<心の復興>

2017年11月21日 12時19分53秒 | 医科・歯科・介護
<言葉の力>
それは、深い思索と知性、思いやりの心によって表出されてきた。
基本に寄り添い励ます真心がある。
被災地に<心の復興>を願う。

一貫して世界平和を希求する指導者。
その遠大な<構想>を後に続く者が<実現>しなければ、すべてが幻になってしまう。
指導者の指導<原理>は<応用><展開>されてこそ<価値>をもつ。

自殺未遂者が、推計53万人。
社会に強固は絆と希望・勇気となる哲学を。
<心の復興>願う信念の対話が期待される。

呉服屋の娘

2017年11月21日 07時49分22秒 | 創作欄
上野駅から秋田まで約600㌔、約12時間の汽車の旅を二人は楽しむ気分となっていた。
二人は窓側の席に座っていた。
小野田次郎の脇には50代と想われる鳥打帽を被った男が座っていた。
絹子の脇には絣の着物を着た15歳くらいの少女が風呂敷包みを抱えるように座っていた。
少女は大宮駅を過ぎたころからずっと眠っていたが、宇都宮駅を汽車が過ぎた頃に目を覚ますと風呂敷包みから竹の葉で包んだオニギリを出して食べた。
絹子は少女を微笑んで見ていた。
絹子の妹晶子と同世代と想われた。
与謝野晶子に憧れていた母梅が最後に産んだ3女を晶子としたのだ。
長男、長女、次女の名を全てを父が命名していた。
絹子は次女であった。
絹子は美男子として地元秋田で評判でった父親似であり、秋田県高等女学校のころ「秋田小町」と噂される美女であった。
秋田県高等女学校は1928年(昭和3年)制服にセラー服を定めた。
絹子のセラー服姿もモダンで似っていた。
「君は、どんな子だったの?」次郎は絹子を知るために聞いてみた。
「家が江戸時代から続く老舗の呉服屋だったので、着物に興味があったわね」
次郎の母も横手の呉服屋の娘であった。
日本にとって、海外に誇れるものは何だろうか?
次郎は日本の国が悪い方向へと向かっていることを切実に感じていた。
日本をまともな国に導くには、共産主義以外にないと思い込んでいたのだ。
恋に芽生えた二人であったが、二人の会話は暗い話題に傾いていった。

11月20日(月)のつぶやき

2017年11月21日 03時27分22秒 | 医科・歯科・介護

何かの糸

2017年11月20日 21時28分52秒 | 創作欄
思い返せば人生は偶然の積み重ねと言えた。
東京女子大生の北川絹子が同郷の東京帝国大生の小野田次郎と出会ったのは偶然であった。
あの日、突然に夕立が降らなければが、銭湯の帰りに和菓子屋の店頭の軒先で雨宿りをしなかっただろう。
不思議な出会いであった。
さらに、小野田次郎が本郷の下宿から阿佐ヶ谷に越して来なければ、また、絹子も吉祥寺から阿佐ヶ谷に越して来なければ。
何かの糸で結ばれていたように想われた。
春休みに秋田の実家へ帰る汽車の中で2人は偶然にも再開した。
呉服屋に生まれた絹子は母親が送ってくれた和服姿であった。
偶然にも次郎も袴の和服姿であった。
2人は上野駅のホームで出会って、4人がけの席に向かい合って座った。
互いに買った駅弁で朝食と昼食を兼ねて食べた。
次郎は絹子と深い仲になることを予感していた。
「私の顔ばかり、見ているのね」絹子は羞じらう。
「好きになって、いいでしょうか?」次郎は直裁に問う。
「本気ですか」絹子は二重の目を大きく見開いた。
絹子は恋愛経験がなかった。
男たちは絹子の美貌に及び腰になっていたのだ。
一方、次郎には本郷の下宿屋の娘との恋愛経験があった。
彼が東京帝国大生であることが相手の心を惹いたのだった。
勉強一筋できた次郎には、初めて親しくなった女性であり、積極的な相手にリードされたような交情となった。
だが、次郎は日本共産党に入党したことで「女との色恋沙汰ではない」と娘を避けるようになる。
「私は、遊ばれたのね」と相手は気持ちを硬化させ次郎を非難する。
相手は次郎との関係を親に打ち明けことはなかった。
次郎は結果として、本郷の下宿先から阿佐ヶ谷へ逃げたのだ。
「絹子さんは、どのような本を読んできたの?」と聞いてみた。
「少女趣味と笑われるのですが、吉屋信子の本は全部読んだのよ」
「全部ですか?」
「そう、全部」絹子は微笑む。
次郎はその笑顔に魅せられた














