2019.06.08
「むしゃくしゃする」の裏の恐れと不安
森田 ゆり作家、エンパワメント・センター主宰
プロフィール
元カリフォルニア大学主任研究員で作家の森田ゆりさんは、暴力や虐待を人権の視点から40年以上研究している。虐待の加害者・被害者の回復プログラムをいくつも開発・実践し、性暴力、DV、多様性、非暴力などをテーマにした多くの著書で様々な賞を受賞。最新刊『体罰と戦争:人類のふたつの不名誉な伝統』(かもがわ出版)は、暴力とは何かを問い続けてきた森田さんの人間といのちの尊厳を守る渾身の書だ。
痛ましい事件から18年が経った。森田さんが、2001年6月8日に起きた池田小学校事件の公判を丁寧に傍聴記録し、ジェンダーと暴力の視点から「宅間守の大量殺人」を論じた章を『体罰と戦争』より部分抜粋して掲載する。
当初報じられた「精神障害者」という誤解
2001年6月8日午前10時頃、1人の男が包丁2本を持って大阪教育大学附属池田小学校に侵入し、小学1〜2年生を次々と襲い、8人の子どもを刺し殺し、その他の子どもと職員15人に重軽症を負わせました。この男は、他者攻撃をくり返すことで父親の暴力がもたらした屈辱と悲しみから逃げ続けた人でした。
自分が犯した強姦事件の慰謝料取り立てから逃れようと宅間が精神病院に偽装入院していたために、当初、マスメディアはこの事件を「精神障害者と犯罪」という枠組みでしきりに取り上げました。これらの報道は、精神障害者は罪を犯しやすいとの偏見を確実に広げました。事件の報道の仕方故に、いったいどれだけの精神障害者とその家族が苦しんだことでしょう。精神病院入院が必要もないのに延長された人もいました。
精神障害者が犯罪を起こす率は低いのです。検挙された一般刑法犯に占める精神障害者の比率は1・5%です。収入や学歴が低いと犯罪を起こしやすいかと言えば、そんなことはありません。外国人の犯罪率が高いというのも誤解です。犯罪者プロファイルを特定することは統計的にも困難なのです。
唯一の特徴は「男性」
犯罪者のプロファイルの唯一の特徴的なことは、それが男性だということです。犯罪者は男性が圧倒的に多いことを、人は半ば当然のことのように知っています。新聞やテレビで報道される殺人、強盗、詐欺、窃盗の多くの容疑者は男性です。統計を見ると、その事実はいっそう明らかになります。刑法犯検挙人員の女性の割合は、1975(昭和50)年以降は、ずっと全体の2割前後となっています。
宅間に関して「精神障害者」と「犯罪」を結びつけて報道することは、精神障害者にとっては迷惑きわまりないことでした。「触法精神障害者」という言葉まで登場しました。では、この「精神障害者」の言葉を「男性」と置き換えたらどうでしょう。
「男性は犯罪に手を染めやすい」「触法男性」「男性と犯罪」
男性読者はあまりいい気分ではないはずです。憤慨する人もいるでしょう。自分と宅間を一緒にされてはたまらん、女性だって罪を犯すじゃないか、男性への侮辱だと。
精神障害者たちも同じように感じたにちがいありません。それも男性と犯罪の関連は統計上も明らかなことなのに、精神障害者と犯罪の関連は、統計上も言えないことなのです。
「むしゃくしゃする」の裏の感情
宅間守についての最初の新聞報道を読んだとき、まず「ジェンダーと犯罪」という言葉が私の意識に浮かびました。刺し殺した子ども8人のうち7人までが少女だったこと、さらに彼が妻たちに暴力を振るったドメスティック・バイオレンス(DV)の加害者であること、池田小学校事件の動機として、暴力を振るいストーカー行為をし続けた相手である元妻を殺す代わりにやったと証言していたことも、いっそうこの事件の本質は「精神障害者と犯罪」ではなく、「ジェンダーと犯罪」なのだと思わせる要因でした。
公判の被告人質問への返答で、宅間被告は、聞いている者が戦慄するほどに根深い女性蔑視を何度も口にしました。
また、彼はたびたび母親への恨みも口にしました。まるで、母親の知性のなさが自分の犯行の原因とでも言いたげでした。
その母に父が暴力を振るうのを見て、彼は育ちました。幼少の子どもにとってそれは恐怖や悲しみの感情が凍結してしまうほどのトラウマをもたらす体験です。彼自身も厳しい体罰を父親からしばしば受け、恐れ、不安、辛さ、悲しさをためこんでいました。
