「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

なむあみだぶつ Long Good-bye 2024・12・06

2024-12-06 05:44:00 | Weblog

 

  今日の「お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため 、「 山寺の中の浮世絵 」と題

  された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   司馬遼太郎さんの「 街道をゆく 」の場合 、

  「 すこし無駄話をしたい 」で はじまる 件 ( くだ

  り ) は 、存外おもしろい 。

   400年近く続いた平安時代の初期を生きた伝教

  大師 最澄弘法大師 空海の話柄 。

   引用はじめ 。

   「 この別所温泉を持つ野は 、塩田平(しおだだ
   いら)とよばれる 。信州らしく文字どおり高燥
   の地で 、降雨量はすくなく 、標高は温泉のあ
   たりで六五〇メートルだという 。」

   「 別所温泉は もとは近郷の湯治場で 、湯治客は
   たね屋の屋敷に間借りした 。いま別所温泉の  ( 蚕のたね屋 )
   伝統のある宿屋はたいてい たね屋 だった家で

     すということだった 。  」

   「 常楽寺は 、丘陵の中腹の台上にある 。台上
   までは 、石段を登る 。のぼりつめると 、本
   坊がある 。きれいなわらぶきの屋根をかぶっ
   ていた 。
    寺域は緑につつまれ 、あたり一面に蟬しぐれ
   が降りつづけて 、もうそれだけで十分な感じ
   がした 。
    この寺は 、本坊だけである 。本坊は坊さん
   の住まいだから 、参詣者は来ない 。参詣者は
   この寺が持っている観音堂( 北向観音 )のほ
   うへゆく 。観音堂は 、本坊からすこし離れて
   いる

   「 すこし無駄話をしたい 。

    天台宗を興した最澄は 、入唐(につとう)して
   天台教学の体系を持ち帰ったが 、当時『 新仏
   教 』として認識されていた密教については 、
   帰路 、越州に寄ったとき 、そこにあったいわ
   ば田舎密教を持ち帰っただけであった 。
    日本で最澄を待っていた宮廷人たちは 、最澄
   がかついで帰った風呂敷包みの内容のうち 、か
   んじんの天台体系よりも密教に関心をよせた 。
   最澄はいそぎ時代の要求に応(こた)えるべく自
   分の体系に密教部門をを入れたが 、その内容の
   薄弱さが気になり 、そのことがかれの生涯の苦
   のたねになった 。
    それに反し 、最澄と同時期に入唐した空海は
   もともと独学で密教の専門家になっていただけ
   でなく 、長安において正密の法統を承け 、か
   れ自身の論理でもって巨大な結晶体のような体
   系をつくりあげ 、かつ密教の重大事である行
   (ぎょう)についても間然するところがなかった
   最澄はこの空海から密教を学ぼうとしてうまく
   ゆかず 、一方 、南都のふるい仏教側との論争
   で精根をついやし 、五十六歳で世を去った
    帰国後の最澄は自分の教学を防衛することに
   明け暮れたために 、持ち帰ったものを整理す
   るいとまもなく 、その風呂敷包みを叡山の山
   頂に置いたまま世を去ったといっていい 。
   澄は 、叡山に戒壇を置くことが生涯の念願だ
   った 。戒壇とは官僧を作りだすための資格授
   与所といっていい 。下野(しもつけ)の薬師寺 、
   奈良東大寺 、大宰府の観世音寺の三カ所にあ
   ったが 、最澄は叡山にも設けてほしいと官に
   運動し 、奈良の僧の反対に遭ってついに実現
   せず 、実現したのはその死後だった 。
    最澄は前半生において恵まれ 、後半生にお
   いては稔りのない抗争にひきこまれてかんじ
   んの教学面では何もしていないにひとしい
   ただ死後 、後継者にめぐまれた人間の一
   生は 、棺のふたを覆ってもなおわからない
   いうのが 、最澄の場合であろう 。空海の教
   学は後継者によって発展しなかった発展す
   る余地がないほどに空海が生前完璧なものに
   してしまっていたからである 。これに対し
   澄の後継者たちはちがっていた 。師匠が叡山
   の山の上に風呂敷包みをほとんど解きもせずに
   置きすてて世を去ったあと 、みなで風呂敷を
   解き 、そのぼう大な内容を手分けして整理し
   たり 、研究したりして 、この系統から無数
   の学僧や思想的人物が出 、ついに鎌倉仏教と
   いう日本化した仏教世界を創造するにいたった
   空海の真言宗には 、そういう華やかさは 、そ
   の後なかった 。」

  「  最澄の死後 、円仁(えんにん)(794-864))
   が巨大である
    かれは下野(栃木県)の産で 、最澄の生前
   に入門し 、その死後 、最澄が生涯苦にして
   いたその希薄な密教体系を充実させるべく 、
   東シナ海の波濤を越えて入唐した
    その旅行記である『 入唐求法巡礼行記(にっ
   とうぐほうじゅんれいこうき) 』は 、若いこ
   ろのライシャワー氏によって世界中に紹介さ
   れ 、いまでは玄奘(げんじょう)の『 大唐西
   域記 』、マルコ・ポーロの『 東方見聞録
   とともに世界の三大旅行記にかぞえられるに
   至っている 。
    円仁は九世紀の唐をつぶさに見 、帰国後 、
   幾年か経って天台座主に任ぜられ 、その死
   後 、慈覚大師(じかくだいし)とおくりな
   れた 。」

