今日の「お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝
日」に連載されたもの 。
備忘のため 、「 山寺の中の浮世絵 」と題
された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。
司馬遼太郎さんの「 街道をゆく 」の場合 、
「 すこし無駄話をしたい 」で はじまる 件 ( くだ
り ) は 、存外おもしろい 。
400年近く続いた平安時代の初期を生きた伝教
大師 最澄 や 弘法大師 空海の話柄 。
引用はじめ 。
「 この別所温泉を持つ野は 、塩田平(しおだだ
いら)とよばれる 。信州らしく文字どおり高燥
の地で 、降雨量はすくなく 、標高は温泉のあ
たりで六五〇メートルだという 。」
「 別所温泉は もとは近郷の湯治場で 、湯治客は
たね屋の屋敷に間借りした 。いま別所温泉の ( 蚕のたね屋 )
伝統のある宿屋はたいてい たね屋 だった家で
すということだった 。 」
「 常楽寺は 、丘陵の中腹の台上にある 。台上
までは 、石段を登る 。のぼりつめると 、本
坊がある 。きれいなわらぶきの屋根をかぶっ
ていた 。
寺域は緑につつまれ 、あたり一面に蟬しぐれ
が降りつづけて 、もうそれだけで十分な感じ
がした 。
この寺は 、本坊だけである 。本坊は坊さん
の住まいだから 、参詣者は来ない 。参詣者は
この寺が持っている観音堂( 北向観音 )のほ
うへゆく 。観音堂は 、本坊からすこし離れて
いる 。」
「 すこし無駄話をしたい 。
天台宗を興した最澄は 、入唐(につとう)して
天台教学の体系を持ち帰ったが 、当時『 新仏
教 』として認識されていた密教については 、
帰路 、越州に寄ったとき 、そこにあったいわ
ば田舎密教を持ち帰っただけであった 。
日本で最澄を待っていた宮廷人たちは 、最澄
がかついで帰った風呂敷包みの内容のうち 、か
んじんの天台体系よりも密教に関心をよせた 。
最澄はいそぎ時代の要求に応(こた)えるべく自
分の体系に密教部門をを入れたが 、その内容の
薄弱さが気になり 、そのことがかれの生涯の苦
のたねになった 。
それに反し 、最澄と同時期に入唐した空海は
もともと独学で密教の専門家になっていただけ
でなく 、長安において正密の法統を承け 、か
れ自身の論理でもって巨大な結晶体のような体
系をつくりあげ 、かつ密教の重大事である行
(ぎょう)についても間然するところがなかった 。
最澄はこの空海から密教を学ぼうとしてうまく
ゆかず 、一方 、南都のふるい仏教側との論争
で精根をついやし 、五十六歳で世を去った 。
帰国後の最澄は自分の教学を防衛することに
明け暮れたために 、持ち帰ったものを整理す
るいとまもなく 、その風呂敷包みを叡山の山
頂に置いたまま世を去ったといっていい 。最
澄は 、叡山に戒壇を置くことが生涯の念願だ
った 。戒壇とは官僧を作りだすための資格授
与所といっていい 。下野(しもつけ)の薬師寺 、
奈良東大寺 、大宰府の観世音寺の三カ所にあ
ったが 、最澄は叡山にも設けてほしいと官に
運動し 、奈良の僧の反対に遭ってついに実現
せず 、実現したのはその死後だった 。
最澄は前半生において恵まれ 、後半生にお
いては稔りのない抗争にひきこまれてかんじ
んの教学面では何もしていないにひとしい 。
ただ死後 、後継者にめぐまれた 。人間の一
生は 、棺のふたを覆ってもなおわからないと
いうのが 、最澄の場合であろう 。空海の教
学は後継者によって発展しなかった 。発展す
る余地がないほどに空海が生前完璧なものに
してしまっていたからである 。これに対し最
澄の後継者たちはちがっていた 。師匠が叡山
の山の上に風呂敷包みをほとんど解きもせずに
置きすてて世を去ったあと 、みなで風呂敷を
解き 、そのぼう大な内容を手分けして整理し
たり 、研究したりして 、この系統から無数
の学僧や思想的人物が出 、ついに鎌倉仏教と
いう日本化した仏教世界を創造するにいたった 。
空海の真言宗には 、そういう華やかさは 、そ
の後なかった 。」
「 最澄の死後 、円仁(えんにん)(794-864))
が巨大である 。
かれは下野(栃木県)の産で 、最澄の生前
に入門し 、その死後 、最澄が生涯苦にして
いたその希薄な密教体系を充実させるべく 、
東シナ海の波濤を越えて入唐した 。
その旅行記である『 入唐求法巡礼行記(にっ
とうぐほうじゅんれいこうき) 』は 、若いこ
ろのライシャワー氏によって世界中に紹介さ
れ 、いまでは玄奘(げんじょう)の『 大唐西
域記 』、マルコ・ポーロの『 東方見聞録 』
とともに世界の三大旅行記にかぞえられるに
至っている 。
円仁は九世紀の唐をつぶさに見 、帰国後 、
幾年か経って天台座主に任ぜられ 、その死
