と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

中国とトルコ ああああ、またまたビョーキが始まったらしい(^0^)

2018年06月05日 08時22分38秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

中国に行ってみたい。これって病気だなぁ。トルコに行ってからますますそう思うようになってしまったからである。

 

 

中国に行きたい。制覇してみたい。歴史上の中国の地を訪ねてみたい。

トルコに行ってからますますそう思うようになった。シルクロードのことがアタマから離れないからである。特に、匈奴という国があったから、ますますである。トルコ人の源流が匈奴にもあるのではないかという本を見たことがあるが、真偽はともかくさもありなんである。

蘭州という土地には、イスラム文化圏の影響もある。モスクがあるからだ。それをトルコに今回行ってみて知った。つまり逆である。トルコに行ってますます中国に関心が出てきた。

現代中国に興味があるのではない。今の中国には発展ぶりには驚いてきたが、興味なし。去年西安に行ったときにそう思った。

中国美人に関心があるからではない。美人は好きだが、そういう理由ではない。単純な動機である。行ってみたいというそれだけの理由である。

空海に興味関心があるからかも知れない。空海が唐時代に中国に渡ったのは学問に関心があったからだろう。ボキは、ダメだ。ボキは観光で行きたい。しかし、単独では行けない。つまり語学がダメであるから。

なにがそんなにボキを魅了するか。

それは、藝能というものが中国の影響を受けているからである。日本の藝能は、特異な発展をしてきたからである。雅楽もそうだろう。明らかに中国文化の影響がある。見ただけでわかるではないか。

だからナニを今さらであろうけれども、そこに興味があるのだ。興味があるから行ってみたいというだけである。直接見てみないと話にならないからである。

トルコという国も実際行ってみないとわからなかった。表面だけの理解かも知れないけど。イメージと実際の体験は違っているからである。

映像からだけでは危険である。そうは思うが、映像もまた大きな理解のための手段である。有効活用していくしかない。中国理解には良いと思っている。

それにしても、問題は語学である。使えない。まったくダメである。こいつがかなり気になることだけど。

ま、中国語ができなくても死ぬわけではない。使える人と一緒に行ってみればいいだけである。もっとも、そんな人いねぇか。

わははっはははっはははっははははっははっは。

 

今日も快晴である。

昨晩まで、ホームページ作成でちょっと苦労していた。これもまた趣味の分野である。今日は、またまたこいつでもって楽しい苦労をさせていただく。

一日、一日楽しい思いをして生きてまいります。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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Turkey Japan  friendship  親日国トルコとの絆

2018年06月01日 10時32分55秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

Turkey Japan  friendship  親日国トルコとの絆

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トルコ人85%が知っているクシモト

2018年06月01日 09時01分15秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

トルコ人85%が知っているクシモト

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日本トルコ 時を越える絆 ~エルトゥールル号が繋ぐ友好の物語~

2018年06月01日 08時50分30秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

日本トルコ 時を越える絆 ~エルトゥールル号が繋ぐ友好の物語~

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トルコに学んだことは数多いが

2018年06月01日 06時57分46秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

固定観念に縛られていると英語が嫌いだという国があることすら信じられないということになっちまう。縛られないこったなぁとシミジミ思う。

 

 

トルコ後遺症というのに罹ったようだ。文化的に歴史的にまったくイメージが違った。まさに西欧文明と東洋文明の交差点であった。そもそも中国4千年とよく自慢して言われることがあるが、その程度のレベルではなかった。人類史と言ってもよいレベルであった。1万数千年というレベルで歴史が語られていた。そもそもがアフリカが発祥であるからなぁ、人類は。遺跡もあるのだ。さすがである。延々と続いていた。歴史が。文明が。

それに本当に親日的なトルコであった。英語がそれほど盛んではなかった。これには一番驚いた。海外旅行では、ショッピングセンターやスーパーマーケットにも自分で志願して行くのだが、通じない。日本語の方が喜ばれる。ま、ボキの英語の実力も怪しいのだけれども(^0^)。

和歌山県串本町でのトルコ軍艦遭難事件が影響しているからである。串本町の方々が献身的に救済に当たったからだ。それ以来トルコの人々は日本に感謝しているのだ。しかも、それを学校教育で教えているのだ。85%はそのことを知っているという。

もっとある。トルコ史というのは、なかなか教えて貰っていないのだ。世界史の授業で、トルコ史を詳しく教えてもらった人はあまりいないのではないのか。一緒にツアーで行った方々もそう言っていた。大学受験でトルコ史は役に立たなかったと言われていた。某自動車メーカーでエンジン設計をやっていたのだそうだから、エリートなんだろう。非エリートであるボキですらそう思った。

だから知らないことが多すぎるのだ。もっとも、ボキはお粗末な学歴である。人に自慢することなんかできないし、やりもしない。

だいいち、学歴なんかクソの役にもたたない。学校でやったことよりも、世の中で勉強したことさせられたことの方がシミジミ身につく。

世間に出てから実に勉強になったということは限りなく多い。失敗すら勉強になったのだから、ありがたいものである。(_ _ )/ハンセイできるからだ。

反省ばかりしていてもアカン。反省から立ち直れず、グチグチ自分を責めていてもアカン。そんなもん、勉強になったと思ったらメモでもしておいて忘れてしまうに限る。問題は、いつまでもグチグチ文句を言っていることの方が影響大きい。まるで国会の野党のようじゃよん。

他人のことなんか気にしないことだ。どうせワルクチを言われても、他人は平気でメシを喰っているではないか。他人なんかボキのことをず~~~っと気にしているわけではないのじゃ。忘れられているんだから。

会いたくなければ会わなくてよろしい。どんなに大事な人間関係であっても、そんなもん滅びることだってあり得る。嫁姑であってもそうだ。気に入らないんだったらいつまでも気にしないこった。ましてや、出て行け、実家に帰れとまでいうならもう人間関係は破綻しているではないか。

会わないことである。旦那なんかそいつの母親に返してしまえばいい。親戚だから仲直りして、人間関係を大事にしていかなくちゃならないというのもあり得ない。そんなもん、アワナイのであるから会わないことだよん。そんなもんを気にしてメシもノドを通らないというのだったら、会わなくたっていいのじゃよ。

縛り付けられないこったよん。

英語のことが嫌いな国があったのだから。トルコがそうだったのだから。

固定観念に縛られていたこと、そういうことを徹底的に知ったことが大きかったですなぁ。

 

わははっはっっははっははははっはははっは。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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時差惚けがきついですなぁ~~~~~~~(^0^)

2018年05月31日 16時16分50秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

あああああああああああああああああ、眠いです。

 

 

時差惚けがきつい。

今朝は、起きたのが7時15分。思わず飛び起きて、アルバイトで行かしていただいている大学へ行くためにクルマに乗った。

前の晩から道具は用意してあったから良かったが、完全に時差惚けである。話にならん。

結果は間に合ったようなものの、いつも用意周到にしているボキとしては(ホントか?)、肝を冷やした。

授業は楽しくやってきた。学生さんもそう言ってくれた。トルコのことではない。そんなもん、一言も言っていない。時差惚けできついとちょっとだけ言ってしまったけど。そしたら、お土産は?と言われてしまった。悪い、その話はしないからと言ってオシマイ。楽しいのは、授業内容である。ありがたいものである。学生さん主体であるからだ。

しかし、油断大敵。

慎重居士としては油断があった。途中目が覚めて起きてしまったからである。ご丁寧に目覚まし時計をベッドの枕元に置いて、惰眠をむさぼっていた。

時差惚けがきついからだ。

だったら、海外旅行なんか行かなければ良いのにと言われそうだ。

ま、元気なうちに行ってみたいから行っているというだけである。

それに活性化される。ボキの腐った細胞がである。脳みそが活性化されるのを一番望んでいるのだが。それがなかなか難しい。

さらに今日はこれから学習塾に行く。こっちも楽しい。若い人との語らいというのが、身心の健康のために良い。

もっとある。通信制高校の非常勤講師も始める。こっちのレベルを知らないから、大学の帰りに電話してみた。ま、最初の5分で手応えがわかるから心配はしていないのであるが。

慎重だからである。慎重にしないと、授業にならない。

しかも、ボキはあまり授業をさせてもらえなかった。行政に出たし、管理畑を長年歩いてしまったからである。だからこそ、ボキは原点に返っているのである。教師としての喜びをおおいに味わっていきたいと思っているからである。

でないと死ぬに死ねないではないか。

引退即家庭に閉じこもりでは話にならないからである。そんな後半生は送りたくないからである。

朝から晩まで家人とにらめっこしていてなにが面白いのだろうか。

それより、好きなことをしながら東奔西走している方がずっといい。

身心の健康のためにも良い。

愛をもって他者に接し、明るい未来のみを思い、忍耐強く生きていきたい。いつもニコニコしながらである。なにが楽しいのだ?と聞かれてもよし。変なジジイだと言われても良し。

そもそもボキは、自分のことをボキと自称するほど、変なおじさん・・・じゃなくてジジイだからである。

 

わははっははっははっはははっはははっははは。

 

あああああ、それにしても眠たい。

ヾ(*´∀`*)ノ

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トルコ イスタンブール ベリーダンスショー(その3)

2018年05月30日 07時34分15秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

先刻記事にした踊り子さんではないけど。

場所は同じみたいだから、リンクしておきます。

 

 

トルコ イスタンブール ベリーダンスショー(その3)

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ベリーダンスには美しいけど哀切もあった

2018年05月30日 07時27分26秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

踊り子の表情に引きつけられてしまった。裏にある哀切がたまらなかった。良いものは良い。それだけのものはあったから。

 

 