その苦しい心理状態を宅間は公判でしばしば「むしゃくしゃする」と説明しました。
表現を許されなかった怒りや悲しみ、とりわけ本人も認めたくない不安や屈辱や恥の感情は心の中の異物として、行き場を失い子どもの身体の内をさまよい、自我形成に、人間関係の持ち方に深刻な影響を及ぼします。
「むしゃくしゃする」と、小学生の宅間は自分より小さな子どもにつばを吐きかけいじめ、「むしゃくしゃする」と、中学生の宅間は女子を後ろから襲ってレイプし、「むしゃくしゃする」と、駐車している車のタイヤを片端からパンクさせ、「むしゃくしゃする」と、妻を殴ったのです。
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「昔から生きてんのがやっと。しんどかった。100人中95人まではこういう気持ちはわかってもらえないだろう。むしゃくしゃするとどうしていいかわからなくなり、女を襲ったり、車をパンクさせたりして、ごまかして不快感を発散させる方法を身につけた」
中でも女子への攻撃は一貫していました。小学生の頃は、女子生徒の胸や尻をさわる。いじめや唾吐き。中学では女子の弁当に精液をかける。10代の頃から始まった数知れない女性への暴行、レイプ。元妻たちへの執拗なDV暴力。母を廃人同様にした暴力。女子高校生や空港の「グランドホステス」など女性を攻撃対象にした無差別殺人の想像。
そして3番目の妻への「むしゃくしゃする」気持ちの肥大を止めようがなくなり、大量殺人、池田小襲撃の行動となりました。
男らしさが否認する怖さや悲しみの感情
怖い、寂しい、自分に自信がないなどの気持ちを男子が口にすることを「女々しい」と嫌う男らしさの価値観は、体罰を受けたり、いじめられたりすることで生じる錯綜する感情を否認し、抑圧します。「男だったら泣き言を言うな」「女々しい奴」といった慣用句に表される男らしさを美化する社会の通念を、武士の血筋であることを誇りに思い、木刀で息子に懲罰を加えていた父親が体現していたことは想像に難くありません。
強いことが期待され、苦しさ、悲しさ、寂しさ、自信のなさ、などの本音を口にすれば殴られるかもしれない環境に育った宅間は、怒りの背後にある「やわな感情」とでも呼ぶべき気持ちを表現することを許されなかったでしょう。
しかし、「男は強く、女は優しく」を信奉する社会が男性、男子に表現を許している感情がひとつだけあります。怒りです。悲しさ、寂しさ、怖さを口にすることは女々しいが、怒りを表現することは雄々しいのです。
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森田ゆりさん作成の「怒りの仮面」。この図の説明と使い方は、『体罰と戦争』の2章 怒りの仮面を参照【出典:森田ゆり『虐待・親にもケアを』築地書館、2018年】
仮面の裏の「やわな感情」を刺激された男たちは、それを怒りとして表出します。自分の自信のなさ、寂しさ、不安、怖さ、見捨てられ不安などを彼らはすべて怒りとして感じます。本当は自分がもたらした自分自身への怒りなのですが、自分の錯綜する感情を認めることも、見つめることもしてこなかった彼は、身近にいる者が自分の怒りを誘発したとしか思えないわけです。
むしゃくしゃした感情のうっぷん晴らしに宅間が最も頻繁にした攻撃行動が強姦、痴漢などの性暴力でした。しかし、小さなうっぷん晴らしの攻撃行動をして一生を過ごすのも「めんどうくさくなって」大きな攻撃行動が必要になり、大量殺人を考え実行したというのが、宅間が公判で述べた説明でした。
遺族に謝罪できない理由
宅間の頭の中には大量殺人や大量強姦の幻想が渦巻いていました。暴行の数の多さが男の強さの誇示になると思っていたようです。彼は、まるでビデオゲームで敵を1人でも多く倒すことで満足する単純なパワー信仰を持っていました。それは支配の快感とでも呼べるものです。
人の優位に立つこと、とりわけ女の優位に立つことが男の証であると信じている宅間は、結婚相手、婚約相手を暴力で支配することに多大なエネルギーを注ぎました。最も執着した3番目の妻との離婚をくつがえすことが不可能だとわかったとき、彼女を殺すことを考え始めます。殺人は、もはや自分の下につなぎとめることができない妻を支配し、所有する残された唯一の方法です。興信所を使って妻の職場を探すが見つからず、殺すことが難しいとわかると、ひどい抑うつ状態に陥りました。
