここでは北方からの騎馬民族の侵入をふせぐ万里の長城を築く為に、莫大なレンガを製造するために森林が次々に燃料として用いられて消失していった。ゴビ砂漠はそのあとだと言われている。
 かつてヨーロッパは森に覆われていた。キリスト教宣教師が、ケルト人やゲルマン人が神として拝み動物やときには人を生贄として捧げた神木を切り倒したということを取り上げて、環境派はキリスト教が環境破壊の元凶だという。だが、宣教師たちがしたことは「森林破壊」でなく、彼らを子どもなどを樹木に生贄としてささげる迷信から解放するためのデモンストレーションにすぎない。「神木」を何本か切ったって森林は亡びない。実際に、ヨーロッパの森林を破壊したのは12世紀の農業革命と大開墾、そして16世紀以降の帝国主義諸国による植民地争奪戦のための軍艦建造競争である。スペインはかつての森林に覆われた緑豊かな国土を、無敵艦隊アマルダと引き換えに赤土の荒野とした。そして、産業革命後、環境破壊はさらに世界に急激に拡大した。

 現代世界を見よう。中国では、経済発展で肉食志向のせいで過放牧で砂漠化が急激に進んでいる。米国、オーストラリア、インドなどの経済効率優先の大規模灌漑化学農法も大地を砂漠化している。世界で毎年6万平方キロが砂漠化している。
 現代のグローバリズムを掲げる市場原理主義の自由主義経済は、大地を急速に滅ぼしつつある。穀物メジャーは、途上国の大地主に札束をもって近づき、森を切り払って農地を大規模化し、単作・機械化・化学農法を持ち込んだ。
結果、大量の穀物を安価に収穫し世界市場に売りさばいて、穀物メジャーは莫大な利益を得た。しかし、十年もたつと大量に投じられた化学肥料と農薬と連作で大地は疲弊した。すると、国際穀物メジャーはさっさと生産地を他国に移してしまう。 
農民たちは荒廃した大地を残され、森を失い、雨を失い、大飢饉がその国を襲う。国際的支援が必要ということで国連が動き、国々が拠出して大量の小麦を買いつけて、大飢饉に襲われた国の人々に提供することになると、莫大な利益を上げたのが、穀物メジャーである。
 貪欲なグローバリズム経済は、大地を収奪しつくしてしまう。グローバル企業というものは、企業利益を目的として活動している貪欲な怪物である。
かつてトマス・ホッブズは、近世に登場した中央集権的な国家を怪物リヴァイアサンにたとえたが、近代諸国家をも呑みつくす現代のリヴァイアサンは、自由市場主義経済をドグマとするグローバル企業である。TPPは、こうした動きの典型。
 以上のように、洋の東西を問わず、破壊の元凶は貪欲・無制限な経済活動であることは、過去も現在も同じである。

 今日では、ホワイトの「キリスト教環境破壊犯人説」は、キリスト教をスケープゴートにして、真犯人であるグローバル企業・自由市場経済・TPPの悪辣さを隠蔽するために利用されている。意図的かどうかは知らないけれど。
 
 

 


人間の尊厳と可能性への「不信」

2022年01月30日 08時48分53秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼思想を貯めることが大切だ。
▼大いなる物事は人知れぬ小事が積まれてできる。
▼サイバー犯罪が初の1万件超。
身代基金要求型が急増。
常にシステム更新を。
▼人の心を打つのは、生命からほとばしる必死の思いだ。
▼励ましは、炎の一念がもたらす魂の触発。
▼一人一人が現実に直面している生活の悩みと格闘し、生命の境涯を変革していくことだ。
▼人間には、生命への根源的な迷いがある。
それは人間の尊厳と可能性への「不信」ともいえる。