拙ブログに掲載したフォトを、まとめてみました。
全部で800枚撮った写真のうち、ほんの一部でしかないのですが(^_^)。
他は、写真店でフォトBookにして永久保存です。ボキが死ぬまでは。
わははっはははっははっははっは。
バルト三国ロシア怪人紀行2017年6月
拙ブログに掲載したフォトを、まとめてみました。
全部で800枚撮った写真のうち、ほんの一部でしかないのですが(^_^)。
他は、写真店でフォトBookにして永久保存です。ボキが死ぬまでは。
わははっはははっははっははっは。
バルト三国ロシア怪人紀行2017年6月
JALでモスクワから帰国。
帰りもビジネス席。
エコノミークラス症候群になってしまったので、足を伸ばしているしかない。なんともゼータクだが、まだ死にたくないから。
帰りは9時間程度で予定より早かった。
それにしてもJALはいい。乗務員の方々が日本人である。外国の飛行機会社とは雲泥の差。それに、トイレである。JALだけがウオッシュレットである。こいつは特筆ものである。歯ブラシもあるのじゃ。こんな飛行機会社を他に知らない。エアカナダとかイタリアン航空とか大韓航空とか乗ったけど、サービスではJALにはかなわないと思う。
成田には定刻に着いた。
近くのパーキングにクルマを止めてあったので、さっそく迎えのバスを頼み、自分で運転して九十九里浜に帰った。
元気で、また海外旅行に行きたい。中国程度ならエコノミー席で十分だけど、ヨーロッパはさすがにつらいからである。元気なうちにアチコチチャレンジである。
元気な爺さんには、クスリは不要。
これである、これ。
楽観的に、軽く、楽しく生きていきたいと思う。
では、これにて旅行編の記事は終了。
ヾ(@⌒ー⌒@)ノ
ボキ達夫婦は、どんなツアーで外国に行っても、必ず一般のスーパーとかデパートに行くことにしている。そのほうがボキ達のような庶民レベルの生活がよくわかるからだ。それに安いからだ。観光客目当てのぼったくり商店に騙されていたら、おもしろくないからだ。
わはっははっはははっはははは。
それにしても、モスクワのデパートの発展ぶりにはたまげた。
この写真がそうである。
通路の真ん中に花壇があった。
あまり日本国内では見かけない姿であった。
当然、共産党政権ではあり得ない話であっただろう。
格差が広がっていると実感してきたけど。
日本もうかうかしていられませんな。
そう思ってきた。
この旅程中に古女房ドノが、誕生日を迎えたので、ガイドさんがこんなサプライズを。
ありがたいもんである。
ついでに、普段からなにも感謝していなかったので、ガイドさんに叱られてしまったけど(笑)。
このレストランはサンクトペテルブルクでありました。
ついでに言えば、帰りの飛行機でも誕生日祝いをいただいた。JALから。感謝、感謝。
6日目 モスクワ 6月27日(火)から28日(水)
サンクトペテルブルクから飛行機移動して現在の首都モスクワへ
ご存知赤の広場。
中国人が多かったのはわかるような気がする。
共産党員なのであろう。それにしても、ロシアの経済発展には驚いてきた。デパートも、スーパーも行ってみたが、共産党時代には考えられないくらいの発展だそうな。現在のロシアを何主義というのか、ボキは知らないが。
クレムリン観光
クレムリン(露:Кремль、Kreml')は、ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国の宮殿。「Kremlin」は、英語やフランス語などでの表記。ソビエト連邦時代にはソ連共産党の中枢が置かれたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれているため、ロシア政府の代名詞として用いられる。正面には赤の広場がある。
ロシア語では「クレムリ」となり、「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。しかしながら、日本語内において単に「クレムリン」と言った場合は、モスクワにある宮殿を指すことが多い。モスクワのクレムリンはそれらのなかでも最も有名かつ壮大なものである。城壁の総延長2.25km。20の城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や大聖堂(寺院)が林立している
