今日の「お気に入り」は、「 いつか役に立つかもしれないムダ知識 」という タイトルのもと綴られた、どなたか の ブログ
の中で見た言葉「 文政 の 三蔵 」。
「 文政 ( ぶんせい ) 」は、日本の元号(年号)。江戸時代 の 1818年 から 1830年 まで、 仁孝 ( にんこう ) 天皇 の代の元号。
前元号は文化 ( ぶんか ) 。次元号は 天保 ( てんぽう ) 。1818年( 文化15)4月22日改元。仁孝天皇 の 即位 にともない
行われた 「 代始改元 」 だそう。「 今 は 昔 」ではありますが、ほんの 200年ほど 前 の 時代 です ・・・ 。
200年って、「 きんさん、ぎんさん 二人分 」 。
「 文政 の 三蔵 」とは、間宮林蔵( まみやりんぞう、1780 - 1844 )、
近藤重蔵( こんどうじゅうぞう、1771 - 1829 )、
平山行蔵( ひらやまこうぞう、1759 - 1829 ) のお三方のことだそうです 。
お三方とも、「 江戸時代後期 の 幕臣 」 だったという共通点があります。
間宮林蔵 さん と 平山行蔵 さん には、徳川将軍家 の 「 御庭番 」を務めていた、という共通点もあるようです。
また、間宮林蔵 さん と 近藤重蔵 さん は、ともに 「 蝦夷地 や 北方 の 測量 調査 、 探索 」に従事していた
と言う共通点があるようです。
うろ覚えですが、 「 近藤重蔵 」 は 、司馬遼太郎 さんの 「 菜の花の沖 」の 中に、廻船業者 で 海商 の
「 高田屋嘉兵衛 ( 1769 - 1827 ) 」 の絡みで出てきた お名前 だったような。また「 重蔵 」は、司馬遼太郎
さんの 小説「 梟の城 」の主人公「 伊賀者 葛籠(つづら) 重蔵 」の名前でもあります。
ただ 近藤重蔵 さん は、他の二人の 「 ぞう 」さんと違い、同じ幕臣と言っても、隠密ではなく、父親の
隠居後に 「 御先手組与力 」として出仕し、「 火付盗賊改方 」としてのお務めも されていた方のようです。
近藤重蔵 さん については、日を改めて 紹介 したいと思います。
紹介 その一、一番目の「 ぞう 」さん:
フリー百科事典「 ウィキペディア 」には、 間宮林蔵 さんについて 次のような 解説、書き込み があります。
「 忍者 」の項:
「 薩摩藩 の 鹿児島城 に 潜入 して 城中の蘇鉄 に 名前 を 刻んだ『 偉業 』 ( ? ) で知られる 公儀隠密 。
伊能忠敬 の弟子でもあり、ロシアの南下に際し 幕府の 命 を受け、樺太の調査 を行う。
今でも 日本の地図 には、 樺太 と シベリヤ の 海峡 に 間宮海峡 として名を残している 。 」
「 間宮林蔵 」の項:
「 間宮 林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期 の 徳川将軍家 御庭番 、探検家 。名は倫宗(ともむね)。
元武家 の 帰農した 農民出身 であり、幕府で 御庭番 を務めた 役人 であった。生年は 安永4年( 1775年 )とも。
樺太(サハリン)が島である事を確認 し 間宮海峡 を発見した事で知られる 。
近藤重蔵、平山行蔵と共に『 文政の三蔵 』と呼ばれる。 」
「 経歴
常陸国筑波郡上平柳村(後の 茨城県つくばみらい市 )の 小貝川のほとり に、 農民の子 として誕生 。
戦国時代 に 後北条氏 に仕えた 宇多源氏 佐々木氏分流 間宮氏 の 篠箇城主 の 間宮康俊 の 子孫 で 間宮清右衛門
系統の 末裔 。
当時幕府は利根川東遷事業を行っており、 林蔵 の生まれた近くで 堰( 関東三大堰 のひとつ、 岡堰 )の普請
を行っていた。この作業に加わった 林蔵 は 幕臣・村上島之丞 に 地理や算術の才能を見込まれ 、後に 幕府の
下役人 となった。寛政11年(1799年)、国後場所( 当時の範囲は 国後島 、 択捉島 、 得撫島 )に 派遣 され
同地に来ていた 伊能忠敬 に 測量技術を学び 享和3年(1803年)、 西蝦夷地( 日本海岸およびオホーツク