ここまではドメスティック・バイオレンスの加害者によく見られる心理と行動です。しかし、宅間はアクセスできない妻を殺す代わりに、大量殺人の方法を夢想することで抑うつから抜け出します。大量殺人によって殺人者は被害者を支配するにとどまらず、その死を悲しみ嘆く家族や友人など多数の人々の支配者になることができるのです。
宅間守の手記の便箋の余白には、いくつもの男性性器のイラストが書かれています。刑務所の中で手記を書きながらも彼は性衝動をエネルギー源にして、言葉による他者攻撃を展開したようです。
性暴力とは、加害者の抑えきれない生理的性衝動が引き起こす行動ではなく、他者を支配することへの心理的欲求行動です。誰かを貶めて自分の有力感を得たい、相手に強いという印象を与え、抑うつ気分を払拭したい、自分自身への怒りを発散させたい、そのために彼らは性器を武器として相手を力でコントロールするのです。
感情の鈍磨
2003年8月28日に、宅間守(当時39歳)は一審・大阪地方裁判所で死刑判決を受けました。池田小学校での殺傷事件から2年と3ヵ月で、死刑判決が確定しました。
それまでの宅間の弁護団の公判における方針は、宅間が死刑判決を望んでいたこともあって、減刑を求めることよりも、動機の真実を明らかにすることと、宅間に謝罪表明させることでした。そのため、宅間の証言では、減刑を得るためのおざなりの反省の言葉などはなく、彼の本音が語られていました。私の傍聴した公判では、毎回、宅間は饒舌でした。生い立ちの理不尽さ、父親、母親への批判、他者への共感を持てないことも語りました。自分の愚かさや、運の悪さを語るときは興奮気味でとめどなく言葉を発していました。
それなのに、宅間は公判でも手記でも、自分を苦しめていた本当の感情を言葉にしたことはありませんでした。快、不快の感覚はくり返し表現するが、関係性における悲しみや、寂しさや、喜びなどの感情については、弁護人からの質問があっても、答えることができなかったのです。
「むしゃくしゃする」気持ちとは何だったのか、その感情に向き合うことなくして、宅間が被害者や遺族の苦しみに共感することも、したがって謝罪することもありえません。
謝罪とはまず自分の傷の痛みに向き合うこと
被告人最終証言の第22回公判において、検事も弁護士も裁判官も、反省の気持ちはないのかと宅間にくり返し謝罪を求めました。しかし、検察官が「判決が出る前に、遺族に謝罪する気はないのか?」と問うと、しばらく沈黙した後、おもむろに語気を強めて「それを聞いてワシが心臓バクバクしてるとでも思っとるのか!」と怒鳴り敵意をむき出しにして声を荒げました。強さを誇示する男らしさの虚像が唯一の寄りすがる自我であるかのようでした。
本当の謝罪は、自らの怒りの仮面の下に隠れている悲しみと喪失を感じることからしか始まりません。
「遺族に謝りなさい」という弁護人たちの願いが届くためには、まず、「あなたの心の奥底で、怖くて、寂しくて、声を出さずに泣いている小さな少年を何十年間も無視し続けてきたことに謝りなさい」という働きかけが必要です。自分への怒りを他者攻撃行動で発散する「怒りの仮面」の裏側をのぞき込み、そこで今も父からの体罰におびえている少年に共感し涙を流して寄り添えたとき、彼の中に他者への共感が生まれます。その作業には勇気がいる。傷口のまわりに巻きつけた包帯とガーゼを剝ぐ勇気がいる。痛みを痛いと感じる勇気がいる。
しかし、私たちの社会は、男子、男性のそのような努力を勇気ある行動とは見なしません。身体の痛みならともかく、心の痛みを訴えるなぞ、「女々しい」行為で、「強い男」のすることではないのです。むしろ心の痛みなど無視して、感じないことが勇気だと信じられています。
宅間は子ども時代から父親からの折檻の痛みや恐怖に対処するために、自分の感情を鈍磨させて生きました。「むしゃくしゃ」という表現以外に自分の感情に名前をつける言葉を持たないのはそのためです。
男たちが悲しみを、寂しさを、恐れを感じる心を否定しなければならない社会は、危険です。