モスクワのクレムリンの原型となる城塞は12世紀に築かれたと考えられている。クレムリンが築かれた場所はモスクワ川とネグリンナヤ川(現在は地下河川となっている)の合流点に面した天然の要害であった。1366年、第4代モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイにより、石造りの城塞として再建された。
イヴァン3世時代のモスクワ・クレムリン、アポリナリー・ヴァスネツォフ
15世紀後半、イヴァン3世(イヴァン大帝)の治世に、ロドルフォ・ディ・フィオラバンディやマルコ・ルフィーらイタリア人建築家により、進んだ築城術が導入され、ルネサンス風に全面改築がなされた。この時期には、代々のツァーリ(ロシア皇帝)が戴冠式を行うことで知られるウスペンスキー大聖堂(1479年再建)、ブラゴヴェッシェンスキー聖堂(1489年建立)、ツァーリの納骨堂のあるアルハンゲリスキー聖堂(1508年建立)の三大聖堂や、イヴァン大帝の鐘楼(1508年建立)が建立され、現在とほぼ同じ外観を持つに至った。
17世紀には城門にゴシック風の塔が加えられ、娯楽宮、モスクワ総司教館が新築された。ピョートル1世によって、1712年にサンクトペテルブルクに遷都されて以降、クレムリンの増改築は停滞した。
1812年、ナポレオン・ボナパルトのモスクワ占領により、クレムリンの一部が破壊されたが、その後修復された。さらに、コンスタンチン・アンドレエヴィチ・トーンらによって大クレムリン大宮殿(1849年建立)や武器宮殿(1851年建立)が新たに造られた。
1917年のロシア革命以降はソビエト政府の中心となった。なお、モスクワ放送では、宮殿で鳴らされる鐘の音を流していた。
建築物[編集]
クレムリン遠景
モスクワのクレムリンは、南をモスクワ川、北東を赤の広場、北西をアレクサンドロフスキー公園によって囲まれたほぼ三角形の形をしている。総面積は約26ヘクタール。城壁に囲まれた構内には、大小新旧様々の宮殿(パラーダ)、聖堂建築、20の塔(バーシニャ)がある。
宮殿[編集]
モスクワ川沿いの河岸段丘には、クレムリン大宮殿(ボリショイ・クレムリョフスキー・ドヴォレッツ)を中心に、グラノヴィータヤ宮殿、テレムノイ宮殿(チェレムノイ宮殿)が林立し、これに、クレムリン大会宮殿(ドヴォレッツ・スエズドフ)や聖堂群が周囲に立てられ一つの建築複合体を形成している。この敷地の東隣はタイニツキー庭園となっている。
グラノヴィータヤ宮殿(多稜宮)
テレムノイ宮殿
グラノヴィータヤ宮殿(多稜宮)
1481年から1891年にかけて建造された宮殿。イタリア人建築家マルコ・ルッフォ(ロッフォ)とピエトロ・ソラーリによる。ファザードが白い多面体の石で覆われているため、グラノヴィータヤ(多面体、多稜の)の名称が着いた。高さ9メートル、広さ490平方メートルのアーチ構造のホールが内部にある。帝政ロシア時代には、イワン雷帝のカザン占領記念の祝典や、ピョートル大帝のポルタヴァの戦いの勝利祝典など、公式行事やレセプション会場に用いられた。
テレムノイ宮殿(チェレムノイ宮殿)
英米圏では「テレム(テーレム)宮殿」の名称で呼ばれる。「テレムノイ」(露:Теремной)とは、古ルーシの言葉で「高級な住まい」を意味すると言われる。1635年から1636年にかけて造営された、16世紀に建設された2階建ての宮殿の上に3,4階を増築した。この望楼のような屋根裏部屋をテレムと称するとも言われる。この宮殿は、ロシア帝国の歴代皇帝(ツァーリ)の御所であった。五階建てで最上階は寄せ棟造りで、紅白の菱形模様の屋根が敷かれている。四階は控えの間と、玉座の間、寝室などがある。19世紀になってコンスタンチン・トーンにより下層が改装されファサードが変わった。
クレムリン大宮殿(大クレムリン宮殿)
クレムリン大宮殿
1839年から1849年にかけて造営された宮殿。広義のクレムリン大宮殿は、この大宮殿に上述のグラノヴィータ宮、テレムノイ宮殿を合わせたものを指す。全長125メートル、奥行き63メートルの大建築で、外観三階建て、内部二階建てである。
設計・監督はコンスタンチン・アンドレーエヴィッチ・トーン(トン)である。トーンは、宮殿建設に当たり、当時の最新技術を導入することに意を用いた。例えば、宮殿の屋根を支えるのに使われたつなぎ梁は銑鉄製であった。このほか、金属製の天井構造や、セメントの導入、亜鉛製空洞柱、銑鉄製床プレート、吊天井構造、暖房設備などが導入された。また、規模と豪華さにおいて、同時期に造営されたヨーロッパ列強の宮廷建築と比較して、これを凌駕している。宮殿には、ウラル山脈から採掘された国産孔雀石、花崗岩などの諸石材が装飾においてアクセントを形成している。このほか、家具、装飾品、織物、シャンデリア、磁器や青銅器などの装飾品は、サンクトペテルブルクやモスクワの工房に特注された逸品である。
