と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

最終日 さらばカナダ・アメリカ

2015年07月26日 06時40分09秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

朝9時30分にホテルCrownを出発。

トロント空港に到着。13:40発のエアカナダで、羽田に向かう。帰りは、12時間55分。こんなにかかるのでは、エコノミー席だとまたエコノミークラス症候群にかかっちまう。だから、行きも帰りも、ちょっと座席を奮発した。しょうがない。再入院になりたくない。主治医と相談して決めたことだ。もっとも、doctorには言われた。どっちにしてもなるときは、なる。だから運動だけはしてくださいな・・って。さらに、doctorにいろいろとご指導をいただいた。それで、今回の旅行が可能になったのだと感謝している。ありがとうねぇ~、主治医のせんせい!

くたばるまで、こうやってしぶとく旅行に行ってきますのでこれからもよろしくお願いします。(^0^)

トロント空港におもしろいのがあった。

このスーツケースは永遠に崩れないのだよ~ん。

茶目っ気のあるジー様でですな、ワシ。こういうポーズをすぐ思いつくということが、ちょいと他人と変わっているって言われる原因かも。トホホ。こんなことやっているの、ワシだけだったし。

 

ビジネスの食事はおいしかったと古女房ドノは言っていたが、ワシは・・・・・だった。どうせ美味いモンが出ても食えないのだから。病気だし。それにワインとか、ビールとか、特別に美味いもんも出たが、やはり一滴も呑めねぇ。残念無念でした。

ビジネスのシートでした。ワシの隣が空いていたから、ぱちりと撮ってみた。お世話になりました。これがあったから、無事帰国できました。(^-^)/

 

以上、実に長きにわたったカナダ・アメリカ旅行は終わり。

 

帰国して、またまた麻薬のように外国に行ってみたくなった。なんだか完全に病気ですよ~ん。ビョーキ。節制して、健康で残りの人生、あまり力まずに、生きていきまひょ、ってマジにそう思った。

完全に人生観変わってしまったしなぁ~。

今回の旅では。インディアンに触発されちまったし。

まったく、まったく。

残りの人生(余生ともいう)を、力まずに楽しむつもりです。生きていられるだけ幸せでありまする。

 

感謝。

感謝であります。

 

(^_^)ノ""""

 

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七日目 ご存じナイアガラの滝を満喫した

2015年07月25日 08時32分15秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

朝食会場に入ったら、すぐ目の前が。。。。。。。




朝起きて、ホテルの朝食会場に行った。11階にあった。エレベータを降りた。そしたら目の前がナイアガラの滝であった。粋なホテルのレストランである。これはこれは。なかなかのものである。ナイアガラの滝観光の老舗ホテルCrownだ。さすがである。経営開始以来80年だと、従業員のネパール人から聞いた。

聞いたついでに、彼にネパールへの旅行も勧められてしまった。長いこと横浜にいたとのことで、四カ国語話せるマルチリンガル(multilingual)であった。だから、日本語でしゃべったのだが、語学の学習の仕方とかいろいろ聞いてみた。字幕入りの映画で学習されたとか、Youtubeの活用とか、実際にその国の人としゃべってみることとか、たいへん勉強になりました。感謝してきた。

ホテルのレストラン。ここからナイアガラの滝が見える。アメリカ滝と、カナダ滝の両方である。

レストランから見える滝

こういう具合

朝食後ホテルの外に出てみる。Crownホテルがある。

こういう観光地にあったのは、ちょっと興ざめであった。

アメリカ滝

カモメがいくらでもいた。不思議なもんじゃ。逃げようともしない。

ちょっとポーズをとってくれた。

奥に見えるのが、カナダ滝 こっちの方が水量豊富。

こういう船に乗って、これから滝のすぐ近くまで出かけるのだ。楽しみ、楽しみ。

こういうのを無料で貸してくれるから、着こんで船に乗る

やはり近くで見るとなかなかの迫力だ

次に滝の裏側を見るために船を下りて移動

滝の裏側を見る

なんということもない。なんの光景かよくわからない。さらに意味もわからない(*^ー゜)

滝のすぐ近くまで行く。この手すりから落ちて死んだ日本のうら若き女性がいたということであった。すぐ近くまで行っている。危険である。

ワシに英語を教えてくれた「おさなご師匠」である(^0^)

幼児たちと話すとゆっくりだし、発音が綺麗だから、なかなか勉強になる。周囲の日本人が、ワシ、英語が話せると勘違いしたのか、どこから来たのか聞いてくれと言われた。わらっちまったなぁ。できねぇのに。もっとも、通じたけど。

こっちの子は隠れていて出てこなかったけど、ワシの懇願に応じてくれたよん。

かわいいねぇ。人形みたいじゃん。

 

小高い丘にケーブルカーで上がってそれから、街にショッピングに出かけた

Crownホテルに帰着した

夜は、ナイアガラの滝で花火を見た。

たった5分間であったけど、なかなかのもんである。土日限定のである。こっちは写真がない。ビデオにした。さらに夜のナイアガラの滝ライトアップも見た。アメリカ側と、カナダ側で交替でライトアップの費用を折半しているとのことであった。さもありなん。

 

以上である。

いよいよ明日は、帰国になる。もう寿命の関係で二度とナイアガラの滝を見ることもないだろう。

さらば、ナイアガラ!

 

ジャンジャン~~~~

 

 

 

 

 

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六日目は単なる移動日

2015年07月24日 08時33分00秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

セドナを8:25にスタート。

バスで。

200キロ、約二時間。

フェニックス空港から空路トロントへ。

約4時間。

トロント着が、19:54。時差が生じたのでさらに時計がめちゃくちゃになる。もうワケがわからない。

またバスに乗って、125キロ。約1時間30分。途中レストランに寄って、ナイアガラのホテル到着が、24時。こりゃマイッタ。(*^ー゜)

 

今日のホテルは、クラウンプラザ。

 

以上終わり。

 

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五日目 モニュメントバレーからグランドキャニオン、そしてセドナへ

2015年07月23日 13時43分26秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

朝の5時に、モニュメントバレーで、朝日が昇ってくるのを見る。。。。すばらしい!