海岸 )を測量 し、ウルップ島 までの 地図を作製 した。
文化(1807年)4年4月25日、択捉場所(寛政12年(1800年)クナシリ場所 から分立。択捉島)の 紗那会所元
に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られた ニコライ・レザノフ が復讐のため部下の ニコライ・フヴォ
ストフ たちに行わせた同島襲撃( 文化露寇 )に巻き込まれた。この際、 林蔵 は 徹底抗戦を主張 するが受け入れ
られず、撤退。後に他の幕吏らが撤退の責任を追及され処罰される中、 林蔵 は 抗戦を主張したこと が認められ
て 不問に付された 。
文化5年(1808年)、幕府の命により 松田伝十郎 に従って 樺太を探索 することとなり、樺太南端のシラヌシ
(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。
林蔵 は多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、それ以上進む事が困難であった為、
再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ
(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上、北樺太西岸ノテトで 松田 と合流した。
林蔵 は アイヌ語 もかなり解した が、樺太北部にはアイヌ語が通じない オロッコ と呼ばれる 民族 がいることを
発見、その生活の様子を記録に残した。 松田 と共に北樺太西岸ラッカに至り、 樺太 が 島 であるという推測を
得てそこに『 大日本国国境 』の 標柱 を 建て 、文化6年6月(1809年7月)、 宗谷 に帰着した。
調査の報告書を提出した 林蔵 は翌月、更に奥地への探索を願い出てこれが許されると、単身 樺太 へ向かった。
林蔵 は、現地で アイヌの従者 を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進ん
で 黒竜江 河口 の対岸に位置する 北樺太西岸 ナニオー まで到達し、 樺太が半島ではなく島である 事を確認した。
更に 林蔵 は、樺太北部に居住する ギリヤーク人(ニヴフ) から聞いた、 清国の役所が存在 するという 黒竜江
( アムール川 )下流の町『 デレン 』の存在、および ロシア帝国 の動向を確認すべく、 鎖国を破る ことは 死罪
に相当することを知りながらも、 ギリヤーク人らと共に 海峡を渡って アムール川下流 を 調査 した。
その記録は『 東韃地方紀行 』として残されており、ロシア帝国 が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず 、
清国人 が 多くいる状況 が報告されている。なお、現在ロシア領 となっているアムール川流域の 外満州 は ネル
チンスク条約 により 当時は清領 であった。
間宮林蔵 は 樺太が島 であることを確認 した人物 として認められ、シーボルト は後に作成した 日本地図 で 樺太・
大陸間の 海峡最狭部 を『 マミアノセト 』と命名した 。海峡自体 は『 タタール海峡 』と 記載 している。
樺太北部の探索を終えた 林蔵 は文化6年旧暦9月末(1809年11月)、宗谷 に戻り、11月に 松前奉行所へ出頭 し
帰着報告 をしている。 松前 において 探索の結果報告 の 作成 に取りかかり、師の 村上島之丞 の養子である 村上
貞助 に 口述を筆記 させ、『 東韃地方紀行 』、『 北夷分界余話 』としてまとめ、文化8年(1811年)1月、江戸
に赴いて 地図と共に 幕府に提出 した。
江戸において 林蔵 は 伊能忠敬 の邸に出入りして 測量技能 の 向上 に努めた。
文化8年(1811年)4月、 松前奉行支配調役下役格 に 昇進 。同年12月、 ゴローニン事件 の 調査 のため 松前に