一階には、皇帝の私室、二階には、国家行事に使用された大ホールがある。大ホールは、いずれもロシア帝国の主要な勲章にちなんで、エカテリーナの間、ウラジーミルの間、ゲオルギーの間、アレクサンドロフの間、アンドレーエフの間がある。
宮殿南棟の一階は、皇帝一家の私室であり、食事の間、皇后の謁見の間、皇后の執務室、皇后の居間、寝室、皇帝の執務室、皇帝の謁見の間の7室が一直線上に並んでいる。各室の内装は個性に富み、例えば皇后の謁見の間はロココ様式、皇后の執務室はアンピール様式などと伝統と当時の流行が程よく折衷されている。
最高の武勲を立てた軍人に授与される聖ゲオルギー勲章の叙勲式が行われた。クレムリン大宮殿の各ホール中、最も大きく、最も荘重である。全長61メートル、全幅20,5メートル、高さ最大17メートルの威容を誇る。天井には重さ1,3トンの金メッキされたシャンデリアが6基取り付けられている。床は、胡桃、マホガニー、桜、白樺、林檎、梨、白樺、黒檀などの異なる木材で構成される寄木造りとなっている。帝政時代、ソビエト時代、そして現在のロシア連邦を通じて国家的祝典に使用された。
ウラジーミルの間は、楕円形で、帝政時代には皇帝の謁見を待つ貴族のいわば溜の間であった。このほか、外国からの使節を謁見したり、条約調印の会場として使用された。1972年、ニクソン、ブレジネフ両首脳によるSALT1の調印式典でも会場となった。勲章授与式にも使用されている。
アレクサンドロフの間とアンドレーエフの間は1939年に壁を撤去し、一つのホールとなり、ソ連最高会議及びロシア・ソビエト連邦社会主義共和国最高会議(ロシア語版)の議場として使われた。
国立クレムリン宮殿(旧クレムリン大会宮殿)
クレムリン大宮殿の北側、トロイツカヤ塔から入城して右側に位置する。ソビエト時代の1959年から1961年にかけて建設された。ファザードは、ガラス張りで鉄筋コンクリートの直線的な社会主義モダニズム建築。6000人を収容可能な議事堂で、1961年10月17日に開催された第22回ソ連共産党大会をはじめとする党大会や国際会議場として使用された。建築計画と施工を担当した建築家・技術者グループに対して功績を称えレーニン賞が授与されている。ソ連崩壊後は、名称を国立クレムリン宮殿と改称された。1990年クレムリンが世界遺産に登録された際には、この宮殿のみ鉄筋コンクリートとガラス張りの近代性ゆえに世界遺産としての指定がなされなかった。ボリショイ劇場の第二ステージとしても使用される。
↑ドストエフスキーの像でありました。
ロシア大統領官邸
ロシア大統領官邸の入っている旧元老院(カザコフ館)。ソ連時代は書記長の執務室が入っていた。
帝政ロシア時代は、元老院。ソビエト時代には閣僚会議館。設計者マトヴェイ・カザコフの名前を取ってカザコフ館とも呼ばれる。赤の広場に面し、二等辺三角形の平面を持つ。赤の広場から、レーニン廟越しに見ると、カザコフ館のドームが見える。レーニン以来、歴代のソ連指導者の執務室が置かれた。
ソビエト時代にはソ連最高会議幹部会館。ソ連時代の1932年から1934年にかけて建造された。大統領官邸などの周囲の建物と同じ黄色の外観で調和が取れている。
武器庫(武器宮殿、アルジェイナヤ・パラータ)
クレムリンの南西、アレクサンドロフスキー公園に隣接している。設計は、クレムリン大宮殿と同じくコンスタンチン・トーンの手による。武器庫とあるが、後に戦利品やロマノフ家の宝物を保管するようになり、1720年ピョートル大帝の勅令によって美術館となった。コレクションには、13世紀から18世紀の武具・武器、14世紀から19世紀の織物、宮廷衣装、ロマノフ家の馬車などがある。
アルセナール(旧兵器庫)
こちらは、クレムリンの北西、無名戦士の墓に隣接し、トロイツカヤ塔から入城して左側、クレムリン大会宮殿と向かい合っている。現在はクレムリン警備隊の兵舎として利用されている。
宿泊 モスクワホテルメトロポール
MOSCOW METROPOL
モスクワで一番便利なホテルと言っていいと思います。
1.ホテル内で日本円両替可。
2.地下鉄3駅が最寄駅(アホートニーリャート・テアトラリナヤ・プロ シチャッジレヴォリューツィ)
3.徒歩圏内で観光とショッピング
4.朝と夜はほとんど人がいない。観光地を独占できる感じ。
