純粋な知的探究として発して二百年、近代科学は社会を根底から変え、科学もまた権力や利潤の原理に歪められた。人類史の転換点に立つ私たちのとるべき道とは?
地球環境、エネルギー問題、生命倫理----専門家だけに委ねず、「生活者」の立場で参加し、考え、意志決定することが必要だ。科学と社会の新たな関係が拓く可能性を示す。
近代科学は人間が自然現象を観察し、そこから規則性を探求していく中で発展してきました。
その時、主体は人間であり、客体は自然という確固たる関係がありました。
一方、現代科学は人間自身の心や身体も観察の対象、つまり客体となったのです。
その結果、心理学や医学などが飛躍的に進歩しましたが、客体の世界が拡大したことに伴い、主体であったはずの人間という概念が縮小されてしまったのです。
加えて現代科学は、人間に欲望のまま生きることを促してきました。
しかし、人間には、欲望を抑制する意志もありますし、より良い社会を築きたいという理想を持つことができます。
たとえ民族や文化は違っても結び合っていく力があります。
そうした人間の可能性に目を向け、人間の精神を高めていく。
いわば「人間の拡大」が、科学技術のあり方を変え、社会全体の変革につながっていくと思うのです。
科学教育に携わってきた一人として、科学と並行して、人間の理性の限界を超えるものへの懼れがなければ、社会は破綻してしまうのではないかと憂慮しています。
(懼れ:自分よりはるかに力のあるものを尊ぶ。
神仏や目上の人物などの圧倒的な存在に対して慎んだ気持ち・態度になることを意味する)
ただ難しいのは、特に日本社会においては、宗教に対する興味・関心は全体的に低いと言わざるを得ない状況にあることです。
もちろん、個々人の心底には宗教心なるものは存在すると思います。
しかし、宗教的な思想やエネルギーを社会に現出させるような力は、ほとんどないのが現状ではないでしょうか。
宗教心も地域や社会に根付き、ひいては科学技術を支える哲学になっていくのではないでしょうか。
信仰心は大切です。
信念で行動する人が一人でも増えれば、それが周囲に触発を与え、社会全体をより良い方向に導いていけると信じています。
出版社からのコメント
学生の科学離れが言われ、研究予算の削減が取りざたされ、国際間では技術競争の優位を保てなくなった現代日本。まさに「必読の書」。
内容(「BOOK」データベースより)
純粋な知的探究から発して二百余年、近代科学は社会を根底から変え、科学もまた権力や利潤の原理に歪められた。人類史の転換点に立つ私たちのとるべき道とは?地球環境、エネルギー問題、生命倫理―専門家だけに委ねず、「生活者」の立場で参加し、考え、意志決定することが必要だ。科学と社会の新たな関係が拓く可能性を示す。
著者について
1936年東京生まれ。科学史家、科学哲学者。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。
上智大学、東京大学先端科学技術研究センター、国際基督教大学、東京理科大学大学院などを経て、東洋英和女学院大学学長。著書に『科学者とは何か』『文明のなかの科学』『あらためて教養とは』『安全と安心の科学』ほか。訳書にシャルガフ『ヘラクレイトスの火』、ファイヤアーベント『知についての三つの対話』、フラー『知識人として生きる』など。編書に『伊東俊太郎著作集』『大森荘蔵著作集』など。
表題のとおり,「人間にとって科学とは何か」という古くて新しい,しかも厄介な難題に具体例を紹介しながら平易に解説した好著。われわれ人間社会の存続にとって不可欠な科学の意義を一般市民にも開かれたもの(ないしは開かれるべきもの)として語ってゆく姿勢に敬意を示したい。第9章「私たちにとって科学とは何か」などには,新政権の目玉となった「事業仕分け」への論評もある。この論評から著者自身の科学観が鮮明になっている。
一連の諸問題に科学史から紐解く姿勢はさすがだが,そもそも科学は一部の専門家のみが研究してその内容を理解していればよいというものではなさそうだ。「トランス・サイエンス」という言葉があるように(著者によれば,「トランス」は「超えた」よりは「広がった」と把握したほうがいい),科学にもとづく論理から導かれる合理性(科学的合理性)とは異なる,「社会的合理性」もが尊重される時代であることを明確に認識しなければならない。生命倫理,環境・エネルギー問題など,科学の見識だけでは決着のつかないものがあまりにも多い。だからこそ,「市民参加型技術評価」のような新たな制度的枠組みへの関心が高まるのだろう(138頁)。科学リテラシーの鍛錬が必要だ。
著者は最後に「科学教育の必要」と題し,現在の専門家養成カリキュラムから教養教育に方向転換する時期に来ていると述べている。リベラル・アーツとしての教育の志向なのかもしれないが,興味深い。「新しい教養教育は,現代に即した現実的テーマを,分野横断的に取り扱う必要があります。・・・これからの時代は,理系でも法律や倫理の知識は欠かせませんし,同じように文系でも,科学や技術の影響を理解し,判断し,意思決定する能力が,読み書き能力と同様に大切なのです」(182頁)。本書を手がかりに,表題に対して自分なりに考えてみること,その一歩が切実に求められている。貴重な問題提起の書だ。
科学を俯瞰して解説している本は意外と少ないようです。執筆者の膨大な知識をベースに哲学が明確に述べられており、科学と人間との関係が判り易く記述されています。この考え方に賛同するかしないかは別にしても自分の考えを整理するのに大変役立つ本でした。
語りおろしを編集部がまとめたという、「科学と社会」を巡る長編評論とでもいうべき1冊。さすが科学史・科学論の大御所らしく、前半を中心に興味深いエピソードが次々に出てきて、面白く読み進めることができた。ところが後半、ページが進むにつれて話題が拡散気味になり、「あれ、ここは何の話?」といった気配が兆してくる。
科学のための科学というプロトタイプと、社会の中での科学というネオタイプの対比、という大まかな論点は漠然と維持されているが、ここに民主党の事業仕分けに対する不満・批判という時事的要素が混ざってきて論述がぼやけ始め、やがて尻切れトンボになっておしまい。率直に言って、編集が手を抜いたのではないか、とすら思えてきた。
雑なところをもう少し挙げると、例えば、温暖化論争でアル・ゴアやIPCCの指導的研究者に「作為」が窺えることを指摘する一方、理屈抜きで「それでも温暖化対策は必要だ」と「飛躍」してみたり(82頁)、16〜17年前の、紫煙もうもうたる中に入った経験を「最近ではやや珍しい体験」だと言ってみたり(116頁)。口語体なので気楽に読めるものの、注意深く辿っていくと、他にも薄味な箇所はけっこう多かったように思う。