内容(「BOOK」データベースより)
「重力」に似たものから、どうして免れればよいのか。
―ただ「愚寵」によって、である。「恩寵は満たすものである。
だが、恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしかはって行けない」「そのまえに、すべてをもぎ取られることが必要である。何かしら絶望的なことが生じなければならない」。
真空状態にまで、すべてをはぎ取られて神を待つ。苛烈な自己無化への志意に貫かれた独自の思索と、自らに妥協をゆるさぬ実践行為で知られる著者が、1940年から42年、大戦下に流浪の地マルセイユで書きとめた断想集。
死後、ノート(カイエ)の形で残されていた思索群を、G・ティボンが編集して世に問い、大反響を巻き起こしたヴェイユの処女作品集。
生年月日:1909年2月3日
出身地:パリ
死没:1943年8月24日 (34歳)
シモーヌ・ヴェイユは、フランスの哲学者である。
父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。
ヴェイユは第二次世界大戦中に英国アシュフォード(ケント)でほぼ無名のまま客死した(享年34)。
戦後、残されたノートの一部が知人の編集で箴言集として出版されるとベストセラーになった。
その後もあちこちに残されていた膨大な原稿・手紙・ノート類を知人たちが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は高まり、何カ国語にも翻訳されるようになった。遺稿は政治思想、歴史論、神学思想、労働哲学、人生論、詩、未完の戯曲、日記、手紙など多岐に渡る。
自分自身に、極限といってよい人間愛をやまなかったシモーヌ・ヴェイユの生き方、今なお心を深く打つものがある。
「苦痛と危険は、わたしの精神構造からいって不可欠のものです。(中略)地球上に広がった不幸は、わたしにとりつき、わたしの能力を無に帰せしめてしまうほどわたしを打ちのめしています。わたし自身が危険と苦しみの分け前をたっぷり背負わせないかぎり、わたしはその能力を回復し、こととりつかれた状態から解放されることはありません」
身近な他人の苦しみを自分の苦しみとして体験した「不幸」が、人間の根源的な「不幸」を築くと洞察させた。
1943年8月24日の夜、シモーヌ・ヴェイユは静かに息を引きとった。
検死官による死亡診断書は「栄養失調と肺結核による心筋層の衰弱から生じた心臓衰弱患者は精神錯乱をきたして食事を拒否、自ら生命を絶った。」と記された。
後半部分が波紋を起こし、イギリスの新聞2紙が「食物を絶って死ぬ、フランス人一女教師の異常な犠牲行為」との見出しでこの無名な元教師の死を報じた。
死後
ヴェイユが死んで4年後の1947年、友人の農民哲学者ギュスターブ・ティボン(フランス語版)は生前シモーヌから託された十数冊の雑記帳(カイエ)を編纂し、『重力と恩寵』と題して出版した。
無名の著者によるこの本は宗教・哲学分野としては異例のベストセラーとなりシモーヌ・ヴェイユ「発見」の先駆けとなった。