5.METROPOL ZALの朝食でのブッフェのハープ演奏がいい。
6.メトロポールホテル自体有名。
モスクワ市内移動の際に使ったバス(かわいいわんこがいましたっけ)
4日目 6月25日(日)
サンクトペテルブルク観光
9時から市内観光。ガイドはミセス・リューバさん。日本語専門で大学に行かれたロシア美人。岩手県や山形県にも行ったことがあるって言っていらした。ここでボキはちょっと図に乗って、形容詞の話をしてしまった。(_ _ )/ハンセイである。難しかったでしょう?って聞いて、その後に形容詞とか形容動詞とか言っちゃぁいけないですな(^_^)。
スモーリヌイ修道院
白とブルーの淡いパステルカラーの外観の建物で、とっても可愛らしく素敵でした。
女学校として作られただけあって、女性好みのデザインです。
ネフスキー大通りから出ているバスで行くことができます。
スモーリヌイ修道院
「スモーリヌイ修道院」
ネヴァ川河畔に広がる公園の中に、スモーリヌイ修道院と寄宿学校が建っている。この学校は、19世紀初め、エカテリーナ2世によって貴族の令嬢たちの女学校として建てられた
近くにドストエフスキーが学んだ学校もあった。
感激しましたなぁ。
かのドストエフスキーも歩いたであろう河畔。。。。。。。
聖イサク寺院
それにしにても博学多才の現地ガイドのリューバさん。
聖イサアク大聖堂(Исаакиевский собор、Saint Isaac's Cathedral)は、ロシア、サンクトペテルブルク中心にあるロシア正教会の大聖堂である。ドームの高さは101.5メートル。聖イサーク大聖堂、聖イサーク寺院とも表記される。聖イサアク大聖堂の名称は、ピョートル大帝の守護聖人、ダルマチアの聖イサアク(聖イサク・ダルマツキー、w:Isaac of Dalmatia)に由来する
ピョートル大帝の時代にワシリエフスキー島(ヴァシリエフスキー島)に初代の「聖イサク教会」が建設されたのが起源とされる。その後、1717年に元老院広場(現在のデカブリスト広場)に移ったが、軟弱な地盤に加え、落雷によって焼失した。 エカテリーナ2世の勅命でイタリア人建築家アントニオ・リナルディにより再建事業が開始されたが、未完成に終わり、パーヴェル1世が事業を引き継いだ。 現在の聖イサアク大聖堂はアレクサンドル1世の時代に建造されたもので、フランス人宮廷建築家オーギュスト・ド・モンフェランの設計による。モンフェランの監督下、1818年から1858年まで、40年の長きに工事が行われた。ロシア革命後は、ソビエト政権の下で博物館となった。他のサンクトペテルブルクの建造物同様、第二次世界大戦に危機に見舞われる。独ソ戦におけるレニングラード包囲戦では、聖イサアク大聖堂の黄金のドームはドイツ軍にとって絶好の標的と成り得たため、ソ連側はドームを灰色に塗装し直した。 ソ連崩壊後、大聖堂としての活動を再開し、祭日における奉神礼が行われている。
ピョートル大帝の青銅の騎士像
血の教会
(スパース・ナ・クラヴィー教会)
こちらも午前にツアーで外観観光をした時の写真です。
皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所に建てられたことから「血の上の教会」と呼ばれています。昼の教会周辺は観光客だらけ!!スリに要注意な場所です。
ロシア名物ボルシチ キエフ風カツレツ 昼食
エルミタージュ美術館
受付で餌をねだりに来ていたチュンチュン(^_^)
エルミタージュ美術館(エルミタージュびじゅつかん、露: Эрмитаж エルミターシ、英: Hermitage Museum)は、サンクトペテルブルクにあるロシアの国立美術館。 1990年に世界遺産(サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群)に包括登録されている。
1764年にエカチェリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションのはじまりである[2]。エルミタージュ美術館の起源はエカチェリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術品展示室であり、一般公開はされていなかったが、1863年に初代館長となったゲデオーノフによって市民も観覧が可能となった[3]。
1917年のロシア革命後は貴族から没収されたコレクションの集積所となった。1918年には冬宮に存在した全ての研究、管理組織を建物共々、エルミタージュ美術館として統合することが決定された。この統合作業は第二次世界大戦後に完了した[3]。