<何のための人生なのか?>

2017年11月20日 20時17分26秒 | 沼田利根の言いたい放題
<何のため>と問われる?
例えば、<何のための金儲けなのか?>
<何のために政治家になるのか?>
<何のための生活なのか?>
<何のための人生なのか?>
それは、教育者、医療関係者、マスコミ関係者、芸術家、宗教関係者、思想家、各方面の学者、技術者たちにも問われることだ。
度を越えた金儲けが目的となっていることに本末顛倒がある。

大阪の府立高校の<頭髪黒染め指導>

2017年11月20日 19時33分45秒 | 沼田利根の言いたい放題
教育には理念が必要である。
教育の目的は何か?
言うまでもな<生徒の幸福>である。
この理念を貫くなら、大阪の府立高校の<頭髪黒染め指導>の理不尽な強要は責められるべきだ。
生徒は、生まれつき茶色の髪であった。
一歩譲って,もしも生徒がハーフであったら国際問題ではなかっただとうか?
ハーフの生徒にまで、頭髪黒染め指導をしたのか、と問いたい。
府立高校での出来事であっただけに余計に、看過できない。
黒髪で然るべきは、いわゆる原理主義であろう。
生まれつきや出自には十分配慮すべきではないだろうか。
訴訟問題に発展しているんのだが、大阪府議会では論議の対象にしないのであろうか?
あくまでも人権問題であり、生徒の立場になって府議会でも取り上げるげきだと思うのだが・・・
沼田利根

キリスト教人道主義

2017年11月20日 16時53分27秒 | 創作欄
小野田次郎の兄謹一は白樺派の作家たちの愛読者であった。
その中でも特に作家の有島武郎に傾倒していた。
仙台の第二高等学校在学中に、キリスト教の洗礼を受けていた。
そしてキリスト教人道主義に目覚めたのである。
謹一は父親に反対され東京帝国大学への進学を諦めたが、大地主で村長であった父親との確執を深め、小作農家への同情心を醸成していく。
江戸時代から続く自宅屋敷には下男、下女の立場の人たちも数人おり、横暴な態度の父親に謹一は反発していた。
「我々小野田は、弱い者たち、貧しい者たちを搾取しているんだ」と謹一は弟にも自虐的に言っていた。
ロシア文学にも傾倒した兄は第二高等学校在学中の弟にトルストイの文学を勧めていた。
弟は兄と同じ仙台の下宿で、帰郷した兄が残した愛読書を読んでいた。
兄は度々、生き抜くために弟の下宿屋を訪ねいた。
「ロシアに行ってみたいな。どうだ、一緒に行くか」
兄は持参した秋田の日本酒の1升ビンから湯飲み茶碗に酒を注いだ。
酒があまり飲めない弟にも「どんどん、飲め」とすすめた。
2人は文学談義をした。
「親父は芸者遊びして放蕩ばかりで、おふくろを裏切っている。放蕩を書く作家はダメだな」兄が批判する。
「俺はトルストイよりチェーホフだな。如何にも醒めた感じがいいんだ」と弟は持論を述べる。
「彼がさめていたのは、医者で結核を患っていたからだろう。革命に熱狂することもなく、あくまで人間の理性を信じた」
「それはチェーホフが知的で人間を全体として捉えていたからだろう」と兄は分析していた。
「醒めた目を持った作家だった」弟は一口、二口茶碗から日本酒を飲む。
「俺は夢敗れて秋田・横手で百姓だ。お前は東京帝国大学を出て、東京で身を立てろ」兄は自嘲的に言い、本棚に目を転じた。
--------------------------------------
<参考>
小作人(こさくにん、小作農や単に小作と呼ばれることもある)と呼ばれる農民(農業従事者)に土地を貸し出して耕作させ、成果物である米や麦などの農作物の一部を小作料(こさくりょう)と言う名の地代として徴収する制度。
地主に小作料を支払って田畑を借りて営農することも小作と言った。

明治維新の地租改正によって、土地所有権が公認され、土地売買が自由になるなかで、明治期に農民の小作化と地主のもとへの土地所有権の集中が進んだ。
1908年から40年に帝国農会の手でおこなわれた〈農事統計〉では、一応、経営耕地を地主から借り入れるものを小作農家としした。
---------------------------------------
有島 武郎(ありしま たけお、1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)は、日本の小説家。

