今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「むかし、西洋ろう理という爺さんがいた。その爺さんが来るたびに、少年だった私たちは、おい西洋ろう理が来たぜと笑った。
あざ笑ったのではない。三味線をしゃむせん、お姫様をおしめ様と言って怪しまぬ場末の東京訛(なまり)を、半ば懐(なつか)しみ、半ば揶揄(やゆ)して、しのび笑いしたのである。
それに私は、当時私たちが口にした、あのカツレツ、コロッケのたぐいは、西洋ろう理と呼ぶにふさわしいと思っていた。
そのころ、流線型の自動車が流行(はや)りだして、ついでにそれが『美』だという説が流行りだした。ただ疾走する目的に、必要なものだけから成って、何一つむだのない、この流線型の如きものこそ美だというのである。
まだ『機能』とは言わなかった。今ならさしずめ、『最も機能的なものこそ最も美しい』と言うところであろう。
私はそれを信じなかった。どうせ流線型を売り出すための方便であろう。流線型がすたったら、こんどは何を言いだすか、知れたものではないと思っていた。」
「ただ疾走する目的に、必要なものだけから成る、この流線型の如きこそ美だという説に、弱年の私は腹をたてた。
自動車のどこが美だ、と私はくってかかった。なんだいあれは、ブリキのおもちゃじゃないか。」
(山本夏彦著「日常茶飯事」新潮文庫 所収)
「むかし、西洋ろう理という爺さんがいた。その爺さんが来るたびに、少年だった私たちは、おい西洋ろう理が来たぜと笑った。
あざ笑ったのではない。三味線をしゃむせん、お姫様をおしめ様と言って怪しまぬ場末の東京訛(なまり)を、半ば懐(なつか)しみ、半ば揶揄(やゆ)して、しのび笑いしたのである。
それに私は、当時私たちが口にした、あのカツレツ、コロッケのたぐいは、西洋ろう理と呼ぶにふさわしいと思っていた。
そのころ、流線型の自動車が流行(はや)りだして、ついでにそれが『美』だという説が流行りだした。ただ疾走する目的に、必要なものだけから成って、何一つむだのない、この流線型の如きものこそ美だというのである。
まだ『機能』とは言わなかった。今ならさしずめ、『最も機能的なものこそ最も美しい』と言うところであろう。
私はそれを信じなかった。どうせ流線型を売り出すための方便であろう。流線型がすたったら、こんどは何を言いだすか、知れたものではないと思っていた。」
「ただ疾走する目的に、必要なものだけから成る、この流線型の如きこそ美だという説に、弱年の私は腹をたてた。
自動車のどこが美だ、と私はくってかかった。なんだいあれは、ブリキのおもちゃじゃないか。」
(山本夏彦著「日常茶飯事」新潮文庫 所収)