主な所蔵作品[編集]
絵画[編集]
イタリア・ルネサンス[編集]
レオナルド・ダ・ヴィンチ ブノアの聖母 1478年
レオナルド・ダ・ヴィンチ リッタの聖母 1490 - 1491年
ラファエロ コネスタビレの聖母 1504年
ラファエロ 聖家族 1506年
ジョルジョーネ ユディト 1504年頃
ティツィアーノ ダナエ 1553 - 1554年頃
ティツィアーノ 懺悔するマグダラのマリア 1565年
カラヴァッジオ リュートを弾く若者 1595年
エル・グレコ 使徒ペトロとパウロ 1587 - 1592年
ベラスケス 昼食 1618年
ルーベンス 大地と水の結合 1618年
ルーベンス ペルセウスとアンドロメダ 1620 - 1621年
ヴァン・ダイク 自画像 1630年
レンブラント フローラに扮したサスキア 1634年
レンブラント ダナエ 1636 - 1647年頃
レンブラント 放蕩息子の帰還 1663 - 1665年
印象派以降[編集]
ルノワール ジャンヌ・サマリーの肖像 1878年
ルノワール 扇子を持つ女 1881年
ルノワール 小さな鞭を持った少年 1909年
セザンヌ ピアノを弾く少女 1866年
セザンヌ 煙草を吸う男 1889年
セザンヌ カーテンのある静物 1890年
モネ 庭の女 1867年
モネ ジヴェルニーの干草 1886年
モネ ウォータールー橋 1903年
ゴッホ アルルの女たち 1888年
ゴッホ ライラックの木 1889年
ゴッホ 夜の白い家 1890年
ゴーギャン 果実を持つ女 1893年
ルソー 虎のいる熱帯の嵐 1908 - 1909年
遺物[編集]
夕食 ビーフストロガノフ
文学なんてぇもんも時差惚けの一種なのではないのかと思う時がある。書かれた時期と国というか地域が違っているからである・・・マジに。
時差惚けがあって、まだおかしい。もっとも、ずっと前からボキのアタマはおかしいが(^_^)
旅の効用と言ってもこれだけ時差惚けがあったら、アカンですなぁ~。もっともすべては夢まぼろしである。あっと言う間の人生である。
親戚とか友人とか、ましてや以前の仕事人時代の仲間とかにこだわっていると時間を空費する。そんなことにこだわっていないことである。
そういう意味で、ボキは天涯孤独であるから気楽なもんである。親戚も千葉県にはいないし(姻族はいるけど)。そんなもんに頼っていると気楽なジジイ生活を送ることはできないではないか。
独居老人の覚悟があれば、気楽なジジイ生活を送ることが可能なのである。
誰しも、独居老人を生きていくことになるのだが、それに気がついていないのだ。死ぬときは一人である。心中という手もあるだろうが、あれだって一人で死んでいくのだ。太宰治だってそうだ。何回も心中しているのだ。この何回もというのが笑ってしまう。一緒に死んでいった女性がかわいそうである。その都度自分だけ助かって、最後に死んでしまったのだが、ボキは最後の心中も間違って死んじまったのではないかと密かに思っていたもんだ。もっと笑ってしまったのが、渡辺淳一の「失楽園」。ありゃなんだってレベル。ヒマなヒトがいて、あれを分析した方がおられて情交シーンが22回出てくるのだそうな。笑ってしまう。
否、今日はこんなくだらないことを打鍵したいからやっているのではない。
時差惚けである。時差惚け。つまり時間の空費である。もったいないということである。
実際の時間と、身体的な時間が一致していないから時差惚けが始まる。仕方ないのかもしれない。しかし、一概に仕方ないとばかり言っていられない。
本当にボケているからである。だるい、辛い、ぼーっとしているから時差惚けなのである。
でも、文学なんてぇもんも時差惚けの一種なのではないのかと思う時がある。
書かれた時期と国というか地域が違っているからである。当たり前である。我々読者は常に後から作品を読み、鑑賞しているからである。書かれてすぐ読むことができるのは、幸運な編集者だけである。
サンクトペテルブルグで書かれたドストエフスキーの多くの作品群は、ずっと時代を下ってからファンを獲得したのである。その幸運を味わったのが、苦学生時代のボキなのだ。新聞店の二段ベッドのたこ部屋で、その幸運に出会ったのである。新潮文庫本を全部買ってムチュウで読んだ。
ある意味、それが時差惚けであったのだ。
助けてくれ~~~という救済の叫びがサンクトペテルブルグにはあったのだ。ドストエフスキーにはあったのだ。その辛さに応えてくれるものが、ドストエフスキーの作品群にはあったのである。