白樺派(しらかばは)は、1910年(明治43年)創刊の同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸思潮のひとつ。
また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のことである。
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。1910年(明治43年)刊行の雑誌『白樺』を中心として活動した。
白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。武者小路は思想的な中心人物であったと考えられている。多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼いころからの知人も多く互いに影響を与えあっていた。

被害者は特別ではない

2017年11月20日 14時16分09秒 | 社会・文化・政治・経済
奈川県座間市のアパートから9人の遺体が‪見つかった事件。
被害者は特別ではない-NPO法人OVA代表理事の伊藤次郎さんは受けとめている。
現在の社会は、心の闇を抱えた人が多い。
自己肯定感も低い。
現実社会から遊離し、ネットの分野に依存する傾向にある。
人間関係が希薄なため、相談したり助けを求めたりもできずらい。
一番安全・安穏である家族ですら別世界として孤立感を深める。
このために異変の予兆すら身近な人は、感じる取ることができない。
自殺願望を身近な人に吐露せずに、ネットに「死にたい」と書き込む。
その行為にはつらい気持ちの発散もあるだろうが、気付いてほしいというSOSでもある。
身近な人に言えない思い・辛さをネット空間であるがゆえに、ストレートに言ってしまえる。
いずれにしても「死にたい」気持ちをも持つ人たちを助ける受け皿が必要だ。
基本的には死生観を学ぶ場も不可欠。























東京帝国大学生だった小野田次郎

2017年11月20日 06時25分10秒 | 創作欄
東京帝国大学生だった小野田次郎は、秋田県出身の東京女子大生の北川絹子と恋仲となった。
阿佐ヶ谷の銭湯の帰り、突然の夕立に遭い和菓子屋の軒先に避難した。
2人は共に絣の着物姿であった。
「まいったな。止むだろうか」と次郎は空を見上げながら、脇に立つ若いを女をちらりと見た。
女は微笑んで「やむかしら。雨はヤンダ(いやだ)」と空を見上げた。
6月下旬の午後6時はまだ明るかった。
秋田訛りに、「君、秋田の人」と次郎は思わず聞く。
「そうです」と答えて改めて絹子は青年を見た。
怜悧で知的な容貌であった。
「私は横手なんだ」
「私は秋田」
同郷の人であることに心が和んだ。
次郎は、「何て美しい人なんだろう」と思ったがそれ以上、話しかけることはなかった。
雨は5分ほど激しく続き、呆気なく止んだ。
次郎は日本共産党に入党しており、日本の今後に思いを馳せると色恋ざたとは距離を置かねばと決意をしていた。
初めの下宿先の娘と親しい間柄になったが、別れていた。
そして1年前に本郷から阿佐ヶ谷に越してきたのである。
大学で社会主義研究会のリーダー的な立場となっていた次郎は、すでに特高警察に目を付けられていた。
次郎の秋田・横手の実家は大地主で祖父の代から村長を務め地域の有力者であったが、長男の謹一は小作農家に対し同情する立場であった。
このため謹一も特高警察の監視下に置かれていたのである。
---------------------------------
<参考>
特別高等警察は、国事警察として発足した高等警察から分離し、国体護持のために無政府主義者、共産主義者、社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることを目的とした大日本帝国の政治警察である。
内務省警保局保安課を総元締めとして、警視庁をはじめとする一道三府七県に設置されたが、その後、1928年に全国一律に未設置県にも設置された。
略称は特高警察(とっこうけいさつ)、特高(とっこう)と言い、構成員を指しても言う。
第二次世界大戦後の1945年に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示により廃止された。
特別高等警察では、特に、社会主義運動、労働運動、農民運動などの左翼の政治運動や、右翼の国家主義運動などを取り締まった。
1922年に日本共産党が結成されると、1922年から1926年にかけて、北海道・神奈川・愛知・京都・兵庫・山口・福岡・長崎・長野など主要府県の警察部にも特別高等課が設けられ、1925年には治安維持法が制定され取締まりの法的根拠が整備された。
1928年には「赤化への恐怖」を理由に全府県に特別高等課が設けられ、また、主な警察署には「特別高等係」が配置され、全国的な組織網が確立された。
1932年6月に警視庁の特別高等課は「特別高等部」に昇格した。
1932年に岩田義道、1933年には小林多喜二に過酷な尋問を行なって死亡させるなど、当初は、共産主義者や共産党員を取締りの対象としているが、後に日本が戦時色を強めるにつれ、挙国一致体制を維持するため、その障害となりうる反戦運動や類似宗教(当時の政府用語で、新宗教をこう呼んだ。)など、反政府的とみなした団体・活動に対する監視や取締りが行われるようになった。