後 、慈覚大師(じかくだいし)とおくりなさ
れた 。」
「 この常楽寺に付属する『 北向観音 』の観
音堂伝説では 、この円仁が登場する 。
天長二(825)年に 、この常楽寺の丘陵の一
角で 、毎夜 、光明が射し 、地鳴りをとも
なった 。朝廷がおどろき 、天台座主円仁を
派遣した 。( 実際には 、円仁が天台座主に
なるのはそれから二十九年後 ) 。円仁が現地
で修法(すほう)を営むうち 、空中から声が
あって 、自分は観音である 、わが像を刻み
北向きに安置せよ 、といった 。円仁はこの
像を刻み 、いわれるとおりに北向きにし 、
観音堂にまつった 。
おそらくこの伝説は 、観音堂にあつまって
いた聖たちが創作したのであろう 。
『 そういうありがたい観音さまだ 』
と 、ひとびとに触れまわったにちがいない 。
別所温泉の湯元のの一つは 、古い時代 、大
師ノ湯とよばれた 。この大師は空海・弘法大
師の大師ではなく 、円仁・慈覚大師の大師で
あるらしい 。ここの聖たちは 、本来の常楽
寺が天台宗であるというので弘法大師にする
わけにゆかず 、慈覚大師にしたのに相違ない 。
天台宗なら 、宗祖の最澄・伝教大師にすれば
よさそうなものだが 、最澄は人文科学者のよ
うな人格的印象があるため 、聖たちが最澄を
持ちだすわけにゆかなかったのかもしれない 。
それに初期の聖は 、多くは密教の徒であった 。
最澄はいわば密教の落第生であったために最
澄という大学総長のような印象の名前では神
秘伝説の主人公にするわけにゆかず 、いっそ
天台密教を確立したその弟子の円仁のほうが
いいということだったのであろう 。
『 善光寺だけお詣りしていてはいけない 。
北向観音に詣らなければ片詣りになる 』
と 、善光寺とワン・セットにして売りだす
ということをかんがえたのも 、観音堂の聖
たちに相違ない 。かれらが湯聖をも兼ね 、
ひとびとに観音堂の参籠をさせて仏果を得さ
せる一方 、湯治をさせて神経痛などを癒さ
せるということにしていたのかと思える 。
そうでなければ別所という地名ができるわけ
がないと思うが 、どうであろう 。 」
引用おわり 。
。。(⌒∇⌒);。。
( ついでながらの
筆者註:「 最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉
もしくは767年〈神護景雲元年〉- 822年
〈弘仁13年〉)は 、平安時代初期の日本
の仏教僧 。日本の天台宗の宗祖であり 、
伝教大師(でんぎょうだいし)として広く
知られる 。近江国(現在の滋賀県)滋賀
郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺
(現:大津市坂本)の地に生れ 、俗名は
三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に
渡って仏教を学び 、帰国後 、比叡山延暦
寺を建てて日本における天台宗を開いた 。 」
「 空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835
年4月22日〈承和2年3月21日〉)は 、平安
時代初期の僧 。諡号は弘法大師(こうぼう (諡号の読みは しごう)
だいし)。真言宗の宗祖 。俗名は佐伯眞魚
(さえき の まお)。
日本天台宗の宗祖である最澄と共に 、日
本仏教の大勢が 、今日称される奈良仏教
から平安仏教へと 、転換していく流れの
劈頭(へきとう)に位置し 、中国より真
言密教をもたらした 。能書家でもあり 、
嵯峨天皇・橘逸勢と共に 三筆 のひとりに
数えられている 。
仏教において 、北伝仏教の大潮流である
大乗仏教の中で 、ヒンドゥー教の影響も
取り込む形で誕生・発展した 密教 がシル
クロードを経て中国に伝わった後 、中国
で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを 、
体系立てた形で日本に伝来させた人物でも
ある 。」
以上ウィキ情報 。
Yahoo ! 知恵袋 にこんな Q&A がありました 。
「Q:間然するところなし。の『 間然 』の
語源を教えてください 。
どうして 、『 欠点をついてあれこれ
と批判・非難すること 。』という意味
になるのですか ?
A:『 間然 』の意味は『 欠点をついて
あれこれと批判・非難すること 』では
なく 、『 非難されるような欠点があ
ること 』です 。
『 間 』は『 すきま 』、『 然 』は
『 状態・様子 』ですから 、『 間然 』
は『 すきまがある状態 』ということ
になります 。すきまがあれば完全では
ない 、すなわち欠点がある 、という
意味になるわけです 。」)
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