暗い、じとじとと雨が降っているサンクトペテルブルグのあの天候のような挫折と暗さが、ボキをいやしてくれたのである。もっとも、ボキは当時葛飾新宿の新聞店に住み込みで働いていただけなのであるが。あるいは勘違いしていたのかもしれない。サンクトペテルブルグと葛飾新宿の下町のレベルを。なにしろ文化的な質が違い過ぎる。
ボキのこころの中にあったサンクトペテルブルグであり、ドストエフスキーでしかなかったのかもしれない。
でも、所詮文学なんて勘違いの連続なのである。勘違いがあるから、作品の主人公の中に没頭できるのである。
それがボキの場合は、暗く辛かった苦学生時代の救済になっていったのだ。それだけである。それだけ。
それでも、ボキは天涯孤独である。
ボケているから余計にそう思うのかもしれないけど。
今日も歩いてくる。
目標20キロ。
無理だな。
わははっははははっはははっははははっは。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ
旅の効用というのは、いろいろあって、ロシア美人の毎日20キロwalking発言にはびっくりしてきたよ。旅もここまでくれば、国際的である(^_^)
旅はオノレの人生を軽くする。重荷を捨てることができる。日常性から離れることができるからである。非日常を生きる。つまらない日頃の悶着からも離反することができる。
ま、一種の現実逃避なのかもしれない。それでもいいではないか。
現実に押しつぶされて、鬱になっているよりはいい。
軽い生き方からは、得るものも多い。深刻ではないからである。あまり頑張り過ぎて、ノイローゼになっていたらアカン。
病気になってもそうだ。あまり深刻に考えていると治るものも治らない。治らなかったら、それはそれで仕方なし。
寿命である。そう思うことにしている。ボキの亡父も亡母も生きていたら、96歳と95歳だった。とうてい生きてはいなかっただろうけど。寿命がなければ、ニンゲンは発展しない。死ぬから、次世代が発展していくのである。それはある意味仕方のないことである。
そういうことを見つめていたのが芭蕉なのではないのか。
この旅行中に小林麻央さんが亡くなった。かわいそうにと思った。ガンだった。かわいそうにと思ったのは、本人もさることながら、遺された小さな子供たちである。
だからである。だからかわいそうなのである。
寿命だったと簡単に言ってはならない。ヒトの生き死には重大な問題を含んでいる。
今回の旅では、革命とそれにともなって命を落とした一般庶民の人生がかかっていたということを知った。かなりの生命が失われていった。それをどう理解するか。
ソ連時代も、革命は続けられていた。当然のように命も捨てられていった。ゴミのように。
中国もそうだろう。
それだけに政治権力というのは怖いと思う。
特にバルト三国は、ロシアの影響から逃れることもできなかった。かつてはスエーデンとも戦争をしたらしい。そんなに強大だったのだと思った。スエーデンがである。
隣国との国境を接しているということが、相当にプレッシャーになっているのだ。そして、こんなに怖いものであるのだということをシミジミ思った。
さらにある。
それはロシアが近代的になっていたことである。あまりにも発展している。発展しすぎている。あれだけの経済発展をしているとは思ってもみなかった。
もっとある。
国境警備がやかましいことである。警備を厳しくしないと国家がもたないのかもしれないが。
アメリカとロシアの二つの国家が世界を支配しているけど、それも見てみないと理解できなかったことである。
ドストエフスキーの時代からしか、ロシアを理解していなかった。サンクトペテルブルグのイメージというのは、ボキにとって日本文学の源氏や平家物語あたりのイメージであったのかもしれない。
それにしても、行って良かった。イメージの中でしか、知らなかったサンクトペテルブルグであり、モスクワであったからである。
百聞は一見にしかずであったからである。
ありがたい体験をさせてもらったものである。
*
時差惚けは耐えられるようになってきた。さらにエコノミークラス症候群になってからは、かなり気をつけて行動している。今回もビジネスクラスにしたのは、エコノミークラス症候群になったからである。贅沢だとは思う。思うケド、まだ死にたくはないからである。なにしろ、動かないと死んじまうのである。
たまったもんじゃないからだ。
今日からは歩く。
Walking三昧である。