 

なお、ウキペディアによるとモニュメントバレーとは以下のとおり↓


モニュメント・バレー(Monument Valley)は、アメリカ合衆国西南部のユタ州南部からアリゾナ州北部にかけて広がる地域一帯の名称である。

メサといわれるテーブル形の台地や、さらに浸食が進んだビュートといわれる岩山が点在し、あたかも記念碑(モニュメント)が並んでいるような景観を示していることからこの名がついた。

古くからのナバホ族居住地域で、居留地となった現在では、その一部はナバホ族管轄のもと一般に開放する形で公開されており、ナバホ族の聖地とも呼ばれ有名な観光地となっている。

 
ナバホランド

地形

コロラド高原の一部に属しているこの地域は、深い渓谷や山間台地が点在している。独特の地形は、2億7千万年位前の地層が現われたものが風化浸食によって形成されたといわれている。現在でも風化が進んでいるため、岩山の形は変わる可能性がある。

ロッキー山脈からの鉄分を大量に含んだ川の流れは、下流地域一帯に沈泥となって堆積し、当時の酸素濃度は現在よりも高かったため鉄分の酸化が急速に進み茶褐色の地表となった。

歴史

遺跡が多数発見されている事から、古くから先住民が存在したことは確かだが、西暦1300年頃を境に先住民は姿を消している。

その後、年代は不明だがナバホ族が定住するようになり、19世紀半ばの「ナバホ・キャンペーン」「ロング・ウォーク」と呼ばれる白人による略奪・迫害を経て現在に至っている。

気候

砂漠気候のため雨はほとんど降らない。真冬に降雪が見られることがあるが積もるほどではない。12月~2月の最高気温は10度C以下で最低気温は零下になる。5月~9月の最高気温は25度C~33度C。日没後の気温低下が大きい。

交通・観光

世界中から観光客が訪れる人気観光地だが、公共交通が通っていないため多くの観光客は国道163号線からバス等の自動車で移動する。 シーニック航空ラスベガスからグランド・キャニオン上空を遊覧し公園入り口近くのモニュメント・バレー空港へ飛行機を飛ばし、日帰りツアーを毎日催行していたが現在は休止している。[1]

 
『捜索者』の一場面

ジョン・フォード・ポイント

映画監督ジョン・フォードは、『駅馬車』や『捜索者』などジョン・ウェイン主演・西部劇の舞台として多数の映画撮影を当地で行っている。

監督が好んで映画カメラを設置したモニュメント・バレーを一望できる場所は、ジョン・フォードポイントJohn Ford's Point)と呼ばれ有名なビュースポットとなっている。

主な作品

上記ジョン・フォード作品以外にも、多数の映画やCM等で撮影の舞台となっている。以下は、その代表的な作品。

ご来光ですよ~

 

西部劇の世界ですなぁ~

そしていよいよグランドキャニオンへ

バスで250キロ 約3時間

途中のPost Office

いよいよ到着しました!

グランドキャニオン

 

下の谷に見える道は、登山道だそうだ。のぼるのに7時間かかるそうな

野生のリスがいたよ~

 

次はセドナへ 

バスで180キロ 約2時間

祈りと霊の町だ。楽しみにしていた。ちなみにセドナとは、ウキペディアによると以下のとおり。

 


セドナSedona)は、アメリカ合衆国アリゾナ州中北部、州都フェニックスより北に向かい車で2時間の場所にある街。人口11,483人(2007年)。

概要

個性的な形をした赤い砂岩の岩山に囲まれた場所である。岩山には、「ベルロック」、「カセドラルロック」、「コーヒーポットロック」、「スヌーピーロック」などの愛称が付けられている。

古来、ネイティブ・アメリカンが聖なる場所(聖地)とあがめた場所だった[1]。ネイティブアメリカンのハバスパイ族はこの地に900年ほど前から棲んでいたという[1]。ハバスパイ族はこの地を「ウィー グァルコ ホル ホルバ wee gualko horu horuba」(=大地からブクブク泡立つ岩)と呼んでいる[1]。そして、この大地に立つだけで、先祖からエネルギーや波動を受け取れる、と考えていて[1]、この地に立つこと自体が重要な儀式なのだ、と考えている[1]

1876年白人が初めて入植。現在の都市名は町の初代郵便局長セオドア・カールトン・シュネブリーの妻セドナに由来する。 入植が始まっても、しばらくの間は、大きな街にはならなかった[1]。だが、1970年代にセドナは大きく変化した[1]。vortexの街として注目されたのがきっかけだった。既存の価値観に反発し、スピリチュアルな世界を信じる人々や、当時多かった「 hippie ヒッピー 」と呼ばれる人々が、vortexを求めて、大挙してこの地に押し寄せてきたのだった[1][2] このようにして、もともとネイティブアメリカンの聖地だった場所は、「スピリチュアルな街」になり、世界中から、国籍や宗教を超えて、人々を吸い寄せるようになったのである[1]

近年では、セドナにはvortex ボルテックスと呼ばれるパワースポットが10カ所ほどあるとされている[1]。セドナは「スピリチュアル」な場所、"癒しの町"として人気があり、年間に約400万人の観光客が訪れる観光地・保養地となっている。米国内や世界各地からスピリチュアルなことに興味がある人が訪れており、毎日のように、岩山の上などのvortexで瞑想会などが開かれている。

セドナの町にある店も、普通の観光地の店とは少し異なっており、店の看板には「psychic サイキック(超能力)」や「オーラ」などの文字が躍る[1]。「パワーストーン」(「力がある」とされる石)を売る店もあり、特に水晶を置いている店は多い(ただし、水晶はセドナ産というわけではなく、ブラジル産とのこと[1])。あちこちに「霊能力者」と名乗る人がいるという[1]。街のカフェレストランでは、人々は前世死後の世界のことを自然に語りあっている[1]ヒーリングの店もあって、日本で生まれたレイキのヒーリングをやっている店もあるという[1]

セドナのことを科学的に調査しようとする人はほとんどいないが[1]、セドナでvortexについて科学的に解明しようと、15年ほど前から、休日ごとにセドナのvortexを自主的に訪れては調べている技術者もいるという[1]。ベンジャミン・ロントリー、という男性である[1]。コイルなどを使った磁力計などで地面の磁力(地磁気)を計測しノートPCで解析し、また、同時に、地面に横たわる人などの脳波を測定し、地磁気と脳波の相関関係を調べている[1]。なんでも、セドナは、他の土地よりも地磁気が強いという[1]。そして、「その地磁気が脳波に良い影響を与えている」とする説明が、ロントリー氏の今の仮説だという[1]。ロントリー氏が、セドナのことを調べるようになったきっかけは、娘二人を事故で亡くしたことで、失意の底にあったロントリーは、セドナに救いを求めてやってきて、やがてセドナの力について興味を持ち調べるようになったという[1]。ロントリー氏の説明によると、瞑想などをしたら、その後、感謝の気持ちをあらわすために、タバコの葉を木に備えるのがネイティブアメリカンの作法だという[1]