まるで伊集院静の小説のようだった。「ツキコの月」を思い出した。もっとも、こちらはアルゼンチンタンゴである。ベリーダンスとは違う。アルゼンチンタンゴを直接見たことはない。だから推測なのであるが、そう思った。

なぜか。

踊り子の表情がなんとも寂しかったからである。一番目に登場してきた背の高いスリムな踊り子であった。小顔の踊り子であった。美貌なる女性であった。スタイルはいい。衣装もすばらしい。しかし、なんとも虚しい寂しさがある。

場所はイスタンブールであった。有名な劇場であった。踊り子も有名ダンサーが登場してきた。現地案内のトルコ人男性にそう聞いた。ブルガリアとギリシア人の踊り子という説明を受けた。

ワインを呑みながら見ていた。だから酔っていたのかもしれない。

それにしてもなぜ伊集院静なのか。「ツキコの月」なのか。

この作品は、月夜の光に照らされ、父と踊った情愛あふれるタンゴから始まる。主人公の賀集ツキコは父の言葉を胸に懍として生きてきた。そして、父の突然の死、唯一の肉親である弟眞一郎との強い絆、幾多の激しい恋、そして芝居との出会い。心血を注いだ舞台の世界。そういう小説である。

この小説の主人公である賀集ツキコと重なったからである。場所は違う。かたやブエノスアイレスである。こっちはイスタンブールである。

しかし、両方とも踊り子であることには違いがない。

思い込みもあるだろう。ボキの方に。それでも、その美しい動きに同じ感性があるのではないかと感じていた。寂しい曲ではなかった。むしろ激しい曲なのであろう。

踊り子に引きつけられたのかもしれない。それほど美しかった。彼女の表情に哀切を感じていた。

元々、ボキは北欧系や露西亜系の女性が美しいと思ってきた。露西亜文学に興味を持っていた。学部時代は、ドストエフスキーにはまっていた。苦しい苦学生活のかたわら、ドストエフスキーを読んでいた。苦しいからこそ、救済の叫びとして露西亜文学にのめり込んだ。

ベリーダンスというと、たいていは男性の興味本位のダンスだろうと言われる。セクシーだからであろう。動きが。

でも、ボキはこの程度ならちっともセクシーだとは感じなかった。卑猥さがまったくない。日本の温泉街にある卑猥さを売りにしている場所の踊り子とはまったく違う。そもそも比較する方が失礼だ。

悲哀を表情に隠している踊り子の方が、いろいろと考えさせてくれる。

美しいものは美しいのである。

 

アルゼンチンにも行ってみたくなった。スペインでもいい。またボキの風の旅が始まってしまう。さ、バイトしてせっせとゼニをためなくちゃ。

 

今日は千葉市に出かける。夕方から宴会がある。こっちは昔の仲間たちと一緒である。めったにない飲み会である。来ないか?と言われたから仕方なく行く(ホントか?)。

楽しみである。

ヾ(*´∀`*)ノ

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映画「海難1890」田中光敏監督インタビュー<ノーカット版>※予告編付き

2018年05月29日 09時31分19秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

映画「海難1890」田中光敏監督インタビュー<ノーカット版>※予告編付き

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海難1890 ダイジェスト特別映像PART2

2018年05月29日 09時23分01秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

この映画が、トルコと日本の関係を物語っている。

帰りのトルコ航空の飛行機の中で初めて見た。しかも二回。

CAに設定してもらってやっと見ることができたけど。

 

 

海難1890 ダイジェスト特別映像PART2

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知らないことのみ多かりし。トルコはまだまだ未知の国だったのじゃ。団塊の働き蜂たちにはちょっとアレだったけど。

2018年05月29日 08時32分47秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

旅に出ても「元***」とか、現役時代のことしか言わない団塊世代のジジイたちに、ゲンナリしてきましたっすよん(^0^)

 

 

9日間にわたるトルコの旅から昨日の夜帰ってきた。

九十九里は成田空港から近いから、一時間ほどクルマでかかるだけである。青森とか長野とか遠来から来られた旅人もいた。それに比べればなんということはない。しかも、自分のクルマである。

旅と言ってもツアーである。要するに団体旅行。

それに、トルコは英語圏ではない。イラン・イラクから石油をタダで盗み取っているという意識があって、特にアメリカに対する反感はただものではない。英語を話すのを嫌っているのである。トルコ語は難しいし、とてもではないが一人旅なんかできやしない。

今回も家人と一緒である。旅行代もなんも家人がいなかったら、ボキはどこにも行けないのじゃ(^0^)。

ただくっついているだけのダメジジイである。

今回も中高年の団体旅行である。17名の。その中でいろんな夫婦がいて面白かった。32回目の海外旅行だと言われる大工さんを引退したご夫婦や、まだ威張り散らしているだけの元国家公務員、某一流自動車メーカーでエンジン設計をしていた旦那を持つご夫婦、経営コンサルタントのご夫婦等々であった。男性陣は面白い。みんな仕事の話しかしないからである。

ボキは最後の晩まで黙っていた。仕事の話なんかしても無意味であるからだ。柔道の話はしていたけれども。

それにしても、なんてぇこった。リタイアしてからも、こだわっているのだから。

旅に出た時くらい、ミンナ忘れて良いではないか。ボキはホントウにそう思っているのだ。

 

旅の間はkindleにお世話になっていた。コーランをインストールしてあったし、いろんな本を読んでいた。

ともかくトルコ史というのを詳細に教わった記憶がないからである。ヨーロッパ中心の世界史であった。大学受験に必要のない分野がトルコ史ではなかったのか。そりゃオスマントルコとかビサンチンとかは単語としては知っている。でも、あまり積極的には学ばなかった。

今回、トルコ人がなぜ親日なのかもよ~~~く分かった。和歌山県の串本町に行ったことがあるが、あのときに知った。トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難の事件である。

串本町の観光協会公式ホームページによると以下のようになっている。

>http://www.kankou-kushimoto.jp/miryoku/torukokinenkan.html



明治22年オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン・パシャ特派大使海軍少将を特派使節として日本に派遣した。巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて650余名であった。翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。
明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。やがて、山のような怒濤に揉まれ揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、かかる絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。
地元住民の献身的な救助活動にも、オスマン・パシャ特派大使海軍少将以下580余名が遭難、69名が救助された。かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。

 

トルコとの友好関係
後年になって、現在の慰霊碑が建立され、トルコと串本町の友好の印として記念館が近年建設されました。長年に渡り、地元の老人や旧樫野小学校の生徒達の手で慰霊碑は通年、清掃されており、島内の小学校3校が統合された今も、大島小学校の生徒達や地元の人達により、いつも綺麗に手入れされています。
また、節目の年には、トルコ本国からトルコ海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使などを招いて慰霊祭が催されます。

 


 

これである。

これ。

以来、トルコは親日国となったのである。

英語なんかより、日本語でお礼を言った方が喜ぶと現地ガイド氏にも聞いたから試してみたらまったくその通りであった。ボキの片言の英語なんかより、そのものずばりで日本語で通じるのじゃよ。これは面白かった。文化が違うと固定観念で凝り固まっているボキのつまらない知識も変革されていくというものだ。(*_*) マイッタ。

 

今回の旅も記憶に残る旅だった。

行って見なくちゃわからんことばかりである。

それに、リタイアしてからの様々な生き方にも触れることができた。元***とかしか言わないジジイ達のみっともなさも実感してきた。

改めるべきことは、改めよということである。

もっともボキは、3種類のアルバイトをやっている。過去を振り返るヒマもなし。

 

わははっはははっはははっはははっははははっははははっは。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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飛んでイスタンブール全体チャートです お笑いくださいませ 22:09帰ってきましたので

2018年05月28日 22時09分59秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

ターキッシュエアラインズ・ビジネスクラス利用 優雅なトルコ9日間(^0^)

 

5月20日(日)21:25 成田発 TK0053便 第一ターミナル TKはターキッシュエアラインズ 

5月21日(月)

03:35着 イスタンブール(所要時間12時間10分)

07:00発 イスタンブール

08:10着 イズミール着(所要時間70分)

〇イズミル(İzmir)は、エーゲ海に面するトルコ西部の都市。古くはスミュルナ(Smyrna, スミルナとも。ギリシア語でΣμυρνη)と呼ばれた。人口は約400万人(2012年時点)で、イスタンブールやアンカラに次ぐトルコ第3の都市である。イズミル県の県都。

 

 

〇エフェソスへ バスで イズミールより100㎞ 80分

クレオパトラの虜になり、破滅に突き進んでしまうローマの権力者アントニウス。シェイクスピアの悲劇の題材にもなった二人が、束の間の平穏を過ごした地ともいわれるエフェソス。トルコ西部のエーゲ海沿岸に紀元前11世紀頃、イオニア人が建設したこの港湾都市は貿易により発展。ローマ支配下後はアジア州の州都として大いに栄えた古代都市の遺跡が、2015年に世界遺産に登録されました。

 

なかでも群を抜く美しさを誇るのがセルシウス図書館の遺構。壁には知識などを象徴する4体の像(レプリカ)が立ち、柱、梁は細部にまで精緻な装飾が施され、117年の完成当時はさぞ壮麗であったと思われます。かつては1万冊を超える蔵書を誇り、アレキサンドリア、ペルガモンと肩を並べる図書館でした。保存状態の良い大劇場は2万5000人が収容可能という圧巻のスケール。丘を背にしたすり鉢状の構造は音響効果に優れ、今もオペラやコンサートなどが催されるといいます。大劇場からかつての港へ延びるのは幅11mの通り。クレオパトラとアントニウスもここを歩いたのでしょうか。

 