  「 この常楽寺に付属する『 北向観音 』の観
   音堂伝説では 、この円仁が登場する 。
    天長二(825)年に 、この常楽寺の丘陵の一
   角で 、毎夜 、光明が射し 、地鳴りをとも
   なった 。朝廷がおどろき 、天台座主円仁を
   派遣した 。( 実際には 、円仁が天台座主に
   なるのはそれから二十九年後 ) 。円仁が現地
   で修法(すほう)を営むうち 、空中から声が
   あって 、自分は観音である 、わが像を刻み
   北向きに安置せよ 、といった 。円仁はこの
   像を刻み 、いわれるとおりに北向きにし 、
   観音堂にまつった 。
    おそらくこの伝説は 、観音堂にあつまって
   いた聖たちが創作したのであろう 。
   『 そういうありがたい観音さまだ 』
    と 、ひとびとに触れまわったにちがいない 。
   別所温泉の湯元のの一つは 、古い時代 、大
   師ノ湯とよばれた 。この大師は空海・弘法大
   師の大師ではなく 、円仁・慈覚大師の大師で
   あるらしい 。ここの聖たちは 、本来の常楽
   寺が天台宗であるというので弘法大師にする
   わけにゆかず 、慈覚大師にしたのに相違ない 。
   天台宗なら 、宗祖の最澄・伝教大師にすれば
   よさそうなものだが 、最澄は人文科学者のよ
   うな人格的印象があるため 、聖たちが最澄を
   持ちだすわけにゆかなかったのかもしれない 。
   それに初期の聖は 、多くは密教の徒であった 。
   最澄はいわば密教の落第生であったために最
   澄という大学総長のような印象の名前では神
   秘伝説の主人公にするわけにゆかず 、いっそ
   天台密教を確立したその弟子の円仁のほうが
   いいということだったのであろう 。
   『 善光寺だけお詣りしていてはいけない 。
   北向観音に詣らなければ片詣りになる
    と 、善光寺とワン・セットにして売りだす
   ということをかんがえたのも 、観音堂の聖
   たちに相違ない 。かれらが湯聖をも兼ね 、
   ひとびとに観音堂の参籠をさせて仏果を得さ
   せる一方 、湯治をさせて神経痛などを癒さ
   せるということにしていたのかと思える 。
   そうでなければ別所という地名ができるわけ
   がないと思うが 、どうであろう 。 」

   引用おわり 。

   。。(⌒∇⌒);。。

  ( ついでながらの

    筆者註:「 最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉
        もしくは767年〈神護景雲元年〉- 822年
        〈弘仁13年〉)は 、平安時代初期の日本
        の仏教僧 。日本の天台宗の宗祖であり 、
        伝教大師(でんぎょうだいし)として広く
        知られる 。近江国(現在の滋賀県)滋賀
        郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺
        (現:大津市坂本)の地に生れ 、俗名は
        三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に
        渡って仏教を学び 、帰国後 、比叡山延暦
        寺を建てて日本における天台宗を開いた 。 」

        「 空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835
        年4月22日〈承和2年3月21日〉)は 、平安
        時代初期の僧 。諡号は弘法大師(こうぼう (諡号の読みは しごう)
        だいし)。真言宗の宗祖 。俗名は佐伯眞魚
        (さえき の まお)。

         日本天台宗の宗祖である最澄と共に 、日
        本仏教の大勢が 、今日称される奈良仏教
        から平安仏教へと 、転換していく流れの
        劈頭(へきとう)に位置し 、中国より真
        言密教をもたらした 。能書家でもあり 、
        嵯峨天皇・橘逸勢と共に 三筆 のひとり
        数えられている 。

         仏教において 、北伝仏教の大潮流である
        大乗仏教の中で 、ヒンドゥー教の影響も
        取り込む形で誕生・発展した 密教 がシル
        クロードを経て中国に伝わった後 、中国
        で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを 、
        体系立てた形で日本に伝来させた人物でも
        ある 。

        以上ウィキ情報 。

        Yahoo ! 知恵袋 にこんな Q&A がありました 。

         「Q:間然するところなし。の『 間然 』の
            語源を教えてください 。
            どうして 、『 欠点をついてあれこれ
            と批判・非難すること 。』という意味
            になるのですか ?
          A:『 間然 』の意味は『 欠点をついて
            あれこれと批判・非難すること 』では
            なく 、『 非難されるような欠点があ
            ること 』です 。
            『 間 』は『 すきま 』、『 然 』は
            『 状態・様子 』ですから 、『 間然 』
            は『 すきまがある状態 』ということ
            になります 。すきまがあれば完全では
            ない 、すなわち欠点がある 、という
            意味になるわけです 。」)

 

  

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