窪田順生:ノンフィクションライター 2022.7.7 4:20
自民党の同性愛差別にドン引き
成長しない日本の象徴
自民党内で議員に向けて配布された冊子が炎上している。
「神道政治連盟国会議員懇談会」の会合で配布された冊子「夫婦別姓 同性婚 パートナーシップ LGBT ー家族と社会に関わる諸問題ー」の中にあった記述に対して、「吐き気がする」「差別意識が強い」などと批判が寄せられているのだ。その記述とはこうだ。
「同性愛は心の中の問題であり、先天的なものではなく後天的な精神の障害、または依存症です」
「同性愛の原因について、家庭環境、特に親子関係に問題がある」
「同性愛を擁護する教育をすれば同性愛者は増える」
「性的少数者のライフスタイルが正当化されるべきでないのは、家庭と社会を崩壊させる社会問題だから」
同性愛者を迫害して、強制収容所送りにしたナチス・ドイツを彷彿とさせる過激な主張の数々に、さすがにドン引きしたという自民党支持者も多いだろう。しかし筆者は驚きよりも「既視感」の方が強かった。
実は今回、自民党議員たちが学んだ「同性愛」についての認識というのは、今から100年以上前の日本人が主張していたこととほぼ同じなのだ。
あまり知られていないが、明治から大正にかけての日本はLGBTの人々が相次いで自殺や心中をして大きな社会問題になっていた。これを受けて、「読売新聞」(1915年8月12日)にある医学博士が「病的な愛」という記事を寄稿している。その一部を抜粋しよう。
<近頃の新聞記事を見るとまたしても「男同志の情死」とか「女同志の情死」とかと、同性間の恋愛問題が伝えられます。人は誰しも愛の感情を持つていますが、それが同性間に於て行はれるは確かにその人が病的な精神状態にある事は争はれません>
先ほどの冊子の「同性愛は精神障害」という主張と丸かぶりである。裏を返せば、この国の「保守」と呼ばれる人々のLGBTへの認識というものは100年前から1ミリも変わっていない、という厳しい現実があるということだ。
2022年の「保守」と1915年の
日本人の主張は瓜二つ
事実、共通点は他にもある。
自民党内で配布された冊子では、同性愛は後天的な病であって、家庭環境が原因だと主張しており、次のように具体的な「同性愛者のつくられ方」を示している。
「同性愛者の母は、子供と密接な関わりを持つ親密な母や子供に対して過度に統制的で抑圧的な母が多く、同性愛者の父は子供との距離感があったり、敵対的、或いは子供に対して否定的な父が多い」
「これはさすがに偏見では」とあきれる人も多いだろうが、実はこれも100年前の日本では「常識」として語られていた。先ほどの医学博士も、幼い時に父親を亡くした女児は、母親との結びつきが強くなって同性愛へ走る傾向があるとして、こんな解説もしている。
<異性の居ない處(ところ)に里子にやられるとか三、四歳から同性者と共に寄宿せしめるような場合に其人は同性の愛の傾向を有するに至ります。又両親が欠けるか不幸な教育を受けた人々はヒステリーや神経質に陥る事は事実で、また是等ヒステリーや神経質のものには同性の愛情を有つている者も多いのです>
さて、そこで気になるのは、なぜ2022年の「保守」と1915年の日本人の主張がこうも瓜二つになるのかということだろう。
今回の炎上騒動で、さまざまな専門家が指摘しているように、「同性愛は精神障害」というのは現在、科学的に否定されている。WHO(世界保健機関)や米国精神医学会、日本精神神経学会なども同性愛を「治療」の対象から除外しているのだ。
にもかかわらず、自民党議員の中には、そんな「科学の進歩」から頑なに目を背ける人たちがいる。
なぜ100年前の日本人が主張していた「同性愛は精神障害」という古い話を延々と引っ張り続けているのかというと、それが「保守政党」というものだからだ。
日本の「保守」とは
明治期にできた価値観・ルールを守ること
日本人の多くは「保守」と聞くと、日本古来の伝統を守ることだと思っているが、それは大きな誤解だ。この同性愛のケースを見てもわかるように、実際は「明治期にできた価値観やルール」を引っ張り続けることだ。
よく言われることだが、明治以前の日本は、同性愛を病気扱いなどせず、社会の中で当たり前のように存在が認められていた。例えば、江戸時代には武士の間では「衆道」という男色行為が流行していて、井原西鶴も浮世絵草紙「男色大鏡」の中で、「男色ほど美なるもてあそびはなき」と言った。
先ほどの冊子が正しいということことになれば、江戸時代の人々は精神障害だらけで、親子関係に問題を抱えていた人ばかりということになってしまう。
このような形で、明治以前にあった文化を「無視」していることからもわかるように、「保守」と呼ばれる人たちがよく言う「日本古来」というのは、すべて明治時代がスタートになる。
わかりやすいのは「夫婦同姓」だ。保守の人たちは夫婦が別の姓になってしまったら、日本の伝統的な家族が崩壊するというが、一般庶民が「姓」(苗字)を名乗るようになったのは、1875年に明治政府がルールをつくったからだ。さらに、結婚した夫婦が同姓になるという制度がつくられたのはもっと遅くて1898年で、たかだが120年ぽっちの新しい習慣なのだ。
このことからもわかるように、実は「保守」と呼ばれる人々というのは、「日本古来の伝統を守っている」わけではなく、「明治にできた価値観・ルールを守っている」というのが現実なのだ。
という話をすると、「近代化の礎を築いた偉大な先人たちの叡智を守って何が悪い!」と不愉快になられる「保守」の方たちも多いだろう。ただ、明治時代にできた価値観・ルールに執着し続けることは日本にとってかなり良くない。控え目に言って、「最悪」である。