「万物は流転する」と説いた古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスが生まれ、七不思議と称えられた豊穣の女神を祀るアルテミス神殿が建造され、使徒パウロがキリスト教を伝道し、聖母マリアが使徒ヨハネとともに余生を送ったと伝わるエフェソス。まるで古代の歴史絵巻を見ているかのように、時間旅行が楽しめる世界遺産です。

 

トルコ、エフェソスのセルシウス図書館(Library of Celsus in Ephesus)です。

エフェソスは紀元前20世紀頃から始まった集落に、紀元前11世紀頃からギリシャからの移民が増えてできた都市です。古代世界の七不思議の一つに数えられるアルティメス神殿が建設され、この地域のみならず多くの参拝者が集まる街として発展しました。紀元前6世紀頃から貿易・商業都市として大きく発展して、イオニア12都市の一つに数えられていました。

トルコのセルチュク市に現在残っているエフェソス遺跡は紀元前2世紀以後にローマによって建てられたものが中心です。代表的な遺跡がセルシウス(セルジュゥス、セルスス、ケルスス:言語によって発音が異なる)図書館です。この建物は110年代から建設が始まり、135年に完成しています。この地方(ローマ帝国アジア州)の総督をつとめたセルシウスの功績を称えてその子供が墓所をおおう建物として建立したとのことです。

建物は視覚の錯覚効果(錯視)を用いて大きく見えるように作られています。両端や二階の柱を少し細くして遠近効果を出して広く高く感じさせています。

図書館はその建物の中に177年に開設されました。12,000冊の蔵書を誇り、当時アレクサンドリア(アレクサンドレイア)、ペルガモン(ベルガマ)の図書館と並んで世界の三大図書館と評されていたそうです。

262年の地震とそれに伴う火災で建物と蔵書の大半が崩壊消失し、この画像のファサード部分だけが残ったそうです。ゴート族によって破壊され焼かれたと言う説もあるようですが、ゴート族が襲ってきた時期に発生した地震と火災によるということらしいです。あるいは火災はゴート族による放火かもしれません。その後10世紀ビザンチン時代の地震でさらに崩壊してしまいました。遺跡発掘後1960~70年代に大規模な修復が行われて現在の姿になっています。

画像左側がセルシウス図書館で右側の二つのアーチはマゼウスとミトリダテスの門で、その外側はアゴラと呼ばれる商業市場・市民広場が広がっています。

 

約2万5000人が収容可能な圧巻のスケールを感じる半円状の大劇場

 

ハドリアヌス神殿の正面の装飾には女神ティケ、奥の門にはメデューサの彫刻

 

 

イエスの母マリアも使徒ヨハネとともにエフェソスで余生を送ったと伝えられる。またアンティオキアのイグナティオスにも、エフェソス教会に宛てた書簡が残っている。『聖母マリアの家』には、バチカンからの代表者が毎年参拝するほか、歴代のローマ教皇も訪問している(1967年パウロ6世、1979年ヨハネ・パウロ2世、2006年ベネディクト16世)。

(フリー百科事典:ウィキペディア (Wikipedia)」より引用)

エフェソス(ラテン文字表記:Ephesos/Ephesus)は、トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置している。現在はトルコ語で(Efes)とも呼ばれる。アルテミス崇拝で知られたギリシア人都市である。現在は遺跡が残っているのみである。もとは港湾都市であったが、土砂の堆積により現在は海岸から離れている。

現在のエフェソスは、トルコの小村アヤソルクの一部である。世界最大級の大規模な古代都市遺跡の他に、アルテミス神殿の遺跡、イエスの母マリアが晩年を過ごしたといわれる地に建てられた礼拝堂『聖母マリアの家』、聖ヨハネ教会、考古学博物館などがあり、トルコの重要な観光地の1つになっている。世界遺産には登録されていない。

(フリー百科事典:ウィキペディア (Wikipedia)」より引用)

 

19:00 バムッカレ着(エフェソスから200㎞3時間)

ホテル ドーアサマールヘルスアンドスパ

 

5月22日(火)

世界遺産バムッカレ観光 80分 バムッカレの石灰棚・ヒエラポリス遺跡

 

山の上から湧いている天然温泉が下の平原に流れ込む間に冷却され、含んでいる炭酸カルシュウムを残し、まるで水の流れのような形をしている石灰の台地が作られました。この温泉が、動脈硬化、カルシュウム不足、皮膚病などさまざまな病気に効くと言われています。美容にも良いとされ多くの女性からも人気の温泉です。ヨーロッパの温泉への考え方が違います。日本は宴会を思い浮かべますが、こちらでは温泉療法でドイツなどは健康保険が使えると聞きました。日本は裸ですがこちらは水着(水着なので混浴)です。

すぐ傍ににはヘレニズム時代から出来ているヒエラポリスの町跡が残っています。ヒエラポリスはシルクロードの隊商ルートで紀元前200年頃起きて、紀元前17年の第地震で廃墟と化し、2〜3世紀ローマ都市として復活した。その後1354年の大地震で廃墟となりました。この中で劇場は近年イタリア調査団の手で修復されこの小アジア一帯では1番原型を留めている建物として有名です。

 

 

 

 

 

 

観光後バス移動 コンヤへ(440㎞ 6時間30分)

途中バラ園も立ち寄り

昼食はコンヤでトルコ風ピザ

 

〇コンヤへ 13:30着

トルコ内陸アナトリア地方の主要都市のひとつ。コンヤ県の県都で、2016年の人口は約122万人で、人口規模ではトルコ第6の都市である。パウロがキリスト教の布教に訪れたことで知られる都市イコニウム (Iconium) の後身で、西欧諸言語における伝統的な表記はConiaあるいはKonia(コニア)である。2006年にコンヤ貿易センターに42階建てのセルジュークタワーが建設された。2011年にはトルコ高速鉄道のアンカラ・コンヤ高速線の開業により、首都アンカラまで従来の鉄道では10時間以上掛かっていた所要時間が1時間30分に短縮された。将来は1時間15分で結ばれる計画となっている。自動車では両都市間はおよそ3時間で結ばれている。

 

歴史

フリギア、リディアの時代から存在する都市で、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王の征服を経てセレウコス朝シリアの支配を受け、ギリシャ語ではイコニオン (Iconion) と呼ばれた。ペルガモン王国の後にローマ帝国に組み込まれ、初期キリスト教の舞台のひとつとなった。パウロは弟1次伝道旅行の際、バルナバを伴って訪れた。その後何度か訪問した。かなりの人がキリスト教に改宗したが、ユダヤ人の激しい迫害があった。パウロ書簡の一つガラテヤ人への手紙は、この地域を含む南ガラテヤ諸教会にあてたという説がある(南ガラテヤ説)。その後も東ローマ帝国のもとでキリスト教都市として栄えるが、マラズギルトの戦いの後、アナトリアに侵入してきたトルコ人ムスリム(イスラム教徒)の侵攻にさらされ、1076年にセルジューク朝の王族スライマーンによって征服された。まもなく、スライマーンの建設したルーム・セルジューク朝が第1回十字軍によってニカイアを奪還された後、コンヤがかわって首都となるが、1097年にゴドフロワ・ド・ブイヨン、1190年にはフリードリヒ1世によって一時的に占領された。

13世紀に入ると、ルーム・セルジューク朝は最盛期を迎え、東はアルメニアから南北は地中海、黒海両岸に至るまでのアナトリアを征服し、対岸のクリミア半島にまで勢力を延ばすに至り、コンヤはその中心として繁栄を極めた。1237年のカイクバード1世の死後、モンゴル帝国の侵攻を受けて衰退に向かったルーム・セルジューク朝が14世紀の初頭に断絶すると、かわってコンヤの南のカラマンに興ったカラマン君侯国の支配下に入り、その首都となる。14世紀末にオスマン帝国のバヤズィト1世により征服されるがアンカラの戦いの後再びカラマン領となり、1466年に至ってカラマン君侯国がメフメト2世に征服されると、メフメトがアナトリア中部に建設したカラマン州の州都となった。

この間、1228年には中央アジアのバルフ(現在のアフガニスタン北部)に生まれたイスラム神秘主義者、ルーミー(メヴラーナ)がカイクバード1世の招請によってコンヤに定住、1273年に亡くなるまでコンヤで活動し、トルコを代表する神秘主義教団であるメヴレヴィー教団を開いた。コンヤにあるルーミーの墓廟はオスマン帝国期にはメヴレヴィー教団の道場に使われていたが、1927年にケマル・アタテュルク政権によって神秘主義教団が解散され、ルーミー廟は閉鎖された。廟は現在はメヴラーナ博物館として一般公開されており、宗教性を薄められた今もなおコンヤを代表する建造物である。この他、コンヤにはカイクバード1世の建立したアラエッディン・モスクやセリム2世のセリミエ・モスクなど多くのモスクがあり、アナトリア随一の宗教都市として繁栄したかつての姿を現在に伝えている。

 

 

 

ホテル デデマン

 

 

 

5月23日(水)

8:00発 バスでカッパドキアへ 220㎞3時間30分

コンヤ校外

 

スルタンハヌ

 

 

アナトリア伝統料理テスティケバブ

カッパドキア地方の名物郷土料理は「壷ケバブ(ポトリーケバブ・テスティケバブ)」と、羊肉と野菜の鉄板焼きの「サチ・タワ」が有名。

壷ケバブは素焼きの壷に肉類や野菜を入れ、オーブンで焼いたもの

 

   

 

14:00着 カッパドキア

 