派遣 される。文政5年(1822年)、 普請役 となる。文政11年(1828年)には 勘定奉行 ・ 村垣定行 の 部下 になり、
幕府の 隠密 として 全国各地を調査 し、 石州浜田藩の密貿易の実態を掴み 、大坂町奉行 矢部定謙 に報告し 検 挙に
至らせる( 竹島事件 )などの活動に従事する。
探索で培った、蝦夷・樺太方面 に対する豊富な知識や海防に対する見識が高く評価され、老中 大久保忠真 に
重用 され、 川路聖謨 や 江川英龍 らとも 親交 を持った。また、当時 蝦夷地 の 支配 を 画策 していた 水戸藩主 徳川
斉昭 の招きを受け、 水戸藩邸等に出入り して 斉昭に献策 し、 藤田東湖 らと 交流 を持った。
晩年は身体が衰弱し、隠密行動も不可能になったという。天保15年2月26日(1844年4月13日)、江戸深川
蛤町か本所外手町において没した。梅毒を死因とする説もある。アイヌ人女性との間に生まれた実子がおり、
子孫が現在でも北海道に在住しているが、家督は浅草の札差青柳家から養子に入った鉄二郎(孝順)が相続
した。
墓所は、東京都江東区の 本立院 及び、茨城県つくばみらい市上柳の 専称寺 にある。
1904年(明治37年)4月22日、贈 正五位 。 」
「 蝦夷地測量
伊能忠敬 が 間宮 に 測量の技術を教授 し、 間宮の測量の精度があがった という。忠敬 がスケジュールの都合上、
蝦夷地を測量できなかったとき、蝦夷地測量を間宮が代わりに測量して測量図を作った。その結果、 大日本
沿海輿地全図 の 蝦夷以北の地図 は最終的に 間宮の測量図 になった。 」
間宮林蔵 さんの 墓所である東京都江東区の 本立院 の境内には「 1955年(昭和30年)に、当時 総理大臣 であった
鳩山一郎 揮毫 による 記念碑『 間宮林蔵先生之塋域 』が建てられた。」とも記述されています。
紹介 その三、二番目を飛ばして三番目の「 ぞう 」さん:
「 三蔵 」の一人である 「 平山行蔵 」さん についての「ウィキペディア」の 解説 には 、次のような 記述 がなされています。
「 江戸幕府御家人 、平山勝籌( 甚五左衛門 )の子。行蔵 は 伊賀組同心 として 30俵2人扶持 の 微禄 でありながら、
四谷北伊賀町 ( 現新宿区三栄町 ) 稲荷横丁 の 自宅 に 道場 『 兵聖閣武道塾 』を構えていた。 」
「 行蔵 は 背丈が低かった にもかかわらず、3尺8寸( 約115cm )という 長い刀 を差していた。毎朝 起きると
7尺の棒を振ること500回、長さ4尺・幅3寸の居合刀を抜くこと200回 - 300回、読書をしながらケヤ
キの板を両拳で叩いて拳骨を鍛え、書に倦むと水風呂に入って惰気を払うといった生活で、61歳になるまでは
土間に寝、夜具を用いなかった。居間には長刀、木刀、長竹刀、槍など数十本に始まり、大砲、抱え筒、鉄砲、
鉄棒、薙刀などの武具、具足櫃、木箱が乱雑に詰め込まれ、庭は草ボウボウという有様だった。( 誰かが見てきたみたい!? )
扶持米を俵のまま玄関に起き、玄米をそのまま炊いて食べた。居間の押し入れに酒の入った4斗樽を据え付けて
冷や酒を呑むことは、晩年、中風のために起居が不自由になってもやめなかった。『 べらぼうめ 』が口癖で、
世の文弱な風潮に憤激しながら没したという。
事理一体観に基盤を置いた近世稀に見る ( 評価の根拠不明 ) 兵法家であり、総数2980巻、1085部の莫大な和漢の兵書名、
362種の戦地兵器類を収集していた。1828年(文政11年)12月14日没。享年70。四谷愛住町、
永昌寺に葬る。
行蔵の門人
門人のうち、別格筆頭が相馬大作事件の相馬大作(下斗米秀之進)である。このほか、吉里信武(呑敵斎、
呑敵流)、妻木弁之進、小田武右衛門、松村伊三郎を『 平山門の四天王 』という。 勝海舟の父、 勝小吉 が
行蔵 に学んでおり、『平子龍先生遺事』という著作がある。」
「 三蔵 」の中でも、並み外れた、奇人 、変人 だったようです。
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