ロシア人の現地ガイドが言っていた。Gymで20キロは歩いているという。スタイルが良かったわけである。ロシア人女性は、中年を過ぎると肥満に悩まされるらしいから(^_^)。
さ、これくらいにしよう。
病気にならないためにも。
(@^^)/~~~
二日目 ヘルシンキ
エストニアの首都 タリンへ 世界遺産タリン市内観光
ヘルシンキの朝 Crown plaza hotelを出る
タリン
Tallinn
タリンは中世の町並みが残る、パッチワークの様な都市です。800年もの歴史を誇るこの町には、ロシアのツァーリ時代に栄えたカドリオルグ地区など、旧ソ連時代を思い起こさせる遺跡や自然も多く残されています。そうした歴史的建造物が保存されたタリン旧市街は、1997年にユネスコ世界遺産に登録されました。
美しい町並みでありましたなぁ。
市電がいくらでも通っていて、かなり便利でありました。
自由に乗ってデパートとか、スーパーに買い物に行ってまいりました。
ツアー仲間は、全員旅のベテランだったから(^_^)。
現地ガイドのエリンチャンという27歳の女性は、ヘルシンキ大学の日本語学科を出て、さらに大学院修士課程で学んだ俊秀。日本の大東文化大学にも留学経験ありとのことであったから、話に花が咲きましたよん。
そしてヘルシンキからフェリーでタリンに渡る。
アレクサンドル・ネフスキー大聖堂
タリンのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂は、エストニアのタリンにある正教会の教会である。帝政ロシアの一地方にエストニアが組み込まれていた1894年から1900年の間にミハイル・プレオブラジェンスキー(Mikhail Preobrazhensky)によって典型的なロシア復古主義のスタイルに設計され建設された。アレクサンドル・ネフスキー大聖堂はタリンにあって最大かつ最重要の正教会のクーポル付き大聖堂である。大聖堂は、チュド湖上の戦い(氷上の戦い・その戦場は現在はエストニア領内である)で1242年に勝利したネワの聖アレクサンドル(聖アレクサンドル・ネフスキー)を記憶している。現在のロシア正教会の首座主教である総主教アレクシイ2世の教会における奉職は、この大聖堂で始まった。
大聖堂の内部
アレクサンドル・ネフスキー大聖堂はトゥームペア(Toompea)の丘に建っている。伝承によればこの丘には、エストニアの民族的英雄であるカレヴィポエグ(Kalevipoeg)が葬られている(但し、エストニアには彼が葬られていると同様に伝承されている場所は他にも数多くある事は指摘しなければならない)。大聖堂は多くのエストニア人からロシア支配を想起させるものとして嫌われている。エストニア当局は大聖堂の破壊を1924年に計画したが、実行に移される事は無かった。1991年、ソ連が崩壊してエストニアが独立を回復すると、大聖堂は綿密な修復を受けた
トーンペア城
エストニアのタリン歴史地区西部トームペアにある丘の上の城。
11世紀までにエストニア人は木造の城を建設した。13世紀、リヴォニア帯剣騎士団が占領して本格的な要塞建設を開始し、18世紀末までの改修で現在のような外観となった。20世紀末にロシアから独立して後は、エストニア国会の議事堂として使用される。
ラエコヤ広場 美しい町並み
ラエコヤ広場 & 旧市庁舎
Raekoja plats & Tallinn Town Hall
町の中心であるラエコヤ広場。かつて、市場や祝い事に使用されていましたが、ここで処刑が行われたこともあると記録に残されています。広場の中央には、バラのコンパスが彫られた丸い石があります。ラエコヤ広場にあるゴシック様式の建物がタリンの旧市庁舎です。旧市庁舎は1402年から1404年にかけて建造され、北欧最古のゴシック建築と言われています。この建物に付随した塔の高さは65メートル。その先端には、旗を持った番兵の像があります。この像は「トーマスおじいさん」と呼ばれ、タリン市民に親しまれています。
(c)Jaak Nilson
ラエコヤ広場
(c)Jaak Nilson
夕食「サ―モンのグリル」 美味かったです(^_^)
「かるみ」を求めての旅をしてきちまったよん
バルト三国とロシアをめぐってきた。実はドストエフスキーが執筆のために住んでいたサンクトペテルブルグに、かなり興味があった。学部の時の卒論で扱ったからである。苦学していたから、相当入れ込んでいた。
ドストエフスキーにである。深刻で、虚無的である。大都会サンクトペテルブルグで生きているラスコリーニコフや酔漢マルメラードフに入れ込んでいた。
