今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)の著書「完本 文語文」から。
「 萩原朔太郎は『月に吠える』『青猫』二巻で、これまで類のない口語で一世を驚かした。地面の底に顔が
あらはれ、さみしい病人の顔があらはれ――月に吠えるは斬新な口語というより全き詩の言葉である。そ
れなのに二十年を経た『氷島』では文語に返った。
新しい日本語を発見しようとして、悶え悩んだあげく、ついに古き日本語に返った。僕の詩人としての
使命は終ったようなものだ、僕はすでに老いたと書いた。
朔太郎は「『氷島』の詩語について」自ら語っている。「……憤怒(ふんぬ)と、懐疑と、一切の烈しい
感情だけが、僕の心のなかに残った。氷島は私の『絶叫』である。しかるに今の日本語は歯切れが悪く抑
揚に欠け一本調子にすぎるので、絶叫を写すには向かない。いやでも漢文調で書くほかなかった」(大意)
まだ上州の山は見えずや――さきにあげた二児を抱えて故郷へ帰る詩は昭和四年の作であるが、これが
収録された詩集『氷島』は昭和九年に出た。
氷島は全文ことごとく文語である。けれどもそれは文語のなかで生れ育ち、独自な口語を発明した人の
文語である。藤村、晩翠とはちがう。朔太郎は「すべての詩篇は『朗吟』であり(略)読者は声に出して
読むべきであり、決して黙読すべきではない」と言った。
我れはもと虚無の鴉(からす)、いかんぞ窮乏を忍ばざらんや。氷島のなかで『いかんぞ』は出すぎてい
る。『思惟(しい)』もあらわれること再三である。朔太郎の語彙(ごい)は貧しいとその弟子にまでいわれた、
可哀想な萩原さん!
それは欠点ではあるけれど、語彙さえ豊かなら詩は成るというものではない。詩には天才がなければなら
ない。そして朔太郎にはそれがあった。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)