今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に
連載されたもの 。
備忘のため 、「 捨聖(すてひじり)一遍 」と題
された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。
一遍上人の話柄 、昨日の続き 。
引用はじめ 。
「 ・・鎌倉期においては 、東は相模(さがみ)あたり
から 、北陸道 、中山道(なかせんどう) 、東海道 、
畿内はいうまでもなく 、山陽道から九州にかけて
まで 、野にも山にも念仏が満ちていた 。
社会科の教科書ふうにいえば念仏門は法然にはじ
まって親鸞がこれを承(う)け 、別派として一遍が
存在する 。やがて室町に入って親鸞の子孫の蓮如
(れんにょ)が 、念仏の組織的な大問屋として大本
願寺教団をつくりあげて 、各地に一向一揆をおこ
し 、本願寺顕如(けんにょ)のときに織田信長と対
決するというふうになるが 、実際には法然以前に
古流(こりゅう)ともいうべき念仏集団が各地に多種
類存在した 。それらが法然の出現を待って教学を
与えられ 、すこしずつ組織されるのである 。たと
えば高野聖(こうやひじり)を中心とする高野念仏も
あれば 、紀州の熊野にあつまっていた熊野聖たち
の熊野念仏もあった 。さらには信濃の善光寺を中
心にあつまっていた善光寺聖という集団があり 、
善光寺念仏といわれていた 。念仏の本尊はいうま
でもなく阿弥陀如来である 。善光寺の本尊はこの
古刹(こさつ)としてはめずらしく阿弥陀如来で 、
日本最古のものといっていい 。中世 、阿弥陀信
仰がさかんになってから信濃の善光寺という寺が 、
天下に喧伝されたかと思える 。喧伝されるについ
ては 、善光寺の僧が才覚を働かせたのではなく 、
善光寺にいわば巣食っていた善光寺聖たちが 、さ
まざまな伝説を創作しては諸国に触れあるいたか
と思われる 。」
「 まことに聖という存在は 、中国の過去にも 、朝
鮮やヴェトナムの歴史にも存在しない 。中国では
似たものとして道士が存在するが 、朝鮮やヴェト
ナムでは類似のものもない 。ともかくも日本の中
世の聖たちは 、こんにちの日本の大衆社会の諸機
能をすでに備えていた 。ときに小説家のようであ
り 、ときに新聞 、テレビ 、ラジオの機能をもち 、
ときに広地域の商品販売者であり 、ときに思想の
宣布者であり 、ときに社会運動家のようでもあっ
た 。」
「 高野念仏 、熊野念仏 、善光寺念仏といっても 、
教団化されていない よさ があった 。かれらはそ
の後の法然教団や蓮如教団のように相互に排除し
あう体質がなく 、他からすぐれた聖がやってくれ
ば 、歓喜してそれに従ったようにおもわれる 。
たとえば一遍がやってきて 、
『 佐久平で 、別時念仏をしたい 』
ということになれば 、かれらは 、行装(ぎょう
そう)が乞食のようにきたないことで有名な一遍を
かこみ 、それを擁するようにして千曲川を南へさ
かのぼって佐久にむかったにちがいない 。ついで
ながら別時念仏というのは 、念仏は本来日常に唱
えるものだが 、修行のためにとくに期間を設け
(期間は一定しない 。一日だけの場合もあれば 、
例外的ながら九十日という長期間を設定する場合
もある)ひたすらに念仏を勧修(ごんしゅう)する行
事であった 。
一遍は 、この別時念仏を佐久の伴野郷でおこなっ
た 。伴野郷というのはいまはたしか佐久市に入る
のであろう 。ごくちっぽけな地名として残ってい
るにすぎないが 、鎌倉期では信濃一国のなかで最
大の水田地帯とされた 。それだけに農民の数も多
く 、高名な一遍聖が別時念仏を催すとなれば 、
佐久はじまって以来といっていいほどの民衆があ
つまったに相違ない 。
ときに 、歳末であった 。一遍が指導してこれを
やっていると 、千曲川の上に紫雲がたなびき 、
ひとびとをよろこばせた 。この奇瑞(きずい)は 、
三年後に関東の片瀬の地蔵堂で一遍が『 一日一
夜 』の念仏を民衆とともに修したときにもおこっ
た 。紫雲のほかに花も降った 。ひとびとは一遍
の徳に天が感応したと言い騒いだのに対し 、一遍
はにがい顔をし 、念仏というものはそういう変な
ものではない 、と𠮟った形跡がある 。一遍のぜん
たいの思想からいえばそれは単に自然現象にすぎな
いもので 、そういうことを信ずることそのものが