カッパドキアという呼称の最初の記録は、紀元前6世紀後半に遡る。そこでは、2人のアケメネス朝初期の王ダレイオス1世とクセルクセス1世について3言語で書かれた碑文に、ペルシア帝国を構成する一地方(古代ペルシア語でdahyu-「州」)として現れている。地方についてのこれらの一覧の中で、古代ペルシア語での名称はKatpatukaであるが、ペルシア固有の言葉でないことは明らかである。エラム語とアッカド語版の碑文も、類似の名称を含んでいる。ヘロドトスは、カッパドキア人という名称はペルシア人(しかるに、彼らはギリシア人によって「シリア人」「白いシリア人」(Leucosyri)と呼ばれた)によって用いられたと伝えている。 彼が言及したカッパドキアの部族の一つはw:en:Moschoiであり、彼らはフラウィウス・ヨセフスによって、旧約聖書の人物でヤペテの息子w:en:Meshech に結びつけられた。「そして、Mosocheni 人は Mosochによって興され、今や彼らはカッパドキア人である。」『古代ユダヤ史』 I:6。『ミシュナー』のw:en:Ketubot 13:11も参照。

ペルシア帝国後期の皇帝の支配のもとで、彼らは2つのサトラペイア、すなわち行政区に分割された。中央と内陸の部分を含む一方に対して、ギリシアの地理学者によってカッパドキアの名前が使われ続け、そして他方はポントスと呼ばれた。この分割はクセノフォンの時代以前に既になされていた。 ペルシア帝国滅亡後も2つの州は分離され続けたので、両者の区別は恒久化された。カッパドキアは内陸の州(時に大カッパドキアと呼ばれる)に限定された。

カッパドキア王国はストラボンの時代すなわち紀元前1世紀にはまだ名目上は独立国として存在していた。 キリキアはその国全体の首都であるカエサレア・マザカ(現在のカイセリ)が位置する地域に与えられた名前である。ストラボンは、カッパドキアの中で2つの都市のみが名を挙げるにあたいすると考えた。それは カエサレア(元はマザカとして知られた)とテュアナw:en:Tyanaで、タウルス山脈の麓から遠くない位置にあった。

 

〇地下都市カイマクル

トルコ中央部、カッパドキア地方にある町。深さ約20メートル、地下8階の地下都市跡がある。内部には教会、学校、厨房、食料貯蔵庫などがつくられ、アラブ人の迫害から逃れた約5000人のキリスト教徒が暮らしていたと考えられている。 (引用:kotobank.jp)内部には教会、学校、ワイナリー、食料貯蔵庫などが作られ、約2万人が暮らしたと考えられている。 各階層は階段や傾斜した通路でつながれている。 カイマクルと隣のデリンクユの地底都市の間には地下通路が確認されている。 ローマ帝国の迫害を逃れてこの地に辿り着いた初期キリスト教徒たちが隠れ住み、何世紀もかかって掘り進められて拡張されてきたが、作られた年代は謎に包まれている。紀元前から存在し、ヒッタイトによって作られたと考えられている。

地下都市には約2万人ものキリスト教徒が迫害を逃れて隠れ住んでいてこのカイマクルだけでも4,000人以上の人が、多い時には8000人ほどもの人々が暮らしていたとされています。カイマクル地下都市は地下8階(深さは55m)ですが、見学できるのは地下4階部分まで。

   

〇三姉妹の岩

 

〇駱駝岩

 

駱駝岩デヴレントに見えますか?

この様な形に成るのは長年の火山活動の堆積の課程で、柔らかい岩の上に硬い岩が堆積した為で、長年の風雨の浸食の為柔らかい周りの岩が無くなり10mから20mのキノコ岩に成ります。頭の部分は硬い玄武岩で出来ています。

 

〇ホテル カッパドキア ケーブ リゾート アンド スパ

 

 

 

朝、夕の眺めは、本当に素晴らしい

部屋は、色んなタイプがあり、同じ部屋はなかったと思います

宿泊した部屋は、窓がなくちょっと蒸し暑かったです

ウチヒサル砦麓にあるので、皆一斉に風呂に入ろうとすると、お湯がでません

私が宿泊した部屋は、バスタブにお湯を入れようとしたら、部屋中お湯が飛び散りました。

部屋からすぐテラスに出られるので、眺めも、早朝のバルーンも綺麗に見れました

バルーンは、ホテルのすぐ横を通ります。

自然の洞窟を利用していますが、そこは5つ星ホテルということで、設備も良く、調度品もおしゃれ。テーブルにはウエルカムフルーツが置かれ、クローゼットにはバスローブが部屋用とスパ用の二着用意されています。

標高1000mを超えるカッパドキアは、朝晩はけっこう冷えることもありますが、部屋とバスルームには床暖房が完備されているので寒がりの人でも大丈夫。

趣向が凝らされた部屋は見るだけでも楽しいので、何人かのグループで訪れたら、ぜひ他の部屋も見学してみてください。

 

5月24日(木)

バスでカッパドキア観光

〇ギョレメ野外博物館

 

ビザンチン文化が興り栄えたトルコには、キリスト教の石窟寺院が数多く残り、内部には目の覚めるような色とりどりのフレスコ画の壁面を宿しています。

その中でも別格のギョレメ野外博物館では、中世のキリスト教修道士たちが岩を刻み、彫って作った教会が無数に公開されています。史跡内を歩き、1000 年の時を超えて心を引き付けるフレスコ画を描いた東ローマ帝国の人々たちについて学びましょう。ギョレメ国立公園は、驚異の景観、多様な魅力に満ちた地形、信仰で岩を彫りぬいた礼拝堂の数々でユネスコ世界遺産に選ばれ、カッパドキア地域屈指の名所となっています。着いたその足で野外博物館のグループツアーを予約しておきましょう。大地のあちこちからにょきにょきと突き出る奇岩群。そこに築かれた石窟教会は何とも神秘的です。フレスコ画の保存状態が特に良く、この博物館一の見どころであるカラニキリセ (暗がりの教会) のほか、食堂やキッチンなども含め、7 階にもわたって岩をくりぬいた修道院もあります。敷地内には異様な洞窟が点在しており、迫力ある写真題材には事欠かないため、カメラの心得がある人は腕の見せどころです。この石窟群とここに住んだ修道僧たちの魅惑的な歴史をひもといていくのもお忘れなく。絵画が罪深い偶像だと教えられた牧童たちの手で、盛んにこのフレスコ画が破壊された時期もありましたが、教会が築かれた 10 世紀から今日まで長い歴史を生き残り、手つかずで残った壁画も多数あります。聖書の逸話から聖者の竜退治といった荒唐無稽な物語まで、多岐にわたる題材をお楽しみください。

ツアーの最後にはトカリ教会にも立ち寄りましょう。見学料はツアーチケットに含まれており、博物館とギョレメの町の間にある丘のふもとから地下礼拝堂に潜り、フレスコ画の物語をたどることができます。

昼下がりの太陽は苛烈のため、必ず水をたっぷりご持参ください。朝か夕方近くになると、大分暑さをしのぎやすくなります。この博物館は毎日朝から夜早めの時間までごく少額の入場料で見学者を受け入れており、カラニキラセの見学には追加料金が必要となります。

ギョレメ野外博物館はカッパドキア地方の中心部にあり、ギョレメの街から 1.6 km (1 マイル) の近さです。古くから開けていた地区の周りはホテルやレストランがたくさんあります。

 

〇暗闇の教会

 

壁画が最もよく残っているとされる「暗闇教会」です。ものすごく小さな場所なのに、三王礼拝やゴルゴタの丘など、キリストの生涯の主要な場面や、福音書記者、大天使…と勢ぞろい。キリスト教の主要な図像がをいっぺんにこれだけ見れるのって、久し振りでした。

 

〇トカル・キセリ

 

ギョレメ博物館の正面にトカル・キセリという教会がある。

ここは博物館とチケットは共通。ここのフレスコ画も綺麗に残っている。 

 

〇パシャバー

 

 

パシャバー (奇岩)

4 世紀、奇跡の人が妖精の煙突のなかに住居をつくりました。それは今、幻想的な地形とぶどう畑に囲まれた修道院となっています。パシャバーは、妖精の煙突と呼ばれる奇岩で、ぶどう畑の中に巨大なキノコのように突き出しています。こうした珍しい奇岩を見るだけでも、この地を訪れる価値はあります。まるで火星に来たかのような光景ですから。そして魅惑的な歴史とぶどう畑が、奇岩観光をにさらに興味深いものとしてくれます。ガイド付きのツアーに参加してこの幻想的な奇岩群を訪ね、妖精の煙突のなかに隠れ住んだ、奇跡の人について学びましょう。

4 世紀、後に隠修士となった聖シメオンは、異教徒たちに見つからないよう、奇跡を起こして妖精の煙突に姿を隠しました。ピラミッド形の奇岩のなかにつくられた、聖シメオンの隠れ家を訪ねませんか。驚異的な洞窟の内部を見学。そして岩の頂上にも登ってみましょう。聖シメオンの隠遁生活を想像し、見渡す限りのパシャバーの奇岩群やふどう畑を眺めてください。パシャバー周辺には、高い位置から景観が楽しめる見晴台が数多くあります。主要な観光コースを歩いて崖に登れば、息を呑む絶景が待っています。足下に広がる変化に富んだ地形を、撮影してください。ここで見る日の出と日没時の光景は格別の美しさ。暗い影と温かい色彩がもっとも際立つ時間帯なのです。谷間にある土産物ショップで、パシャバーの思い出の品を買い求める際には、値段交渉を。飲み物やスナック類の店もあります。何時間もあちこち歩き回り、奇岩に設置された階段を登って過ごした後は、カフェでホットワインやフルーツジュースを飲みながらひと休みしてください。突き出た岩とそれをとり巻くぶどう畑にちなんで、この地域には「将軍のぶどう畑」という意味の地名が付いています。また、何世紀も前にカッパドキア地方に隠棲したキリスト教修道士たちを偲んで、「僧侶の谷」とも呼ばれています。パシャバーは、ギョレメから北に 4.8 km (3 マイル) のところにあります。ゼルベに向かう道のりの途中です。ここはカッパドキアのバス ツアーでは、定番の目的地のひとつ。

