前野曜子 (Yoko Maeno) この胸のときめきを

2019年09月29日 22時51分06秒 | 社会・文化・政治・経済

岩谷時子訳詩/You don't have to say you love me

原曲はイタリアのPino Donaggioが1965年にサンレモで歌った"Io che non vivo"」(私はあなたなしでは生きられない)
プレスリーなど多くの歌手がカバーしてますが、英語版ではダスティン・スプリングフィールドの唄が秀一でしょうか?

https://www.youtube.com/watch?v=XUYzs8MaHbk

 

前野曜子 雪が降る
https://www.youtube.com/watch?v=h7ZaW7TIpkY

 

前野曜子(Yoko Maeno) ある愛の詩 Love Story

 https://www.youtube.com/watch?v=wtzqnt8F0c0

忘れないわ  前野曜子(ペドロ&カプリシャス)

https://www.youtube.com/watch?v=jFuyWXxk7EE

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元「ペドロ&カプリシャス」の初代ボーカル・前野曜子さん心不全で逝く

雑誌名:週刊女性 

発行日:1991年04月23日 
ページ:229 

内容: 
1988年(昭和63年)7月31日に亡くなったことを伝える。 

要約: 
かつて栄光の座にいた前野曜子がひっそりと寂しく死んでいたことがわかった。 

「これほど寂しい死はないです」そういって友人たちは悲しむ。 

前野さんは内臓疾患のために6年前から都内の総合病院で闘病生活を送っていたが63年7月31日にごく限られた身内だけに見守られて心不全で逝った。 

華やかな道を歩いてきただけに、その死がいっそう寂しく思われる。 

6年前から音信が途絶えていたのを心配していた友人、知人は他界していたことを知り悲しみに暮れている。 

330字 写真1

前野 曜子(まえの ようこ、1948年1月25日 - 1988年7月31日)は、日本の歌手である。

本名は前野 耀子(読み同)。ペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカルである。

宝塚歌劇団在籍中の芸名は弓 千晶(ゆみ ちあき)、その後の初期芸名は西丘 有理(にしおか ゆり)。

1980年前後の時期、俳優として劇場用映画テレビ映画に出演した。

前野 曜子
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宝塚時代に知り合った亀渕友香ディスコ赤坂ムゲン」で再会してリッキー&960ポンドに参加、翌1969年(昭和44年)、「ワッハッハ」(CBSソニー)がヒットを記録する。この頃は西丘 有理と名乗る。

1971年(昭和46年)、同グループと同じ事務所(小学館プロダクション)に所属するペドロ&カプリシャスにヴォーカルとして参加、同年10月発売の「別れの朝」が大ヒットを記録する。

同作の原曲はウド・ユルゲンスの「夕映えのふたり」(ドイツ語Was ich dir sagen will, 1967年)である。

 

1972年(昭和47年)9月、「ペドロの前野曜子が倒れた」と報道される。

1973年(昭和48年)、ペドロ&カプリシャスを脱退し、ソロとしてライブハウスなどで歌手活動を再開後、1976年(昭和51年)に古巣のリッキー&960ポンドに復帰する。

1977年(昭和52年)9月、リッキー&960ポンドとアルバム『ABRAZAME』を録音。

「別れの朝」は3ヴァージョンが存在するが、このアルバムに収録されたものが最高の出来との評価もある[誰によって?]

同グループに3年間所属した後、再び脱退する。

 

1979年(昭和54年)に映画『蘇える金狼』の主題歌『蘇える金狼のテーマ』をリリース。

このとき「あの前野曜子が6年ぶりにカムバック!!」と報道されたが、カプリシャス脱退以降の経歴が考慮されていない。

1980年(昭和55年)、映画『野獣死すべし』に出演。

1980年代初期には自己のバンドを組みリサイタルを行った。1982年(昭和57年)から始まったテレビアニメ『スペースコブラ』(フジテレビ)のテーマ曲を歌う。同時期、都内の病院に入院し闘病が開始したとされる。

 アルコール依存症等が深刻化、1988年(昭和63年)7月31日、心不全で死去した。

満40歳没。訃報についてはリアルタイムに報道されることなく、3年後に『女性自身』1991年4月23日号が初めて報じた。



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