一度セドナを訪れると、魅せられてリピーターになる人も多いという[1]。そして移住してくる人も多いという。セドナの住民の7割はそうした移住者だという[1]

もともとヒーリングなどに興味がある人、他の地域では「変わった人」などと呼ばれてしまうような人が、この街にくるとまるで故郷に帰ってきたような気持ちになれ、移住してくることになる[1]

日本からは、飛行機を乗り継いで20時間ほどでたどりつく場所である


 

ベルロックが奥の方に見える

こんなのが置いてあるのがいかにもアメリカ

ベルロックからの波動を受けてしまったよ。ワシ、けっこう感受性豊かなんじゃな(*^ー゜)

これはバスの中から撮ったもの

先住民族伝説の美女、バードウーマンだそうな

 

セドナで泊まったhotel アラベラホテル

 

今日もよい天気であった

 

 

 

 

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四日目 ラスベガスからペイジへ、アンテロープキャニオン

2015年07月22日 06時23分01秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

 

延々とバスで移動 なんと441キロ 約5時間 バスのドライバーが愉快なアメリカ人で、ワシのバブバブしかしゃべれない幼児英語でもなんとか通じたよん。英語は度胸じゃ!わははははははのは。

バスから見える西部の荒野

コロラド川の勇姿

コレも

西部劇のガンマンになったつもり・・・?

だんだんと広がってきたコロラド川

しかし、しかし広大だなぁ~

途中レストルームを借りたコロラドの博物館があったビジターセンター

 

ダムじゃよ。このダムができたから、水の便がよくなって人が住めるようになったらしい。ここもウキペディアから引用してみる。

 


フーバーダム (Hoover Dam) は、アメリカ合衆国の多目的ダムアリゾナ州ネバダ州の州境に位置するコロラド川のブラック峡谷にある。

 

概要

フーバーダムは、1931年に着工し、1936年に竣工した。ルーズベルト大統領のニューディール政策の一環として建設されたとの話もあるが、着工は大統領就任の前である。ダムの建設作業にあたって熱射病のため122人が死亡した。また、1940年には貯水が原因と思われるM5の誘発地震が発生している。

建設当時の名称はボールダーダムBoulder Dam)だったが、1947年に着工当時の大統領ハーバート・フーヴァーにちなんで改称された。フーバーダムの堤頂の道路は、国道93号線である。片側1車線でボトルネックとなっているため、ダム直下にバイパス道路として日本の大林組によりコロラドリバー橋が建設された。

型式は重力式アーチダム、高さ221m、長さ379mで、ダム湖はミード湖と呼ばれ、貯水量は約400億トン。日本には約2,500基のダムがあるが、それらの貯水量の合計は250億トン程度である。日本最大の湖である琵琶湖の貯水量でも280億トン程度である。フーバーダムで発電された電力は、カリフォルニア州アリゾナ州、ダムの北西48kmと近いラスベガスなどに供給されている。

ダムの完成により、広大な乾燥地で灌漑農業を行うことが可能となったが、同時に下流域では塩類集積の害が見られるようになった。1961年、下流のメキシコは、1944年に締結した「コロラド川、ティファナ川およびリオ・グランデ川の水利用に関するアメリカとメキシコ間の条約」に違反し、国際水域を汚染したとしてアメリカへ抗議を行っている[1]

フーバーダムは1985年にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。


 

 

コロラドの谷 西部開拓時代には、モルモン教徒が右の谷から、左の谷に渡るのに三ヶ月を要したという

アンテロープキャニオンに行くジープの発着場で先住民族の男性が踊りを披露してくれた。ワシは、これはビデオに撮影したので、この程度。

アンテロープキャニオンに到着した。凄い砂埃である。ここには良い格好で来たらアカン。

 

(^-^)/

 

またウキペディアの引用です↓

 


アンテロープ・キャニオン(英名:Antelope Canyon)は、アメリカ合衆国アリゾナ州ページ(Page, Arizona)近郊の、ナバホ族の土地に位置する渓谷。アメリカ南西部では、最も写真撮影され多くの人々が訪れるスロット・キャニオン(幅の狭い渓谷)である。アンテロープ・キャニオンは2つの岩層から成り、個々にアッパー・アンテロープ・キャニオンとロウワー・アンテロープ・キャニオンと名づけられている。

地質

アンテロープ・キャニオンは他のスロット・キャニオンと同じく、周囲の砂岩(ここではナバホ砂岩)の侵食によりできた何百年にも及ぶ地層を形成しており、これは主として鉄砲水のほか、風成の侵食によるものである。特にモンスーンの 時期に降る雨水はアンテロープ・キャニオンの一部である谷間を流れ、より狭い通路を流れるにつれ水は加速して砂を拾いあげる。その後長い時間をかけて通路 が侵食されると、狭い通路は更に広くなり岩の鋭さはより滑らかにされて、岩の「流れる」ような特徴を形作る。こうして独特の岩の通路が、長い時間をかけ完 成された。

観光

アンテロープ・キャニオンは写真家や観光客には人気の場所であり、ナバホ居留区(ナバホ・ネイション)の観光ビジネス源にもなっている。

アッパー・アンテロープ・キャニオン

ナバホの言葉で「水が岩を流れる場所」という意味の、ツェー・ビガニリニ(Tse bighanilini)とも呼ばれるアッパー・アンテロープ・キャニオンは、正確には西経111度22分20秒・北緯36度51分28秒の位置にある。 この場所は観光客が最も頻繁に訪れる場所であるが、それには2つの理由がある。一つは、その入り口と全長が地表と同じ位置にあり、岩などを登る必要性が無 いためだ。もう一つの理由としては、キャニオン頭頂の開口部から直接放射する太陽光の光線が、ロウワー・アンテロープ・キャニオンよりもアッパー・アンテロープ・キャニオンによく起こるためである。特に夏期間は、太陽が空高く昇った時この光線がよく見られるという。

ロウワー・アンテロープ・キャニオン

ナバホの言葉で「螺旋の岩石アーチ」という意味である、ハスデトワジ(Hasdeztwazi)の別名もあるロウワー・アンテロープ・キャニオン は、アッパー・アンテロープ・キャニオンから数キロ離れた場所に位置する。鉄製の階段が取り付けられる以前は、キャニオンを訪れるために一定の場所をロープや はしごで登らなくてはならなかった。階段が設置されている現在も、長く狭い場所も多い上、全体を通して足場が悪いなどアッパー・アンテロープ・キャニオン と比べて散策が困難である。こうした制限された状態にあるものの、ロウアー・アンテロープ・キャニオンはかなりの数の写真家を惹きつけているが、アッ パー・アンテロープ・キャニオンより単なる観光目的で訪れる旅行者は少ない。