〇ウチヒサール

ウチヒサールはカッパドキアのなかでも

奇岩群の中心地のいちばん高い所にある村で、岩山にたくさんの穴が開いているヒッタイト時代からの要塞がシンボルです。

 

 

昼食

レストラン「エライ」

 

カッパドキアでも人気のお店です。

雰囲気のある店内でトルコの郷土料理を堪能できます。

 

 

〇ホテル連泊

 

5月25日(金)

アンカラへ(300㎞ 4時間 バス)

昼食は魚料理

 

午後からアンカラ観光

アンカラは、トルコ共和国の首都。人口約442万人(2013年)を抱え、イスタンブールに次ぐ同国第2の都市でありアンカラ県の県都でもある。アナトリア半島中央部に位置する。中東・西アジア有数の世界都市で、トルコの政治の中心地。

都市の主要部分はウルス (Ulus) と呼ばれるオスマン帝国時代以前からの歴史的旧市街と、1920年代以降にトルコ共和国政府によってその南にイェニシェヒル (Yenişehir) という名で計画的に建設された新市街、およびその郊外地区からなり、政府の施設はイェニシェヒルに集中している。市街は政府の計画に沿って建設が進められたが、郊外地区は第二次世界大戦後の経済発展の都市集中に伴ってアンカラに流入してきた人々が建てたゲジェコンドゥと呼ばれる不法占拠住宅によって無秩序かつ急速に拡大した部分も大きい。1980年代以降は地下鉄など交通網の整備が進められた郊外に大規模な団地、ニュータウンが建設され、都市の膨張は進展しつづけている。

古代ヒッタイト時代から人類が居住していた跡が残っているが、フリュギア時代に規模が拡大したアンキュラ (Ancyra) と呼ばれた都市が、現在のアンカラ旧市街の始まりである。

 

アンキュラは紀元前189年、ローマ帝国に占領されてアンゴラ (Angora) の名で知られるようになる。ローマ人は、アンゴラをローマ都市として整備するため、大劇場、大浴場、アウグストゥスを祀る神殿、ユリアヌスの来訪を記念する円柱などを建てた。それらは、アンカラとなった現在も遺跡として残っている。東ローマ帝国のもとでキリスト教が広まり、現在も残る城塞が築かれた。またテマ(軍管区)・オプティマトンの首府となるなど、アナトリア中部における帝国の地方行政・軍事の拠点都市となった。

このため度々イスラーム勢力の侵攻を受け、806年にはアッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ=ラシードが自ら軍を率いてアンゴラを包囲するということも起こっている。アンゴラは、1073年にムスリム(イスラム教徒)のセルジューク朝によって占領され、トルコ人によってアンカラと呼ばれるようになった。

1101年には1101年の十字軍としてやってきたトゥールーズ伯レーモン4世がアンカラを占領している。セルジューク朝がレーモン4世の軍を撃退した後、アンカラはセルジューク系のアミールであるダーニシュマンド家の政権やルーム・セルジューク朝、さらにはモンゴル政権であるイルハン朝の支配を受けた。

アンカラは1356年にオスマン朝のオルハンによって占領され(ムラト1世の時代という説もある)、以降はオスマン帝国領となるが、1402年にはこの町の近郊でオスマン朝のバヤズィト1世が中央アジアから来攻したティムールに敗れ、オスマン朝は10年間に及ぶ分裂期を迎えた(アンカラの戦い)。

オスマン帝国時代のアンカラはアナドル州に属するアンカラ県の県都であったが、17世紀初頭にアナトリアで発生した大規模反乱であるジェラーリーの反乱(英語版)の際には反乱側に落ち、その中心地となった。また、オスマン帝国時代には特産であるアンゴラヤギの毛を用いたモヘヤ生産の発展もみられたが、19世紀に入るとイギリスがアンゴラヤギの飼育に成功したこともあり、市場での独占性が薄れ毛織物工業は衰退に向かった。

1864年には行政区画の改変によりアンカラ州の州都となり、1892年にはアナトリア鉄道(英語版)(CFOA、トランス・アナトリア鉄道(英語版))が開通してイスタンブールやエスキシェヒルと結ばれたが、全体としてはアンカラは地方の小都市であり、20世紀初頭の1919年においても人口は2万5000人ほど。

第一次世界大戦終結後、戦勝国によりオスマン帝国の分割が進められ、さらにギリシャによってアナトリア西南部が占領されると、アンカラにも英仏軍が進駐してきたが、1920年にこれに反対して決起したトルコ人たちの抵抗政権がアンカラに樹立され、ムスタファ・ケマルがその指導者となってギリシャ軍をアナトリアから撤退させることに成功した。

さらにアンカラ政府は1922年、イスタンブールにあったオスマン帝国のスルタンを廃してトルコ国家の単独政府を宣言し、1923年に共和制を宣言してアンカラを首都とするトルコ共和国が樹立された。

1923年にアンカラを首都と定める法律が大国民議会で可決され、首都となったアンカラは官僚の移住などにより急速に人口が増大した。これにより旧市街ウルスが手狭になったため、1924年には新市街(イェニシェヒル)の建設計画が定められた。

1928年にはアンカラ市全体を対象とする都市計画(マスタープラン)の国際コンペが開かれ、ドイツ人ヘルマン・ヤンセン (都市計画家)が主席を獲得した。

1932年から始まった都市整備はこのヤンセンの案に基づくもので、新市街の建設や大火で焼けたウルスの再開発などが行われた。さらに経済発展に伴う都市への人口集中により人口は膨張の一途を辿った結果、旧都イスタンブールに次ぐトルコ第2の都市に成長した。

 

〇アナトリア文明博物館

入り口付近にあるレリーフ

 

地母神の座像

チュタルホユック出土の地母神の座像。この地母神の座像が有名らしくガイドブックにも掲載されているのでチェックしました。洋の東西を問わず古代の女性は豊穣の象徴だったようだ。

王の門の戦士の像

 

 

ヒッタイト王国に関するものが多く収められている。他、アナトリアに発祥した文明の歴史を辿ることができる。旧石器時代に始まり、銅石器時代、アッシリア植民地時代と、時代ごとの部屋に分けられている。

トルコ中央部に位置するアナトリア地方の文明、特にヒッタイト時代の遺物を中心とした収蔵物で世界的に知られる博物館。

博物館として使用されている建物はもともと隊商宿として建てられたもの。旧石器時代からヒッタイト、ギリシア、ローマ、ビザンチン時代の収蔵品が回廊にそって見学できる。館

ヒッタイト帝国は紀元前2000年頃にアナトリアに移住したインド・ヨーロッパ語系の民族が築いた帝国で、人類史上最初に鉄器の使用と優れた騎馬技術で大帝国を築くが、紀元前12世紀頃に侵入した海洋民族によって滅ぼされたとされている。

都をハットウシャシュに置いていたが、帝国滅亡後、一部のヒッタイト人はその後も小国(新ヒッタイト)を築いていた。紀元前717年に新アッシリアによってケルケミシュを奪われ滅亡した。

入り口を入ってから旧石器時代、チュタルホユックから出土した紀元前7000年から紀元前5500年の間の新石器時代の展示品が続いている。チュタルホユックの家屋の復元は興味深い。

篠原千絵さん著のコミック「天は赤い河のほとり」を読み、古代アナトリア文明に興味を持っていた私としては、今回の旅行の訪問先からヒッタイト帝国の都であるハットウシャシュを外すに当たって、このアナトリア文明博物館で、ハットウシャシュからの出土品が多数展示されていて見学できることが決め手となっていた。

左右のスタンダードは、「天は赤い河のほとり」に小物として使われていたりするので、愛読者としてはもう垂涎の作品。

ハットウシャシュの王の門にあった戦士の像の本物がこのアナトリア文明博物館にあるのをガイドブックで確認した。右の王の門の戦士の像は見られましたから、その点では満足している

 

 

〇トルコ共和国建国の父

ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk、1881年5月19日[注釈 3] - 1938年11月10日)は、オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導したことで知られる。

 

〇アタテュルク霊廟

 

アタテュルク廟(アタテュルクびょう)とは、トルコ共和国の首都アンカラにある、初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの霊廟の事である。トルコではアヌトゥカビル(Anıtkabir)と呼ばれる。アンカラ市街南東の丘の上に位置し、廟が建設される以前はラサットテペ[注 1][1]と呼ばれ、紀元前8世紀頃のフリギア人の古墳があった。この古墳は廟が建設される際に発掘調査されたのち取り壊された。

 

1938年のケマルの死と同時に、この丘に巨大な廟の建設計画が持ち上がった。同時に葬儀計画も進行し、これを一晩で完成させたのはドイツ人建築家・ブルーノ・タウトだった。ケマルとタウトは互いに尊敬しあっており、アンカラ市からタウトに金品の申し出があった際も、タウトは「申し訳ありませんが、我々の時代の最も偉大な一人の死に際して私の恵まれた名誉の仕事にために金を受け取るわけにはいきません」と断っている。