今、日本で起きているパワハラ、外国人労働者への差別的な待遇、児童虐待などの人権問題にとどまらず、いつまでも経っても賃金が上がらない「安いニッポン」という経済の問題もつきつめていけば、我々が100年前の価値観・ルールに執着し続けていることが大きいからだ。
多様性を訴えておきながら偏見まみれ
「死」に追い込んできた日本社会
そのあたりの構造でわかりやすいのが、LGBTの自殺率の高さだ。
先ほど明治から大正にかけての日本ではLGBTの自殺や心中が続発していたことを紹介したが、なぜ当時LGBTの人々は自ら命を絶ったのかというと、肩身が狭かったからだ。
当時、西洋医学の知識が続々と入ってきたことで「性欲」について語られることが多くなり、「変態性欲」なんて言葉も生まれていた。そこで女学生同士が心中をするというような事件が続発したことで、世の中には「変態性欲に惑わされた若者たちをしっかりと矯正しなくてはいけない」というムードが高まった。前述の医学博士の記事もその一環だ。
社会の中で、同性愛の男性たちは「異常性欲者」と吊し上げられた。例えば、1923年には旭川第七師団の軍曹が、部下たちに「鶏姦し情欲を遂げていた」(読売新聞1923年8月16日)として軍法会議にかけられている。また、同性愛の女性たちも家族から「真人間になりなさい」と続々と矯正された。強引に縁談を決められて、男性のもとに嫁がされたのである。
こういう時代背景を考えれば、LGBTの人々の心中や自殺が増えていたのも納得だろう。
実際、アメリカでは宗教的な理由から、同性愛を矯正する「コンバージョン・セラピー」(転向療法)というものが存在するが、これを受けることによって、受けていない人の2倍の率でうつになり、3倍の率で自殺するという説もある。
明治から大正にかけての日本は、社会全体で「コンバージョン・セラピー」をおこなっていたようなものだ。だから、この時代のLGBTは心中や自殺をした。ある意味、「死ぬように追い込まれた」と言えなくもない。
そして、この傾向は今も変わっていない。「これからは多様性が大事」「ひとり1人が自分らしく生きられる社会へ」なんてきれい事を言っている政権与党が裏では「同性愛者は精神障害」なんて冊子を配っている。このことからもわかるように、日本ではいまだに口に出さずとも、心の中でLGBTを「心を病んだ人」と捉えたり、「まったく理解できない人々」と蔑んでいる人が山ほどいるのだ。LGBTの人たちは日常的にそういう悪意にさらされる。だから当然、うつ病や自殺者も多い。
明治時代の価値観・ルールに執着し続ける社会によって、100年前と変わることなく未だに多くのLGBTの人々が、「死ぬように追い込まれている」という厳しい現実があるのだ。
古いルールが現代日本を苦しめる
遠い日本復活
このほかにも日本を低迷させているさまざま問題の多くはルーツをたどっていくと、明治や大正にできあがった人権意識、慣習、社会制度につきあたる。
例えば今、日本人を悩ませている「安いニッポン」もそうだ。ご存じのように、日本人の賃金は、先進国の中でもダントツに低く、平均給与ではついにお隣の韓国にも抜かれている。
しかし、自民党は世界では常識となっている「最低賃金の引き上げ」にも腰が引けており、今回の参議院選挙でも「公約」から外した。『「年収200万円暮らし」炎上の裏で、最低賃金1000円の公約もみ消す自民党の二枚舌』の中で解説したが、これは中小企業経営者の業界団体からの選挙支援と引き換えに引っ込めたということと、この国がいまだに明治時代の「賃金」感覚を引きずっていることだ。
2012年12月、公益財団法人「連合総合生活開発研究所」が、「日本の賃金ー歴史と展望」という調査報告書を公表した。その中では明治期に確立された日本人の「賃金」について、こんな特徴があると指摘している。
<職種や技量を社会的に評価する基準を持たず企業内での賃金決定を行ってきた。労働者の意識も「就職」というより「就社」であった>
<賃金と仕事の能率・仕事の強度との関係が明確でなかった。つまり労働時間に対する標準作業量を明らかにして働くこと、1日、1週、1カ月の労働時間管理が、工場労働者に対してすらきちんとは行われず、戦前から長時間労働が常態化していた。その上、労働のあり方がホワイトカラー化したことによって、労働時間と仕事との関係がますます明確でなくなったために、正社員の長時間労働や過労死すら生まれている>
世界では「賃金」の基準は明確だ。どれだけ働いたのかという対価であり、社会の中でも最低賃金という基準が決まっている。だから、物価上昇すると、経済を循環させるために、アメリカでもEUでも東南アジアでも韓国でも、政府が最低賃金を大幅に引き上げる。「賃金を上げたら倒産が増える」なんて根拠のない話で賃上げを見送らないのだ。
しかし、日本では明治期に「賃金というものは企業内で決める」というルールが出来上がって今もそれを引きずっている。だから、年収200万に満たないワーキングプアが社会にあふれかえって、庶民がどんどん貧しくなっても、政府は「賃金は企業におまかせ」と無視してきた。明治時代につくられた価値観・ルールが「呪い」のように、2022年の日本人を苦しめているのだ。
7月10日の参議院選挙で、自民党は圧勝すると言われている。そうなると、「同性愛は精神障害」と主張して、同性婚を反対する神道政治連盟と、「中小企業が潰れるから賃金はなるべく低く」と働きかける日本商工会議所は「功労者」としてさらに発言権が増す。
ということは、これからも明治の価値観・ルールは健在ということだ。「日本復活」の道筋はまだ当分見えそうもない。
(ノンフィクションライター 窪田順生)