鉄砲水の危険性

モンスーンの時期に思いがけず降る雨がすぐにキャニオンを水浸しにしてしまうため、アンテロープ・キャニオンは専ら案内人付きの旅行で訪れる観光客がほとんどである。キャニオン近く及び真上から降る雨が必ずしも激しい鉄砲水になるのではなく、キャニオンの「上流」となる数十マイル離れた場所で降る雨が、ほとんど予告無しにキャニオンへ注ぎ込んでくる。過去の事故例として1997年8月12日、ロウワー・アンテロープ・キャニオンを訪れていた11人の観光客が鉄砲水の犠牲となる事故が発生した。その日キャニオンにはほとんど雨は降っていなかった。


 

凄い!凄い!の連発なり。バスで延々5時間も乗ったかいがあった。

別にライトアップされているわけではない。自然の明かりである。

これもそのまんま、こういうように見える。

出口付近。折り返すのだけれども。

バスの中でオオツノジカの写真を見る

今日の宿泊先のhotel ハンプトン カイエンタ 先住民の方が経営しておられてアルコール厳禁。ワシには好都合だったケド。

けっこうきれいな部屋だった

暖炉があった

夕食は先住民族の料理でナバホタコというもの。かなりおいしい。こういうのを食べたことがなかった・・・・・マジに。

 

本日はこれにてバタンキュウ~・・・・水不足の土地なので、シャワーも十分出ないということであったので、注意して身体を清めた。

明日はいよいよモニュメントバレーである。楽しみ、楽しみ。

じゃぁねぇ~。お休みなさいませ。

 

 

 

 

 

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三日目 バンフからラスベガスへ

2015年07月21日 07時59分45秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

 三日目は、ヨーホー国立公園をめぐる

 

モレーンレイクに最初に行く。ここは、かなりのお気に入り。 またウキペディアから引用してみよう。


モレーン湖(モレーンこ、英語: Moraine Lake)は、カナダアルバータ州レイク・ルイーズ近郊、標高1,884mに位置する氷河湖である。バンフ国立公園内にある。面積は0.5km²であり、湖の後方にはかつて20カナダドルの絵柄にも採用された「テンピークス」という10の頂がそびえ立つ。

氷河雪解け水によって形成されるモレーン湖は6月下旬まで満水にならないが、夏のバカンスシーズンにはターコイズブルー(トルコ石の青色)の非常に美しい湖水を満々とたたえ、多くの観光客の心を捉えて離さない。この不思議なまでに青い水は、雪解け水と一緒に流入する氷河によって削り取られた微細な土砂が湖水を浮遊し光が屈折するためであると言われている。

湖の周辺には数々のトレイル(遊歩道)が整備されているが、グリズリーベアの出現が頻繁にあるため都度閉鎖される。熊との遭遇を避け、熊の生態を保護するためにトレイルは最低6人以上のグループでハイキングするように定められている。

初心者向けの気軽な遊歩道がロックパイルトレイルであり、総延長300m、高低差24mと手ごろな長さであるため多くの観光客が散策を楽しむ。またロックパイルトレイルの終点はカナダでも有数の格好の写真撮影ポイントにもなっており多くの人々がシャッターを切る。

ロックパイルトレイルと同じ始点からはコンソレーション・レイクトレイルがあり、このトレイルは総延長2km、高低差90mある。このトレイルの終 点からは、モレーン湖の後ろ半分(奥まったところに位置しておりトレイルを上らないと見ることはできない)を見ることができる。しかし途中道無き道を歩 き、さらに大きな岩をよじ登っていかなければならない。

駐車場から程近い湖正面にはロッジが立っており、そこの湖畔にはカヌー用の桟橋がある。そこに別のトレイルの始点があり二股に分かれた後、4つのトレイルに分かれている。


 

ちなみにこのイケメン男性は、私では無い(^_^)

 

 

次に行ったのが、ナチュラル・ブリッジ。

ナチュラル・ブリッジは、長い時間とキッキングホース川の膨大な水量により川底のライムストーンを削って造った自然の橋。実際には「橋」の中央は切れており、その橋の切れ目からは渦を巻き水の流れが眺められる。でも、危ない。ここを渡ったら死んじまうですな。

 

 

次にエメラルドレイク。

なかなかの美。色がいい。ヨーホー国立公園にある。湖面はその名の通り、エメラルド色。カナディアンロッキーでは、他の湖に比べ標高が低く、早く春を迎える湖。ほぼ平坦な湖畔(約4.5キロメートル)を、一周することができ、時期に行くと、至る所に野生の花が見られるそうだ。湖畔にエメラルド・レイク・ロッジがあり、湖には一年中訪れる事ができる。タクリを観察するのであれば5月中旬から6月初旬、アツモリソウは6月下旬から7月中旬が良い時期と言える。開花時期はその年の残雪量により違ってくるそうな。

小鳥ちゃんがいたよん。まったく物怖じしないのが気に入ってしまった。

こんな小さいこどもがカヌーを操っていたのだから、おそれいった。

鉱山採石の研究者にはたまらん魅力のある山なんだそうな。よくわかんなかったけど。

 

 

カルガリー空港から、空路ラスベガスへ

約2時間51分かかった。空路で。

狭い飛行機だった。エアカナダ。

 

ラスベガスのhotel circus・circusに到着

 さすがラスベガス。キンキラでしたよ。(^_^)

夕食と朝食をホテル内でとる

この隣が、有名なカジノであった。やらなかったけど。

circus hotelから外を見た

 

 

以上、三日目終了。しかし長距離の旅である。

疲れたねぇ(^_^)

 

 

 

 

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二日目 キャッスルマウンテンからスカイウオークまで

2015年07月20日 07時35分21秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

これがかの有名なキャッスルマウンテン。バスの車窓から。

ウキペディアによると以下のとおりである。↓


 

キャッスル・マウンテンは、バンフ国立公園内にあるカナディアン・ロッキーの山である。

「キャッスル・マウンテン」の名称は、西洋の城に似ていることから1858年ジェームス・ヘクターによって名づけられた。第二次世界大戦の終戦後、アメリカアイゼンハワー大統領がカナダを訪れたのを記念して、「アイゼンハワー山」と改称した。しかし、地元からの強い要請もあり1983年には元の名前に戻った。「アイゼンハワー」の名は、南東の峰に残されている。