建設案は国際建築家連合の規定に則った国際コンペティションで募られ、応募期間は1941年の3月1日から翌年3月2日だった。ただ、第二次世界大戦中だったためヨーロッパ人参加者が少なく、決定案はトルコ人建築家2名の連名案のものが採用された。病のレリーフや彫刻像も、1952年にトルコ人アーティストに限定したコンペティションで決められた。廟にはケマルの事績がレリーフで表される一方、全体のデザインはアナトリアン様式で統一され、イスラム様式は排除されている。この廟が完成するまでケマルの棺はアンカラ市街を見下ろす丘に立つ邸宅(現在の民俗学博物館)に安置されていた。トルコ国内で産出した石材のみを用いて建設され、1953年9月1日に完成した。

ムスタファ・ケマル・アタテュルクの墓のほか、ケマルが生前に愛用していた品々や蔵書[注 2][1]、また各国から贈られた品々などを展示した博物館が併設されている。博物館にはケマルが活躍したガリポリの戦いや、サカリヤ川の戦いを再現したコーナーもあり、初代大統領の数々の業績を誇っている。

第二代大統領イスメト・イノニュの墓もある。

 

空路イスタンブールへ

 

ペラパレスホテルジュメイラ内の「アガサレストラン」でディナー

ベリーダンスショーへ

 

〇ホテル ペラパレス

イスタンブールの由緒正しきホテルと言えば、ここペラパレス。1895年にOPENした貫録がある老舗ホテルです。 オリエントエクスプレスが、パリ↔イスタンブール間を繋いだ当時から、ヨーロッパの顧客や、 トルコの著名人、またトルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタチュルクにも愛されました。

アタチュルク大統領が泊まった部屋は、現在博物館として一日2度内観することができ宿泊者以外でも見ることが出来ます。イスタンブールの真珠と呼ばれたこのホテルは、金角湾を見下ろす高台に位置し、100年前当時は、旧市街を一望できるそれは素晴らしい景観だったのではないかと思います。現在でも金角湾が見えます。

この景色を見ながら、ここを定宿にしていたミステリーの女王、アガサ・クリスティーが

「オリエントエクスプレス殺人事件」を執筆したのは、有名なお話ですね。そんな老舗ホテルも老朽化が進み、2000年代ごろからは傷みが激しく顧客のニーズにも 応えられなくなったため、一度閉鎖されました。一時は博物館になるという話でしたが、大規模なリノベーションを行い、再び博物館ホテルとして蘇ったのでした。ロビー内部は、当時のアールヌーボー様式を残したまま、美しい調度品の数々に色鮮やかなステンドグラスが出迎えてくれます。また、100年前から使われているシースルーエレベーターもそのまま残され、

タイムスリップしたかのような錯覚に陥るでしょう。客室内は質良く、綺麗にリノベーションされており、ロビーの雰囲気ともまた少し違う、モダンクラシック。低層階は、景観がいまいちですので、金角湾が見れる高層階へのお泊りをお勧めします。アガサ・クリスティーの名を冠した、アガサ・レスストランやラウンジー、バーも充実。アフタヌーンティーもありますので、宿泊者以外でも利用可能。毎日15時から18時にあり、トラディショナル・アフタヌーンティーは64トルコリラ程。博物館ホテルでの優雅なひと時をいかがでしょうか?

   

 

 

5月26日(土)

イスタンブール観光

イスタンブール(トルコ語: İstanbul [isˈtanbul]、英語: Istanbul [ˌɪstænˈbuːl]、ラテン語: Constantinopolis コーンスタンティーノポリス、ギリシア語: Κωνσταντινούπολις コーンスタンティヌーポリス /現代ギリシア語 Κωνσταντινούπολι コンスタンディヌーポリ)はトルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地である。トルコ語の発音に準じて「イスタンブル」と表記される場合もある。人口は1,410万人を擁しバルカン半島では最大、ヨーロッパでも最大規模の都市圏 (en) の一つで、イスタンブール市域の人口は世界の大都市の市域人口の上位に含まれている。

イスタンブールはトルコに16ある大都市自治体(英語版)(トルコ語: Büyükşehir, Anakent)の1つで 5,343km2 (2,063 sq mi) の広大なエリアはイスタンブール県と同一の広がりを持ち、イスタンブールは同県の県都である。同都市はトルコ北西部に位置し、マルマラ海と黒海を結ぶ世界でも最も混雑する航路の一つであるボスポラス海峡を挟んで大陸間に跨った都市である。市域はボスポラス海峡を挟んで東のアジア(アナトリア半島)側と西のヨーロッパ(トラキア地方)側両方に拡がり、西側の市域は金角湾で南北に分かれる。2大陸にまたがる大都市であり、アジアの最も西にある都市でもある。商業や歴史の中心はヨーロッパ側に広がり、住民の3分の1はアジア側に居住している。サライブルヌ(英語版)の岬に紀元前660年にビュザンティオンとして創建され、現在では歴史上最も重要な都市の一つとしてイスタンブールは知られている。330年にコンスタンティノープルとして再建されて以降およそ16世紀の間、ローマ帝国(330年 - 395年)、ビザンティン(395年 - 1204年、1261年 - 1453年)、ラテン帝国(1204年 - 1261年)、オスマン帝国(1453年 - 1922年) と4つの帝国の首都であった。1453年にオスマン帝国により都市が征服されコンスタンティノープルの陥落が起こる以前のローマやビザンティンの時代はキリスト教発展の要であったが、征服後はイスラームの中心やオスマンのカリフの中心に変わった。1923年にトルコ共和国がアンカラを新しい首都に制定したが、宮殿や帝国のモスクは今でもイスタンブールの丘に見ることが出来、イスタンブールの以前の中心的な役割を想起させる遺産となっている。イスタンブールは歴史上重要なシルクロードに沿った戦略的な場所に位置する。ヨーロッパ=アナトリア間の鉄道網(オリエンタル鉄道・トルコ国鉄)と黒海・地中海を結ぶ唯一の航路がイスタンブールで交わっている。アナトリア中から移住者がイスタンブールやその周辺に集まって居住地が広まり、1950年代以来人口は10倍に増加している。20世紀後半には芸術祭が確立し、その間にインフラが改善され複合的な交通網が整備されていった。

欧州文化首都であった2010年にはイスタンブールに約700万人の海外からの観光客が訪れ、世界で10番目に最もポピュラーな観光地であった。イスタンブールの最大の呼び物は今でも残されている歴史の中心で、部分的にユネスコの世界遺産に登録されているが、文化やエンタテインメントの中心は市内の天然の良港であるベイオール(英語版)地区の金角湾周辺に見られる。イスタンブールは世界都市と見なされ、多くのトルコの企業やメディアの拠点があり、トルコの国内総生産の4分の1以上を占めている。 アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界25位の都市と評価された。新しい活力と急速な経済成長にオリンピックを利用することを希望しイスタンブールは2020年夏季オリンピックの招致活動 (en) を行っていた。

歴史

21世紀初めに考古学者により発見された紀元前7000年に遡る新石器時代の遺物は、イスタンブールの歴史的な半島には以前考えられていたよりも前のボスポラス海峡が形成される以前から人が住んでいたことを示している。 遺物の発見以前はフリギア人を含めトラキア人の部族がサイライブルヌに紀元前6000年後半から住み始めたと言うのが従来の考えである。アジア側の遺物は紀元前4000年に遡る物とされ、カディキョイ地区のフィキルテペ Fikirtepe で発見されている。同じ場所は紀元前1000年初めにはフェニキアの交易地点で、同様に紀元前660年頃に設立されたカルケドンの町があった。

しかしながら、イスタンブールの歴史は一般的に紀元前660年頃にビザス(英語版)王の下メガラからの入植者が、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に植民都市ビザンティオンを創建した時代に遡る。入植者は金角湾に隣接した初期のトラキア人の居住地であった場所にアクロポリスの建設を進め、生まれたばかりの都市の経済に勢いを与えた。ビザンティオンは紀元前5世紀の変わり目に短期間アケメネス朝の支配を経験するが、ギリシャ人はペルシア戦争で取り戻している。都市の開祖はギリシア神話の海神ポセイドンとケロエッサの間に生まれた子ビザス(英語版)であり、彼は太陽神アポロンの協力を得て彼の名を冠した「ビュザンティオン」を建設したとされ、トラキア人の王による侵略から町を守り、妻ペイダレイアもスキタイの侵攻を防いだとも言われる。ビザンティオンは デロス同盟とその後の第二アテナイ連合(英語版)の一部であったが、紀元前355年についには独立を得ている。長いローマとの同盟関係の後、ビザンティオンは73年に公式にローマ帝国の一部となった。ビザンティオンのローマ皇帝セプティミウス・セウェルスに対抗する敵対者 (en) ペスケンニウス・ニゲルの支持は大きな代償となり、2年にわたる包囲は都市を荒廃させた。195年に降伏している。

それにも関わらず、セウェルスは5年後にビザンティオンの再建を始め都市は回復し多くの取引はそれ以前の繁栄を上回った。

 

〇ブルーモスク

イスタンブールには、様々な歴史的建造物があり多くの観光客に人気の都市のひとつですが、その多くの建造物はビザンティン帝国時代からのものと、オスマントルコ帝国時代のものに分類されます。

その中でも一際美しいと称賛されているのが、「スルタンアフメット・ジャミィ(ブルーモスク)」です

   

スルタンアフメット・ジャミィは、アヤソフィアのちょうど向かいに位置し、”ブルーモスク”という名で知られています。

内部の壁、天井、柱を覆う模様がほんのり青を帯びていることからブルーモスクと呼ばれ始めたそうです。

昔は、全体的に青が強かったらいしいのですが、近年の改修で今より抑えられた色彩になっており、青というよりパステル調に近い色をしています。部分によっては、昔からの名残であるイズニックタイルなどはっきりした青を見ることもできるとか。外観は、まさにトルコ文化を象徴するような景観。その存在感に圧倒されます。

