今日の「お気に入り」は、作家 井伏鱒二 さん ( 1898 - 1993 ) の 「シンガポール 所見 」 と題した 詩 一篇 。
「 シンガポール 所見
―― 戦争中、徴用 されて シンガポール に住む。某日、意外にも キリネー・ロード にて、
東京 新宿中村屋 の ボースさん を見る。
走る走る―― 一人の印度人が
紫外線よけの眼鏡をかけ
いま熱狂の歓声をあげ
絵から抜け出た韋駄天だ
いつさんに自動車を追つて行く
その車蓋のない自動車に
これは意外
にこにこ笑ひながら
やはり紫外線よけの眼鏡をかけ
新宿中村屋のボースさんが乗ってゐる
自動車の行手には
印度人集会場の草原に たくさんの人だかりだ
見よ――青空を――あの集会堂の尖塔に
翩翻(へんぽん)としてひるがへる印度独立の三色旗 」
( 井伏鱒二 著 「 厄除け詩集 」講談社文芸文庫 所収 )
久しぶりにこの詩を読んで、子供の頃、一度か二度、東京 新宿中村屋 の 「 チキンカリー 」を
食べに、家族連れだって出かけたことを 思い出しました。
インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」には、「 新宿中村屋 」について
以下の記事が載っています。勉強になりますナ~。
「 1901年( 明治34年)12月 - 現文京区本郷の東京大学正門前にあったパン販売店中村屋を
相馬愛蔵・良夫妻が買い取り、個人経営で創業。夫婦ともに学校出であったことから『 書生パン
屋 』と呼ばれて繁昌した。」
「 相馬愛蔵 ( 創業者 )
1901年の創業以来、妻の相馬黒光(良?)とともに独創的なパン・食品を作り続けた。
1904年にはシュークリームをヒントに現在もポピュラーな菓子パンであるクリ
ームパンを考案した。1927年には現在の中華まんのもととなる『 中華饅頭 』
を発売。これが現在の中華まんの始まりとも言われている。」
「 1918年に娘がインドの独立運動家のラス・ビハリ・ボース ( 通称 中村屋のボース、
チャンドラ・ボースとは別人 ) から米(白目米)や鳥(軍鶏)にまでこだわった本格的な
カリーの調理を学び、1927年(昭和2年)6月12日に当時の日本では珍しい
純インド式カリー を販売している。本店のカリーのキャッチフレーズ『 恋と革命の味 』
はここから生まれ、引き継がれている。
また中村屋では発売開始日の6月12日を『 恋と革命のインドカリーの日 』と定めている。」
「 フランスパン を日本で最初に発売した京都の 進々堂 創業者の 続木斎 や、山﨑製パン 創業者の
飯島籐十郎 も相馬のもとで勤務していた。
新宿本店には愛蔵・良の人柄に惹かれた文化人が盛んに来店していた。
その中にロシアの童話作家 ヴァスィリー・エロシェンコ もおり、彼がレシピを伝えた ボルシチ も、
前述のカリーと並び本店レストランの開店以来の人気メニューである。ただし、この ボルシチ は
テーブルビート の代わりに トマト を使用した物である。また、エロシェンコ が着用していた ロシ
ア の民族服 ルバシカ も、その機能性から店員制服として採用されている。」
「 逸話
寺山修司 は プレイボーイ誌 で 人生相談欄 を担当していたとき、自殺願望の青年の葉書に対し、
『 君は 新宿中村屋のカリー を食べたことがあるか?なければ食べてから再度相談しろ 』と返答した。」
おぼろげな記憶ですが、昔、食べた 新宿中村屋の「 チキンカリー 」には、色んなスパイスの他に、
すりおろしたリンゴ が 隠し味 に入っていたような 気がします。
今の レトルトカレー とは 随分と違ったお味 だったような ・・・ 。
そう言えば、ネパール ・カレーのテイクアウトのお店で買った「チキン・バター・カレー」を食べた
昨日 6月12日は、中村屋さんの『 恋と革命のインドカリーの日 』。
一緒に食べた ナン は、やけに甘かったナ~、パンケーキほどではないけれど ・・・、
ナン専用の業務用小麦粉、 甘さ控えめにお願いしたい、日清製粉さん。
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