それにサンクトペテルブルグのどんよりとした空は、まさに虚無的に過ごしている青年にはうってつけの舞台である。そうなのである。ボキも現実に押しつぶされてしまいそうになっていたからである。仕事と学業の両立は確かに苦しかったからだ。マジに。
サンクトペテルブルグ生まれの現地ガイドのお嬢様が、いみじくものたもうていた。鬱が多いのだそうだ。このお嬢様日本語学を学ばれた俊秀で、かなりの美人であった。この美人、なんと岩手にも山形にも行ったことがあるという。ボキ好みのロシア美人であった(^_^)。
いろいろと文学の話をさせていただく機会も得た。さすがに本場である。可能ならば、観光旅行なんかではなくて、ドストエフスキー博物館にも行きたかった。しかし、この旅行のカネを出しているのはボキの古女房ドノである。文句は言えない。言えないが、きっかけを狙ってはいた。タクシーでドストエフスキー博物館に行きたいと思っていたからである。
ドストエフスキーの住んでいたアパートも見た。というよりバスで通った。彼の学んだ学校も見てきた。しかし、あえなく頓挫してしまった。夜は、ロシアの民族衣装を着たレストランでロシアの家庭料理を食いたいとなって、仲良しになった数名とタクシーでそっちの方に出かけたからである。ホテルのレストランではないのだ。自費でオプションである。こういうチャレンジというのは、女性陣はやる。積極的にやる。
とうとう、ボキはドストエフスキーを断念してしまった。
ま、いいか。また来るかも知れないではないか。
これもまた「かるみ」の連鎖である。
そうなのである。
ボキは、成田発の飛行機でフィンランドに行くときにKindleで、長谷川櫂氏の書いた「奥の細道をよむ」(ちくま新書)を持参していって読了したからである。さらにご丁寧に、持参していったB6のマメノートにエッセンスをメモしてしまったのである。フィンランドに着くまでにやってしまったのじゃ。
で、思った。つまり、芭蕉は誤解されているってぇことを。
あまりにも深刻で、宗教的な心境に深まりがあって、かの有名なる「古池や・・・・」の俳句も誤解されているというのである。長谷川櫂氏の論法は最近知ったのであるが、いちいち納得できたのである。古池が先にあって、読まれた俳句ではないと言われる。蛙飛び込むという「音」が先にあって、それから芭蕉の心の中に古池が登場してきたのであると言われる。
これはこれは。
俳句について、またまた新しいことを教えていただいた。そう思ったのである。
さらにある。
芭蕉の心の中にある「かるみ」である。芭蕉の俳句は、そもそも俳諧の伝統を受けていて、「かるみ」をモットーとしていたはずであるというのである。
これも目を開かれた思いがした。
で、ドストエフスキーである。
実際に、サンクトペテルブルグの町並みを見て、ボキは自分の心の中に、ドストエフスキーの「かるみ」を感じてしまったのである。
言葉はその後についてきていたのではないのかと思ってしまったのである。
こいつは大いなる発見であった。
今、人生観が変わるほどの感動をしているのだ。
なにも深刻ぶって、ニヒルに生きているばかりがニンゲンではない。
説教クサイジジイであっても仕方なし。ジジイのブログだからと言っても、説教じみている御仁のもあるが、あれではいかがなものかと思うからである。
「かるみ」のあるおもしれぇジジイでありたいのじゃ、ボキは。
もうなっているってか?
わははっはははっはははっははははっはは。
ヾ(*´∀`*)ノ
バルト三国&ロシア旅行から帰国いたしました。以下は、事前にボキが作っていた旅程の全体チャートからのコピー(テキストのみ)。これをKindleで持ち歩いていました。今回も役に立ちましたなぁ。ありがたいもんです。
1日目 6月22日
成田発 10:30 JAL0431 ビジネスクラス 所要時間10時間20分
ヘルシンキ着 14:50
いよいよ今回の旅の始まりである。
楽しみにしていたから、このどんよりとした曇天も「らしい」ものである。
ホテル着 15:50
大きくはなかったが、親切であった。
こういうおもてなしがありがたいものである。
部屋もきれいだし。
宿泊ホテル クラウン・プラザ
ロシア旅行 No47 クレムリン観光 201509041536
世界の日本人妻は見た ロシア サンクトペテルブルク 18日02月2014年
華麗なるロシアを訪ねて=第2巻サンクトペテルブルク(後編)
華麗なるロシアを訪ねて=第1巻 サンクトペテルブルク(前編)