このスルタンアフメット・ジャミィ(ブルーモスク)が完成したのは、1616年。

オスマン帝国当時のスルタン、アフメット一世がミマール・シナンの弟子、メフメット・アーという人に1609年に建設を命じ、7年後に完成。

アフメット自身は、完成の翌年の1617年に亡くなったため、隣にある霊廟に妻や息子と共に埋葬されています。

天井に突き刺さるように伸びている尖塔の周りには、大群の鳥達(海ドリ)が飛んでいます。

イスラム教の寺院、モスクではメッカ以外は通常4本までしか尖塔を立てられないことになっていますが、建設を指示したスルタンアフメット1世が「アルトゥン(黄金)の塔を作れ」と言ったのを「アルトゥ(6)の塔」と勘違いしたことからこんなにミナレットが立ってしまったのだそう。

世界の数あるモスクの中でも尖塔が6本あるのは、スルタンアフメット・ジャミィ(ブルーモスク)だけだそうです。

モスク内は絨毯が敷かれていてこの絨毯を汚さないためにモスクに入る時は靴を脱ぎます。

(入り口には、靴入れ用のビニール袋も完備)

現役のモスクでもあるので、1日5回お祈りの時間には、イスラム教信者の方が真剣にお祈りをしている姿も見ることができます。

 

〇グランドバザール

 

〇アヤソフィア博物館

 

世界遺産「イスタンブール歴史地区」の中核を成し、街を象徴する建物でもあるアヤソフィア博物館。アヤソフィアとは、かつてキリスト教の総主教座が置かれ、オスマン帝国時代には帝国内で最も高い格式を誇るイスラムモスクとして利用された歴史ある建造物です。館内では、「ビザンツ様式の最高傑作」と呼ばれる優れた建築技術の他、黄金色に輝く美しいモザイク画を堪能することができます。

 

紀元330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって征服され、皇帝の名前からその名が付けられた街コンスタンティノープル(現イスタンブール)。後にキリスト教国家・東ローマ帝国の首都となるこの街に360年に完成したのが、アヤソフィアの前身となるキリスト教聖堂でした。その後、天災や反乱などによって破壊された聖堂は、537年にユスティニアヌス1世によって再建され、以来、ほぼ当時のままの姿を現在まで保ち続けています。

総主教座として長きにわたりキリスト教世界に君臨したアヤソフィアでしたが、その転機は15世紀半ばにやってきます。1453年、オスマントルコによってコンスタンティノープルが陥落すると、イスタンブールと改称された街はイスラム教で埋め尽くされ、アヤソフィアはキリスト教聖堂からイスラム教モスクへ改造されていったのです。

オスマン帝国時代には君主が毎週の金曜礼拝で訪れ、帝国内で最も高い格式を持つモスクとなったアヤソフィアでしたが、20世紀前半にトルコ共和国が誕生すると、建物はモスクから博物館へと姿を変えられ、一つの宗教に縛られていたこれまでとは全く異なる道を歩み始めたのでした。コンスタンティノープルを陥落させたオスマン帝国軍は、3日間にわたって街の至る所を略奪し、キリスト教聖堂アヤソフィアもその例外ではありませんでした。しかし、略奪後の街に入場したオスマン帝国スルタン・メフメット2世は、アヤソフィアの優れた建築技術と稀有な芸術に感銘を受け、聖堂を完全に破壊するのではなく、改修してモスクへ転用するように命じます。

 

スルタンさえも驚嘆させたアヤソフィアの特徴は、地上55メートル、直径33メートルの巨大な中央ドームを周囲の半円ドームが支える建築構造です。高い天蓋に覆われた広々とした内部空間は、宮殿のような威厳すら感じさせ、アヤソフィアは「ビザンツ(東ローマ帝国)建築の最高傑作」と現代においてもなお称えられています。アヤソフィアの建築構造は、オスマン帝国の建築家たちにも多大な影響を与えました。スレイマニエ・モスクやスルタンアフメット ジャーミィ(ブルーモスク)など、イスタンブールに今も残るオスマン帝国時代の建造物をよく見てみてください。巨大なドームを持つアヤソフィア建築の影響が見てとれるはずです。

その建築技術の高さから、オスマン帝国下においても重要視されたアヤソフィアですが、帝国時代にモスクへと改造された名残は、今でもあちこちに見ることができます。まず、外観から見てみると、建物の周囲には、1日5回の礼拝の時間を呼びかけるミナレット(尖塔)が4本建てられていることがわかります。

 

また、内部には、イスラム教最大の聖地メッカの方向を指し示す壁の窪み状の設備ミフラーブやミンバル(説教壇)が取り付けられました。

 

さらに、建物内部に入るとすぐさま目につく丸い円盤状の装飾には、「唯一神アッラー」や「預言者ムハンマド」を表すアラビア文字が装飾化されて描かれています。

 

しかし、建物内部を見回すと、同時に目につくのが、正面上部の半ドームに描かれた聖母子像、すなわちイエス・キリストと聖母マリアの像です。イスラム教のモスクに描かれたキリスト教のモチーフ。この不思議な取り合わせは、いったい何を意味しているのでしょうか。

その謎の手がかりは、15世紀のモスクへの改修時にありました。

見事な建築物であるアヤソフィアの破壊を望まなかったメフメット2世でしたが、偶像崇拝を禁じるイスラム教国家の君主である彼は、アヤソフィア内部の壁面に描かれたイエスやキリスト教の聖人たちの像をそのままにしておくことはできませんでした。アフメット2世はキリスト教の絵画やモザイク画を漆喰で覆い隠し、人々の目に触れることがないように命じたのです。

しかし、20世紀に入って博物館となったアヤソフィアで修復作業が進められると、漆喰の下から黄金に輝くビザンティン時代のモザイク画が次々と発見され、これによって、アヤソフィアがかつてキリスト教聖堂だった事実が改めて強く浮かび上がってきたのでした。

 

 

「聖母子とユスティニアヌス1世、コンスタンティヌス1世」」

古代より親しまれていたモザイク技法はビザンティン時代に最盛期を迎え、この時代に作成された華やかな色ガラスや金をふんだんに使ったモザイク画は、ビザンティン美術の最高峰に位置付けられています。

アヤソフィアの中でも、2階柱廊ギャラリーの壁に掛けられた「ディーシス(嘆願)」と呼ばれるモザイク画は、ビザンティン時代のモザイク芸術の最高傑作のひとつに数えられており、必見の名作です。

 

「キリストと皇帝コンスタンティノス9世・ゾエ夫妻」

 

 

「聖母子と12世紀の皇帝ヨハネス2世コムネノス夫妻」

滅亡と破壊の中で失われたはずのビザンティン時代のモザイク画に、イスラム教モスクの中で出会える不思議な巡り合わせは、街がキリスト教とイスラムの間で揺れ動き、「コンスタンティノープル」から「イスタンブール」へ名称が変わった激動の歴史そのものと、優れた芸術に対して抱く敬意の思いは宗教の枠を超えて普遍であることを表しているかのようです。

イスタンブールに行ったら、何をおいてもまず必見のアヤソフィア博物館。

 

〇ボスポラス海峡クルーズ

 

 

ルメリ・ヒサールはヨーロッパ側にある要塞である。ファーティフ・スルタン・メフメト橋 (Fatih Sultan Mehmet Bridge)という橋を隔てて,アジア側にはアナドル・ヒサルという要塞がある。

 

〇ボスポラス海峡沿いのレストラン「スル・アルナヴィットキョイ」

 

〇ホテル連泊 ペラパレス

 

5月27日(日)

イスタンブール観光その2

〇ドルマバフチェ宮殿

 

ドルマバフチェ宮殿 (Dolmabahçe Sarayı) は、トルコのイスタンブールにある宮殿。新市街の北東郊外ベシクタシュ地区のボスポラス海峡に面した埋立地に位置する。ドルマバフチェとは「埋め立てられた庭」と言う意味である。イスタンブールを征服したオスマン帝国のメフメト2世によって造成された庭園に、1843年にアブデュルメジト1世の命によって宮廷に仕えるアルメニア人建築家が設計、従来あった木造宮殿を取り壊して建てられた。1843年に着工され1856年に完成した。以降、1922年に最後の皇帝メフメト6世が退去するまで、トプカプ宮殿にかわってオスマン帝国の王宮として利用された。

 

1922年11月1日のアンカラのトルコ共和国政府による帝制廃止を受けて、ドルマバフチェ宮殿の裏口から同宮殿を後にする最後の皇帝メフメト6世。この写真が撮られてから数日後、英国の戦艦でマルタに亡命。その後サンレモに居住し、1926年に同地で没した。

 

初代トルコ共和国大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクはドルマバフチェ宮殿のハレムだった居室で執務し、そこで没した。現在も「アタテュルクの部屋」として、そのときのまま保管され、公開されている。

 

〇ガラタ塔

 

ガラタ塔(ガラタとう、トルコ語: Galata Kulesi)は、トルコ共和国のイスタンブールのカラキョイ地区にある石造りの塔。9階立てで、高さは66.9メートル。イスタンブールの街を一望でき、人気の観光名所となっている。

 

〇オタルキョイ

 

景色が美しく若者のデートスポットとして人気のオタルキョイ。

週末はアクセサリーの出店が並ぶという。

 

〇トプカプ宮殿

トプカプ宮殿(土:Topkapı Sarayı、「大砲の門宮殿」の意)は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。イスタンブール旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。

