今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「すべてメカニズムは、人の福祉とは関係のないものである。おもちゃをおもちゃとして遇するなら、私は何も言いはしない。無かった昔を憐れんだり、馬鹿にしたりするから言うのである。
現代人がメカニズムを信じ、これを崇拝するにいたったのは、それが財産として残せるためである。ひとたび電燈を発明すれば、子孫は行燈の昔にもどることがないからである。
一方、精神上の遺産は、子孫に残せない。老荘儒仏ヤソにいたるまで、聖賢は人類を精神の内奥(ないおう)から救おうとした。なん千年来試みて、成功しなかったのは、五十にして天命を知った賢人が死んでしまえば、もとの木阿弥(もくあみ)、その子は初めからやり直さなければならない。やり直して五十になっても、はたして親父(おやじ)の域に達するかどうかはおぼつかない。
すなわち、精神上の財産は残せないのである。ところが、メカニズムなら残せるから、次の時代はテレビから出発して、たちまちカラーテレビを作り得るというあんばいである。
聖賢の道がすたれて、物質が崇拝されたのはこのためである。言うまでもなくこれは『精神侮蔑(ぶべつ)』の思想である。精神はこの侮蔑に値するのだろうか。
値するのである。値して、近代の精神は、それに甘んじているのである。
末端には電気パン焼器があり、頂上には宇宙船がある。原水爆はこの思想、この系列のピーク(てっぺん)に位する一つである。自動車や飛行機を肯定し、礼讃(らいさん)して、その絶頂にある原水爆だけを否定し、禁じようとしても、そうは問屋が卸すかしらん。
おもちゃに次ぐにおもちゃを作れば、人は必然てっぺんに達する。末端のおもちゃを喜んで、絶頂だけを憎むのは、いくら憎んでいますと力まれて、署名して下さいと帳面を出されても、私には喜んで応じられないのである。
私は凡百のメカニズムを、丁度手ごろな自動車に代表させて、言っているのである。けれどもどんなに私が論証しても、彼らがたらすよだれを、引っこませることはできない。」
(山本夏彦著「日常茶飯事」新潮文庫 所収)