綺麗なお母さん

2017年11月19日 11時52分40秒 | 創作欄
木村徹は子どもながらに、「美しい人」に心を動かされた。
小学校の授業参観の日に、「綺麗なお母さんだ」と思わず見惚れたものだ。
その一人が荒井桃子の母親で着物姿であった。
また、奈々瀬陽子の母親は濃紺のスーツ姿で、西洋の美少女を想わせる陽子の4歳の妹を連れて来ていた。
徹と反目していた貴公子のような大倉勝治の母親も、人の目を引き付けるような美形であった。
目鼻立ちが整っていた大倉君は母親似であったのだ。
徹は自身の母親が「綺麗なお母さん」でなかったことに落胆した。
綺麗な人と親しくなりたいと徹は願っていたが、中学でも高校でも願いは叶わなかった。
荒井桃子の母親は東京女子大学を出ていた。
そして東京帝国大生と親しくなり男子を産み、未婚の母となる。
相手はドイツのベルリンに逃げるように留学してしまう。
ナチスが台頭する前にロシアへ渡るが、そこで足どりを断ったとされている。
徹の母親は東京女子大学を2度受験し失敗していた。
徹の母親と荒井桃子の母親はともに文学少女であり、作家・吉屋信子のファンであったことから、心を許す仲となる。
幼子を抱えていた桃子の母親は、24歳の時に間借りしていた大家の奥さんから荒井由紀夫を紹介され再婚した。
そして美人4人姉妹を産んだのだ。
秋田美人の桃子の母親は、娘時代に地元で<秋田小町>と呼ばれていた。
呉服屋に生まれ、和服を愛した桃子の母親は、78歳で亡くなるまで着物で過ごした。
徹の母親は、桃子の母親の影響で和服を着ていた。
美しはなかったが、日本的な<上品さ>を目指してようだ。
徹の母親は家政婦として多くの家へ派遣されていたが、和服姿を貫く。
徹の母親は64歳の時に和服姿の美しい婦人と親しくなる。
その婦人の娘が徹の妻となる。
残念ながら妻は、母親に似ておらず父親似であったのだ。
「綺麗なお母(義母)さん」
少年の夢は30歳で現実となったのだが・・・
それは人間関係断絶の始まりでもあった。

<安らぎと、ときめき>が必要

2017年11月18日 10時26分23秒 | 社会・文化・政治・経済
健全で満足度の高い人生には<安らぎと、ときめき>が必要だ。
家族や友人、社会とのつながりが安らぎである。
未来の目標や希望がときめき。
両方をバランスよく持っていれば自殺や他殺の思いには至らない。
立正大学教授・小宮信夫さん
短期間に9人もの人を連続して殺し、死体を解体する異常性。
被害者の<死にたい>というメッセージ。
加害者はそれを巧妙に利用したのであろうが、初対面なのに無警戒に自宅アパートまで着いて行く精神構造。
同じ目的を共有していることで親近感を抱いてしまったのだろ。
被害者は死のリアリティーを感じることはできなかったかもしれない。
死をどう考えるのかという大問題を、事件は問うている。

共生と共栄の地域建設

2017年11月18日 07時15分06秒 | 医科・歯科・介護
<無縁社会>
人間関係の希薄化が社会問題となっている。
特に、高齢者が孤立している。
<つながり>が弱まる現代社会。
一方、子どもたちも孤立している。
心を開く場がない。
つまり、心の支えがないのだ。
悪意の大人が存在することが、リアルな社会の現実。
安心・安全のための地域の役割が問われる。

<平和は創る>

2017年11月18日 06時51分23秒 | 社会・文化・政治・経済
倫理的課題、倫理とは、他者を思いやり、共感する能力である。

人類の平和的共生は、武器ではなく連帯の倫理によって醸成されなけtればならない。
核兵器の事故の危険性を考慮するならば、その使用の威嚇と保有そのもが問われる。

人間精神の変革により、生命の善性を顕現させていく。
核兵器問題は倫理的・道徳的問題である。
<対話>を手段として、市民社会で意識を変革していくことだ。
<平和は創る>という点で、倫理的問題。