発音は「トプカプ」(トルコ語発音: [ˈtopkapɯ saraˈjɯ])が正しいが、日本語ではしばしば「トプカピ宮殿」と表記されることがある。

トプカプ宮殿と呼ばれるようになったのは19世紀の皇帝が去った後からで、それ以前はベヤズットスクエア(英語版)に元々あった宮殿(旧宮殿)に対する「新宮殿」ということで、新宮殿を意味する「イェニ・サライ」、帝国新宮殿を意味する「サライ・ジェディード」(オスマン語: سراى جديد عامره)と呼ばれた。また、イスタンブールに営まれた多くの宮殿のうちの正宮殿として「帝王の宮殿」(サライ・ヒュマーユーン)とも呼ばれた。

宮殿はよく保存修復され、現在は博物館として公開されているが、15世紀に建設されて以来増改築を繰り返しており、現在見られる姿を保ちつづけているわけではない。

 

 

〇ハーレム

 

 

男子禁制を旨とするハレムの文化的背景には、イスラーム(イスラーム教)のうち保守的で厳格主義的な考え方を採る者によって強調されてきた「性的倫理の逸脱を未然に保護するためには男女は節理ある隔離を行わなければならない」との性倫理が存在すると言われる。

イスラームの聖典であるクルアーン(コーラン)には、マディーナの預言者ムハンマドの自宅に頻繁に出入りする信徒たちと預言者の家族の居室の間を厳密に区切り、両者の無闇な行き来や会話を戒めた規定がみられる。またクルアーンの別の箇所では、ムスリム(イスラーム教徒)の女性たるものは貞節を固く守るべきとの戒めが説かれている。後世のムスリムたちは、この預言者の家族に関する規定と女性の貞潔義務の規定を厳密に遵守適用するための配慮として、家屋の中にハリーム(حريم)の領域、すなわち訪問者の立ち入りが禁じられた空間を置くようになった。この意味では、ハレムは女性が外出時に着用することとされているヴェールなどと同じ発想に基づいている。

ところが、ハレムの習慣はイスラーム特有の文化というわけではなく、古代の地中海世界において、富裕な階層が倫理的・文化的・経済的な理由において女性の居室を隔離した風習がそもそもの起源であるとも考えられており、必ずしも宗教的な理由にのみ基づく習慣であるとは言い切れない点でも、ヴェールの風習と類似する。

また、ハレムはイスラーム社会における男女隔離の推奨に基づいているとはいえ、下層の人々や農村社会、遊牧民など、男女が屋内外で共働きすることが前提となっている社会階層では経済的合理性を欠くため、このような社会階層に属する家庭やこのような階層が多数を占める地域においては、ハレムの制度は事実上成り立たない。

ハレムの習慣はヴェールと同じように、近代的価値観の普及とともにイスラームにおける一夫多妻制の規定と結び付けられ、性的搾取ないし女性差別の象徴、或いはイスラーム世界の後進性の実例として批判されてきた。イスラーム社会の内部でも20世紀後半以降、女性の社会進出にともなって厳格な適用は好まれなくなり、多くの国々で衰退に向かっている。

宮廷のハレム

ハレムを厳密に運用するには、多くの夫人を抱え女性を労働力とせずに、家庭内に置いておくことが可能な経済力が前提であった。これは、裏返して言えば、イスラム世界で最も富裕な存在である王侯貴族の宮廷においてハレムが厳密かつ大規模に営まれていたということを意味する。確かに、イスラムの教主であるカリフの権威が絶頂に達したアッバース朝においては、『千夜一夜物語』に半ば伝説化して語られたような非常に大規模なハレムが営まれていた。

『クルアーン』は預言者の妻たちが顔を見せてよいのは、同性の女性たちと自分の家族、親族の男性を除くと、彼女らの所有する奴隷のみであると語っているため、ハレムでは奴隷身分の者が労働に召し使われることとなったが、カリフのような富裕な王侯貴族のもとでは、このような奴隷は去勢されて宦官とされていた。宦官が召し使われたという点では古代オリエントや中国の後宮と同じである。また、ハレムに住まう夫人たちの身辺には奴隷身分の侍女たちも置かれたが、イスラム法では女奴隷の生んだ子は父が認知すれば自由人として認められることができると定められていたため、彼女たち女奴隷はハレムの夫人たちの夫の子供を私生児ではなく嫡出子として産む可能性があった。従って、女奴隷とは側室候補でもあり、夫の子を産めば奴隷身分から解放され、一躍王侯貴族の夫人として尊敬される身になることも珍しくなかったことは、江戸城の大奥の侍女とも似ている[注釈 1]。

マムルーク朝の初代スルターンとなったシャジャル・アッ=ドゥッルは奴隷身分から君主の子を生んで解放され、王の妃へと身分を上昇させた女性の典型的な例である。

オスマン帝国のハレム

アッバース朝の衰亡後、アラブ人にかわってイスラム世界屈指の大帝国を築いたオスマン帝国においてもハレムはきわめて大規模なものが存在した。

オスマン帝国の君主は4代バヤズィト1世以来、キリスト教徒出身の女奴隷を母として生まれたものが多く、そもそも君主権が絶頂化して有力者との婚姻が不要となった15世紀以降には、ほとんど正規の結婚を行う君主はいなかった。オスマン帝国のハレムには美人として有名なカフカス出身の女性を中心とする多くの女奴隷が集められ、その数は最盛期には1,000人を越えたとされる。

戦争捕虜や、貧困家庭からの売却によって奴隷身分となった女性たちはイスタンブールで購入されると、イスタンブールの各所に置かれた君主の宮廷のひとつに配属され、黒人の宦官によって生活を監督されながら歌舞音曲のみならず、礼儀作法や料理、裁縫、さらにアラビア文字の読み書きから詩などの文学に至るまで様々な教養を身につけさせられた後、侍女として皇帝の住まうトプカプ宮殿のハレムに移された。ムラト3世の治世では本だけ絶対に持ち込むことができなかった。

ジャーリヤ(女奴隷、単数:jariya、複数:jawari)と呼ばれる彼女らの中から皇帝の「お手つき」になったものはイクバル(İkbal、幸運な者)、ギョズデ(Gözde、お目をかけられた者)と称され、私室を与えられて側室の格となる。やがて寵愛を高めたものはハセキ(Haseki、寵姫)、カドゥン(Kadın、夫人)などの尊称を与えられ、もっとも高い地位にある者はバシュ・カドゥン(Baş Kadın、主席夫人)の称号をもった。さらに後継者となりうる男子を産めばハセキ・スルタン(トルコ語版)と呼ばれるが、皇帝は原則として彼女らと法的な婚姻を結ぶことはなく、建前上は君主の奴隷身分のままであった。スレイマン1世の夫人ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)は元キリスト教徒の奴隷から皇帝の正式な妻にまで取り立てられた稀有な例である。

一方、皇帝の母になれなかった側室たちや、皇帝の子を産むこともなく失寵した側室たち、また「幸運」に恵まれず寵愛を受けられなかった侍女たちは、時には皇帝から重臣に下賜されることもあったが、多くの場合皇帝の死去とともにトプカプ宮殿外の「嘆きの家」という離宮に移され、年金を与えられて静かに余生を送る運命であった。また、15世紀以降のオスマン帝国では、前君主の死後に即位した王子は、王位争いの対抗者となった兄弟たちを処刑する「兄弟殺し」の慣行(のちに宮廷の一角に設けられた幽閉所(黄金の鳥籠)への軟禁に変更)があったことが知られているが、サフィエ・スルタンの時代にも同じように前君主の余計な子孫を残さないために、前皇帝の側室うち妊娠している者は、生きたまま袋に詰められ、ボスフォラス海峡に沈められたといわれている。

このように、厳しく、その立場は不安定極まりなかったオスマン帝国のハレムの女性達の間で、権力闘争が激しくならざるを得なかった状況があった。しかし、ひとたび自身の生んだ息子が皇帝に即位することとなればヴァーリデ・スルタン(トルコ語版)(母后)と呼ばれてハレムの女主人として高い尊敬を払われる身分となる。16世紀後半から17世紀にかけてのオスマン帝国は、皇帝独裁が保たれ政治の中心が宮廷に置かれたままであったにもかかわらず幼弱な皇帝が相次いだため、ヌールバヌー・スルタン、キョセム・スルタン(英語版、トルコ語版)など著名な母后たちが権勢を振るった(女人政治(トルコ語版)、カドゥンラール・スルタナトゥ、 トルコ語:Kadınlar Saltanatı 、女人の天下とも)。

18世紀からは西欧化の波がハレムに押し寄せ、西欧化に熱心だった第31代アブデュルメジト1世(在位1839年~1861年)は、皇帝の住まいを1853年にトプカプ宮殿から西洋風のドルマバフチェ宮殿に王宮が移し、1856年に余剰のジャーリヤを解放した。しかし、近代オスマン帝国の王宮であったドルマバフチェ宮殿やユルドゥズ宮殿(トルコ語版)にも小規模ながら女官と宦官の住むハレムは維持され、その後、1909年にオスマン帝国宮廷のハレムは解散された。

 

 

トプカプ宮殿内のレストラン「コンヤル」で名物「ヒュンカルペンディ」を

 

 

 

夕食は市内レストラン

 

22:00空港へ

01:40分 ターキッシュエアラインで帰国の途へ(ビジネスクラス) 朝食機内 昼食機内

 

成田着19:10

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ドキュメンタリー 歴史 世界遺産 イスタンブール カッパドキア ヒエラポリス

2018年05月02日 22時32分09秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

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【トルコ大紀行】エピソード5~ヒッタイト物語~

2018年05月02日 21時45分21秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

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【トルコ大紀行】エピソード4~トロス山脈と地中海~

2018年05月02日 21時44分37秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/