念仏の本義がわかっていない証拠であるというもの
であった 。片瀬のときの奇瑞については 、一遍は
有名な言葉を吐いている 。
華のことははなにと(註・問)へ 。紫雲のことは
紫雲にとへ 。一遍はしらず 。
これをみても 、中世末期の遊行僧である一遍の精
神をささえていた知性の筋肉がいかに強靭であった
かがわかる 。
一遍はさらに 、伴野郷の近所の小田切(おだぎり)
へも行った 。
小田切というのは 、いまの佐久の臼田(うすだ)町
とよばれている町制地域からわずかに南にある村で 、
ここに小田切川という細川が流れている 。蓼科山
(たてしなやま)の中腹の上(かみ)小田切という土地
を源流とし 、平野の下(しも)小田切に入って千曲
川に合流する 。一遍が行ったのは 、この合流点付
近だったにちがいない 。
一遍はこの小田切で 、踊り念仏をやった 。
『 鉦(かね)をたたき 、輪になって 、念仏をとな
えながら踊ろうではないか 』
と 、一遍はいったにちがいない 。一遍は三世紀
あまり前の平安中期に出た空也(くうや)(こうや と
もよむ)を尊敬していた 。空也はいかにも一遍に似
ていた 。『 市聖(いちひじり) 』とよばれ 、念仏
をすすめつつ諸国を歩き 、道路を普請したり 、水
利を通じたりしたが 、空也念仏といわれる踊念仏
(おどりねんぶつ)を創めたことで 、特徴をもつ 。
踊りつつ和讃や念仏をとなえるのだが 、楽器には
瓢箪がある 。それに鉦と鉢という騒がしいもので
あった 。要するに内(うち)に信仰が満ちてうれし
くてたまらず 、ついに歓喜踊躍(かんぎようやく)
するに至るというのが 、本旨だった 。
一遍は 、それを小田切において再興した 。私は
盆踊の起源などよく知らないが 、この佐久の小田
切で一遍がみなと一緒になって踊りまわったこと
も起源の一つに数えられるのではないか 。」
引用おわり 。
。。(⌒∇⌒);。。
( ついでながらの
筆者註:「空也(くうや)は 、平安時代中期の僧 。
阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちの
ひじり)、市上人(いちのしょうにん)と
も称される 。
人物
観想を伴わず 、ひたすら『 南無阿弥陀仏 』
と口で称える称名念仏(口称念仏)を日本
において記録上初めて実践したとされ 、日
本における浄土教・念仏信仰の先駆者と評
価される 。摂関家から一般大衆に至るまで
幅広い層・ことに出家僧に向けてではなく
世俗の者に念仏信仰を弘めたことも特徴で
ある 。空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄
土信仰を醸成したとされる 。
俗に天台宗空也派と称する一派において祖
と仰がれるが 、空也自身は複数宗派と関わ
りを持つ超宗派的立場を保ち 、没後も空也
の法統を直接伝える宗派は組織されなかっ
た 。よって 、空也を開山とする寺院は天
台宗に限らず 、在世中の活動拠点であった
六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する
(空也の没後中興した中信以降 、桃山時代
までは天台宗であった )。
踊念仏 、六斎念仏の開祖とも仰がれるが 、
空也自身がいわゆる踊念仏を修したという
確証はない 。ただし 、空也が創建した六 ( 官僧でもない私度僧
波羅蜜寺には『 空也踊躍念仏 』が受け継 の念仏聖が六波羅蜜寺
がれており 、国の重要無形文化財に指定 の創建者。わけありだ
されている 。 な。)
門弟は 、高野聖など中世以降に広まった
民間浄土教行者『 念仏聖 』の先駆となり 、
鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた 。」
以上ウィキ情報 。
京都の六波羅蜜寺の寺宝 「 空也上人立像 」
は 、教科書や写真でしか見たことはないが 、
口から念仏が飛び出す ユニークな鎌倉時代
の木彫 である 、と聞く 。左手に杖をついて
小さく一歩足を踏み出した姿で 、わずかに
開いた口から 、小さな仏像が6体現れてい
る 。空也が唱えた「 南無阿弥陀仏(なむ
あみだぶつ)」の声が 、阿弥陀如来の姿に
変わった様子を表現しているそうだ 。)
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