山塊は、2862m のセントヘレナ峰・2850m のスチュワートノブ・2970m のテレビ峰などを含むいくつかの高地が存在する。テレビ峰は、テレビ番組のリポーターが最初に降り立ったことからそう呼ばれている。彼らは、ヘリコプターで頂上に降り立ったりもした。

トランスカナダハイウェイか ら見通せない北東の斜面から頂まで登ることができる。高速道路から見ると頂までの道のりは厳しそうに感じられるが、裏側にあるロックバウンド湖の方を回る と見た目よりは簡単に登ることができる。がけの裂け目から湖の上への道がある。非常に長い道のりで、往復で12時間を必要とする。

セントヘレナ峰へは小石が多く厳しい道のりである。


バンフのhotelを、朝、8時にスタート

ボウ川を眺めながら快適な朝

山頂に氷河が見える

レイクルイーズに到着(この写真、私の下手くそな写真技術でもこれだけ綺麗に撮れた・・)

ここは美しい。正面の氷河が一部小規模ながら崩れる場面を見てしまった。音も凄かった。感動ものだったですな。

 

またウキペディアから引用してみよう。


レイク・ルイーズ(Lake Louise)は、カナダアルバータ州バンフ国立公園内にある及びその近くにある小村の名前である。氷河から解け出た水に含まれる岩粉により、湖は独特なエメラルド色をしている。湖周辺ではハイキング登山の他、スキーを楽しむこともできる。水面の標高は1536m である。

レイク・ルイーズの名前は、ヴィクトリア女王の4女でありカナダ総督ジョン・キャンベル夫人であったルイーズ・キャロライン・アルバータに由来している。アルバータ州の名前も彼女に由来している。

村は、カルガリーからトランスカナダハイウェイを通って西に180kmほど行った先にある。この集落は、湖といくつもの雪をかぶった山々に囲まれている。村には「サムソン・モール」という名の売店を兼ねた観光案内所がある。レイク・ルイーズスキー場もここにある。

湖の東岸には、シャトー・レイク・ルイーズというホテルがある。このホテルは AAA と CAA により、4つ星のホテルに格付けされている。このホテルは19世紀末から20世紀初頭にカナダ太平洋鉄道が建設したもので、同じロッキー山中のバンフ・スプリングス・ホテル、ケベックのシャトー・フロンテナック等とともにフェアモント・ホテルズ系列である。いくつかのハイキングコースがこのホテルを出発点にしている。


綺麗じゃよ。この世のものとは思えない程。

解説の看板に熊が出てきているのがカナダ・ロッキーらしい。

鷹の爪とか言われる氷河

クロウフット氷河 これから雪上車であそこに行く

 

またウキペディアによると以下のとおりである。


クロウフット氷河は、おおよそ北緯51度38分03秒、西経116度26分04秒付近に位置しており、ここはカナダアルバータ州に属する。またこの場所は、レイク・ルイーズの町の北西約32kmほどの所であり、この氷河はレイク・ルイーズの町とジャスパーの町とを結ぶアルバータ州の高速道路93号線のアイスフィールド高速道路英語版からも見ることができた。

縮小するクロウフット氷河

2012年現在のクロウフット氷河は、クロウフット山の北東斜面を流れ降っているだけの氷河に過ぎないが、かつてはワプタ氷原につながっていて、そこから流れ出す氷河であった。ワプタ氷原も含めてカナディアンロッキーに存在する氷河や氷原は縮小傾向にあるわけだが、ワプタ氷原が縮小して、このクロウフット氷河は氷原から分離してしまったのである。さらに縮小傾向にあるのはクロウフット氷河についても言えることで、1850年頃に小氷期が終わってから後、この氷河は後退していっている(短くなっていっている)。 また、この氷河の名称「Crowfoot 」の由来ともなった、かつてこの氷河の命名を行った時には存在していた氷河の形状も、現在では融解してしまって完全に失われてしまった [注釈 1] 。 さらに、1980年代には約5km2あったこの氷河の面積も、2006年現在では約1.5km2にまで縮小してしまっていた。

クロウフット氷河からの水の流れ

クロウフット氷河は、北アメリカ大陸の大陸分水界の近くに存在する氷河の1つである。そしてこの氷河は、大陸分水界の東側に位置していて、この氷河の末端部で融解した水は、ボウ川へと流れ込んでいる。このボウ川へと流れ込んだ融解水は、その後幾つもの川や湖を経由して、最終的にネルソン川から北極海の一部であるハドソン湾へと注いでいる。


 

雪上車までは専用のバスで行く

雪上車と共に。全世界に17台しかないそうだ。農機具メーカーが生産していると現地ガイドが言っていた。

雪上車の中から野生のオオツノジカ?の家族が見られた。かなり珍しいということだった。

スカイウオークである。

かなり気持ちが悪い(^_^)

よくまぁこんなところに、こんなものを作ったもんである。雪上車の経営会社が雪上車観光とタイアップして作ったもので、同じチケットを買わないとここには来られない。ま、それもありか。所詮資本主義国家だからなぁ。

下を見ると足がすくむです(^_^)

 

 

さらにボウレイクに向かう。

いいなぁ。なだらかで、女性的な光景でもある。一番気に入ったですなぁ。

またバンフに戻った。

大陸横断鉄道だった。

バンフは素敵な町ですよん。

 

 

二日目はこれで終わり。

hotelは、同じインズ・オブ・バンフであった。

 

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サルファーマウンテンゴンドラからボウ滝まで

2015年07月19日 08時46分00秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

バンフで人気ナンバーワンのアトラクション! バンフゴンドラ

バンフの町にかかる唯一のゴンドラ(C) Brewster

バンフの町からわずか10分でアクセスできるのがサルファー山に架かるバンフゴンドラ。バンフの町や3000m級の山々を望むことができる展望台へ行け ば、カナディアンロッキーに来た!と実感できること間違いなし。アクセスの簡単さもあって、ロッキーのアトラクションの中でも非常に高い人気を誇ります。(ウキペディアから引用)

 

 

ボウ滝

マリリンモンローの映画”返らざる河”のロケで使われたところ。冬のボウ滝も迫力がある。

モンローが写っていらしたよん

バスのドライバー 日本人だった 奥様がカナダ人だということだった

バンフ市内に戻って バスであちこちと

これはスクールバス

この恐ろしいバスに乗った (^_^)

 

インズ オブ バンフ (Inns of Banff)に宿泊 連泊

 

 

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カルガリー空港からバンフへ(カスケードガーデンまで)

2015年07月19日 06時47分57秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

空港からバンフへ行く途中のバスの中からロッキーを見る

ようやく着いたバンフ市内

バンフ市内のレストランで

サプライズコーナーという場所から中世のお城のようなhotelが見える

 

同上

サプライズコーナーから見える周辺の山々

 やはりサプライズコーナー

同上

バンフ市内のカスケードガーデンに行く これはカナダの環境管理のお役所

カスケードガーデンから カスケード山の勇姿 すぐ近くに見える

バンフ市内からのカスケード山

 

カルガリー空港からバンフまで120キロ。

バスで90分。

けっこうかかりますねぇ~。

バンフというのは、ウキペディアによると以下のとおり。

 


 

カルガリーからトランスカナダハイウェイで西へ127km、ブリティッシュコロンビア州との州境近くのレイク・ルイーズまで60kmの位置にある。標高1,384 mにありレイク・ルイーズに次いでカナダで2番目に標高の高い居住地である。

サスカチュワン川の支流の1つであるボウ川を挟み、カナディアン・ロッキーの山々に囲まれている。

  • カスケード山(Cascade Mountain; 2998 m)
  • ランドル山(Mount Rundle; 2949 m)
  • ノーケイ山(Mount Norquay; 2134 m)
  • サルファー山(Sulphur Mountain; 2281 m)

周囲には湖が点在しているが大きなものとして市街の北東にミネワンカ湖(Lake Minnewanka; 21.5 km2)がある。

歴史

バンフの街はカナディアン・パシフィック鉄道によって1880年代に観光地として作られた。同社の3人の作業員が1883年に偶然に温泉を見つけた(現・ケイヴ・アンド・ベイスン国定史跡)のがきっかけである。1884年、カナディアン・パシフィック鉄道社長のジョージ・ステファン(George Stephen)によって彼の生まれ故郷のスコットランドのバンフシャイアに因んでバンフと命名された。 1885年に連邦政府が周辺26平方キロを保護区とし、鉄道経営を後押しする狙いもありリゾート地として宣伝した。1887年保護区は673平方キロに拡大され、「ロッキー・マウンテン・パーク」と命名された。これがカナダにおける国立公園の最初である。カナディアン・パシフィック鉄道は沿線の開発を進め、バンフ国立公園となったこの地域をリゾート地として宣伝した。その目玉施設として豪華なバンフ・スプリングス・ホテルを建設した。[2] また今日のバンフの盛況を築いた人物として、ノーマン・ラクストン(Norman Luxton)が挙げられる。ラクストンはローカル紙Crag and Canyonを発行し、ホテル、劇場、博物館などを建設し、「Mr.バンフ」と呼ばれた。[3]

1972年冬季オリンピックの開催地として立候補したが、開催の決まった札幌の32票に敗れ、16票で次点であった。1976年、国際天文学連合は火星の北緯17.7度西経30.8度に位置する直径5kmのクレーターにバンフと命名した。 [4] 1985年、バンフ国立公園を含む一帯がカナディアン・ロッキー山脈自然公園群として世界遺産に登録された。1991年には冬季デフリンピックが開催されている。 1990年に自治体としての町が編制され、これはカナダの国立公園内で初めてのことである。

気候

亜寒帯気候(Dfc)に属するが湿潤大陸性気候(Dfb)との境界にほど近い。1995年ま で観測が行われていたカナダ環境省による気象データによると、1月の平均気温は-9.3℃、7月の平均気温は14.6℃と標高1,383mの高地に位置し ているために夏も冷涼であり、1年を通して寒冷である。年間降雪量は234cmとなっており、それほど多くは無い。過去最高気温は1934年7月28日の 34.4℃、過去最低気温は1950年1月25日の-51.2℃である。

 

 

 

 

 

 

 

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成田からカルガリー空港到着

2015年07月18日 06時34分17秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

あのまま、居住地の巨大病院で死んでいたら、この雄大なロッキーの山々は見ることができなかった。生きてて良かったとしみじみ思った。

カルガリー空港にて

 

成田発16:00であった。飛び立ったのが。エアカナダという飛行機であった。事前に評判を調べたら、あまり良く無い。日本人CAが少ないというので、サービスが?と書かれていた。それに食事も同様だと書かれていた。そりゃそうだろう。ANAとかJALと比べられたら、かわいそうというものである。

そんなことより、座席が広くないと困る。なにしろこっちは病み上がりだ。エコノミークラス症候群で入院したのだから。なにも飛行機の乗りすぎではない。そんなに旅行した記憶はない。茅屋の書庫で閉じこもりっきりで、ゴミ論文を一気呵成に書きすぎたという笑えない冗談からエコノミークラス症候群になっちまったバカ爺である。まったく笑えない。笑えないどころか、未だに古女房ドノに叱責される。論文書きすぎて、病気になるバカがどこにいるという論調である。

確かにそうだ。

年齢を考えよということだ。うら若き俊秀と勝負しようとしたのが、そもそもの間違いの発端であった。それに、社会人学生というか、老人学生に学位を発行してくれるほど大学も甘くはねぇというもんじゃ。当たり前である。これから大いに飛翔しようという方と、これからくたばる爺では比較にならない。もったいないではないか。学位の発行に定数があるのなら、爺はまっさきに除外されるのは目に見えていた。

そこらへんがわかっていなかったんだよん。

だからエアカナダという飛行機会社を比較して、ここに文句は書かない。そんなもんだと思えばいいのだ。そんなもん。大学と一緒である。大学なんてそれこそ掃いて捨てるほどある。それに東大なら質も保障されるってぇいうことくらい、いかなアホでもわかっている。それくらいの学力がなければ、博士を目指してはならんというこった。

しかし、ビジネスクラスの座席は快適であった。それこそ東大並みの評価の高さであった。何故か。座席がビジネスクラス全員、斜めになっているからである。これは他の航空会社のビジネスクラスとは違っていた。そんなに何度も乗ったことはないが、エコノミークラスに乗るために、通りかかったことはあったからだ。

斜めだから快適なのである。プライバシーが完全に近いほど守られている。読書灯も他人を意識しないで済む。

それにビジネスクラス専用のトイレもあった。人数に比較して数もあたりめぇに多かったから、まぁこんなもんだろうと満足した。ただし、清掃は行き届いていない。コレはANAとかJALにはかなわない。やはり日本人スタッフというのは、違う。気配りが。マレーシア航空とか中華航空、大韓航空も良かったが、あれはあれで機内食が良く無かった。

エアカナダは、機内食も事前の評価では良く無かった。カップラーメンが出てくるとインターネットでさんざんに書かれていた。覚悟していた。そしたら、カップラーメンは出てこなかった。個人的に食いたいヒトだけのオーダーでしかなかった。

結論は、並みである。そんなにおいしくもないが、まずくもない。さらにアルコールがおいしそうだった。でも、こっちは呑めない。呑んだら死んじまう。

だから、がまんした。わはははっははっはははである。

やればやれるもんだ。美味そうだったが。よだれが出そうだったよん。

行くときは、9時間45分かかった。機内食2回である。相当な時間がかかった。まさにビジネスクラスでないと、途中でエコノミークラス症候群を再発した可能性がある。だから機内で運動ばかりしていた。足を揉んだり、つま先立ちの運動、スクワット等々である。それができるだけのスペースがあるからだ。変わりもんだと言われてもいい。そんなことより、命あってのモノダネである。もっとも、飛行機が落っこちたらどうしようもないが。

途中、日付変更線を超えた。だから一日前に逆戻りである。不思議な感じである。タイムマシンに乗ったのだろうから。

夕方、成田を出発したのに、アメリカ大陸に近づいたら明るいのだから。

カルガリー空港に到着したのは、10:45である。高度を段々と下げていったときに、座席の窓から見えたのが、カナダである。

さらに感動したのが、機内から見えたロッキーの山並みである。おおおおおお、これが憧れのロッキーかと思った。とうとう来ることができたのである。

あのまま、居住地の巨大病院で死んでいたら、この雄大なロッキーの山々は見ることができなかった。生きてて良かったとしみじみ思った。死んでしまったら、こんな風景は見る事もできない。学位を諦めて退学して良かったとも思った。生きていてこそである。生きているから旅行もできる。学位にこだわって、ゴミ論文を書いていたら、古女房ドノに離婚されちまっただろうし、こんな風に旅行もできなかっただろう。だいいち、そんな暇は無かっただろう。ゴミを生産するためだけの時間の無駄使いであったのだから。

カルガリー空港は綺麗な空港であった。まるで、村上春樹の真っ赤な嘘話に出てきそうな場面設定である。

そして、これからがロッキー観光のメインである「バンフ」の旅が始まるのである。マリリンモンローも来た土地である。

楽しみ、楽しみである。

 

けふは、これから千駄ヶ谷の国立能楽堂に行ってくる。

能の「俊寛」を見る爲である。

興福寺の勧進能である。

多川俊映貫首さまもこられるようだ。

こっちも楽しみである。

 

それではこのあたりで。

 

(^_^)ノ””””。

 

 

 

 

 

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カナダには、成田空港から行った

2015年07月17日 08時15分12秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

成田空港のANAラウンジだが、どこのラウンジであっても、飲むものは一緒であった。

 

 


カナダには、成田空港から行った。居住地から近い。しかし、九十九里浜から一直線に鉄路が走っているわけではない。成田の高校にassistant principalで勤務していたことがあって(二年間)、鉄路がナイからずっと迂回して学校まで行っていた。成田は都会でも、こっちは田舎暮らしである。だから、不便だと思っていた。

しかし、今回は違った。退学した大学でクラスメイトであった中国人留学生からバスがあるのを聞いたことがあったので、記憶力のいいアタシャそれを覚えていたのである。だから、そのバスを使って行ったのだ。なんと片道300円で行けた。バス停で、あるご婦人にこのバス停でよろしいかとお聞きしたら、まちがいなかった。灯台もと暗しとはこのことである。知らなかった。もっともあれか。そのご婦人も中国人のような言葉を使っていたから(日本語の発音が独特であるからわかる)、成田で働いている方かなぁと思っていた。こんな田舎でも、空港が近いというだけで国際化しているのだ。ありがたいことである。こんなバスがあったんだったら、成田の高校に勤務しているときでも、使うべきであった。もう遅いケド。

成田空港は、地元にいろいろと経済的な利便を図ってくれている。事実、成田空港に離着陸する飛行機がすぐ上空を飛んでいる九十九里浜である。そういう高校のやはり assistant principalもやっていたことがあったので、air conditionerの設置・工事とかは全て無料であったのだ。

そりゃそうだ。

学校の上空を飛行機がひっきりなしに飛んでいたら、授業にならない。当たり前である。教師たちの言うことが聞こえない。もっとも聞きたくない生徒には、かえってありがたいのかもしれないケド(^_^)。

今回、ビジネスクラスで行ったので、写真のようにANAのラウンジを利用することができた。

素敵なラウンジである。一度、こういう場所に出入りして、金持ちというものがどういう場所で飛行機のフライトまで過ごしているのか経験してみたかった。だから楽しみにしていた。しかし、がっかりした。なんだ、こんな程度かという案配である。たいしたことはなかった。だいいち、アタシャ金持ちでもなんでもない。それに周囲にもそれらしき金持ちもいない。かえって金持ちほど、そういう贅沢はしない。

ビルゲイツが、絶対にファーストクラスに乗らないということを聞いたことがあったが、さもありなん。金持ちほど、ケチである。あたりめぇである。でないとカネは、向こうから逃げていくのだよん。

もっとも、アタシャ、カネにはまるっきり縁が無いが。縁が無いというと、オナゴにも縁がない。わはははっははははである。

なにごとにもご縁が一番である。関係性とか言うらしいが、私のように田舎で暮らしていると、やはりご縁の方がしっくりくる。もっとも、この言葉は仏教用語であって、そっちから来ている。一神教が、唯一絶対神のGodというものを設定しているのとはちょっと違う。それになんで唯一絶対神が人間の姿をしているのかということも、アタシャ昔から不思議であった。今も不思議だと思っているのだが。なんかいろいろ書いてある書物も読んだけど、まだこのことについては納得がいかない。(^-^)/

組織とのご縁というのもある。

会社とか、仕事先とか、家族とかいろいろとある。私の場合は、大学生であったから大学ということになろうか。定職を持っていないのだから、仕事は関係がない。つまりご縁がない。所詮アルバイトである。だから、関係性は薄い。アタシの頭髪のようなもので、まったく薄い。あるかないかわからないくらい薄いのだ。もっとも、いまさらである。いまさら、フサフサになったら疑われる。アレである。アレ。カタカナ用語の頭髪メーカーの作っている製品をかぶっているのではないかということだ。かぶってないケド。

そして、組織というものの正統性ということをよく考えるのだ。マジにである。あるいは絶対性というものということである。そもそも、正統性とか絶対性なんてあり得るのだろうかと思うからだ。

教育だってそうだ。現代の教育制度だって、たかだか100年ちょっとの歴史しかないではないか。いろいろな大学もそうだ。歴史的には、新しいものでしかない。それをである。もったいぶって、厳かに組織の正統性や絶対性を声高に主張すればするほど、ある種のうさんくささを感じてしまうのは、私だけではないだろう。

世間の評価というものとも密接に関わってくるだろうし。大学が良い例である。世間の評価、評判から逃れることはできないからである。これについては、高校にいたのだから言わば送り手にあった。だからシビアに感じているのである。

もっとも大学から去ったのだから、好き勝手に言っているだけである。要するに、中身で勝負するというか、内容で勝負するしかないと感じているのである。世間の評価とか、評判なんか当てにならない。それよりも、中身である。なにを学んだのかということである。

教育の要点というのはそういうことであるとしみじみ思う。

生涯学習もそうだ。

どこの生涯学習センターで学んだかということが問題なのではない。

あるいは、どんな資格を持っているかではない。学士とか、修士とか、博士とかの学位を持っているかではない。しかも、最近は博士を取得しても、**博士(****大学)というように取得した大学名まで書かなくてはならない。だから、そんなことに拘ることのアホらしさを今日は書いているつもりである。

最初に戻ろう。

つまり成田空港のANAラウンジである。

どこのラウンジであっても、飲むものは一緒であった。椅子もテーブルも見た目は高そうだった。だからどうなんだ?ということである。

本質は変わっていないではないかということである。そんなもんを本質と見間違えてはならない。

そう思ったからである。

それだけである。

しかし、それだけ書くのにこれだけの文章を厭きもせず書いている私も私である。

ただのアホですな。

 

わはははっはははっははっはは。

 

ではこれくらいで終わりにします。けふは、日本語ボランティアで出かけますので。韓国の大学生の方々を案内したりしますから。そして、夜は塾。高校生と英会話でもしましょうかな。なにしろエリート高校生だから。英語科もあるようなスーパー進学校であるので。

楽しみ、楽しみ。

 

(^_^)ノ””””

 

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カナダの自然は人工的なもの、作為的なものを拒絶しているからこそ魅力的 =スッピンで勝負している美女だ

2015年07月16日 09時50分24秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

「真っ赤な嘘」は人工的・人為的であり、都市化の典型であり、文学そのものだよ~ん

 

 

時差惚けでまだきつい。朝がダメだ。起きられない。けふは、8時にベッドを離れた。

昨日の夜は中国語講座に(居住地の方)参加した。したが、なかなかアタマの回転がうまく回らない。そんなことを言ったら、普段からそうじゃねぇかと笑われる。あたりめぇである。学業劣等大学院生であったからだ。

コンバンワと言って教室に入るのだが(ワンシャオハオとか言って)、それも忘れてしまった。単語を。しかも昨日は遅刻したから、それをなんと言うのかということで往生した。まるっきり忘れている。わははっははははである。バカも休み休みである。幼児語でしか英語も話せないじーさまであるから、ま、仕方ない。

退学した大学の社会教育関連分野でも中国講座を受けていたが、成東のインフォメーションセンターが、駅前開発で取り壊された。それでもう教えていただくべき会場がなくなってしまった。断念せざるを得ない。実に残念である。

よって、居住地の方でやってくださる中国語講座の充実を図るしかない。だから、講師の中国人センセとM氏というボランティアで我々日本人にもよく理解できるようにと、助手を買って出ておられる男性に頼んでみた。後期もこの講座を自主講座としてやっていただけないかということをである。

検討してくださることになった。ありがたいものである。こういうつながりが、生涯学習の動機付けになる。

したがって、生涯学習というのは経済的にはなんの意味もなくなるっていう案配になる。メリットとかデメリットというような世界とは無縁になる。あたりめぇである。儲けようとして学んでいるんじゃねぇのだから。こっちは。

じゃぁなんで年取ってまだまだ学ぶのかということになる。メリットがなんにもないのだから、いい加減に世捨て人になっちまぇ!っていうことである。それはそれで大いにわかる。生産性もへったくれもまったくワシには関係がないからだ。いまさら、どっかで教えてみたり、きちんとした収入を得たいというのとは違う。

バイトならやっている。しかし、これは定職ではない。気軽に働いて、かる~い収入をいただいているだけである。時間が自由になるから、やっているようなもんである。

年金の他に、高収入をもらっている輩も知人にたくさんいるが、私にそんな現金収入の話があるわけもない。それに、あちこちからそういう話もいただいたが、全部お断りをしてきたからそんなことは世間に知れ渡っている。再就職の声もかからなかったし。やる気もなかったからだ。

そんなことより、好き勝手にゴミ論文を書いて、海外旅行に行っていたほうが気が楽である。もっとも、古女房ドノのバースディ記念に海外旅行に行ってしまうという我々夫婦が特異な存在なんだろうけれども。

身体が健康なうちに海外旅行に行っておきたいからだ。けっこう辛いからだ。時差惚けというのは。それに、私の身体は病後である。もっとも病後の割には、遊んでばかりいるが。

それよりもなによりも生きがいである。

家族の平安と健康を祈っているばかりである。私の子どもたちの幸福と健康、孫たちのすこやかな成長。

なにも天下国家ばかり論じているだけで絶対的価値が高いというわけではない。中国の古典にもあるではないか。政治家がいるかいないかわからないほどでないと、国家は治まっているとは言えないのである。あまりにも混乱と無秩序でバタバタしているようでは、話にならぬ。リーダーなんていない方がむしろいいとすら私は思っているくらいである。

政治ほど人工的なものはないからだ。

そもそも、人為的というか人工的に作ったものというのは、「真っ赤な嘘」が多い。中国の歴史もそうだ。人為的であり、人工的である。だから、中国語を学んでいるといっても、中国に憧れているからではない。よくそういう日本人がいる。中国を絶対的に崇拝して、日本を貶めている輩が。

私はそうではない。あくまでも、藝能史研究の材料として学んでいるだけである。中国への憧れはまったくない。人工的な建物についても関心がない。

あるのは「真っ赤な嘘」としての中国古典とか文学のみである。

村上春樹レベルの「真っ赤な嘘」である。そういう話を見たり、読んだりしているだけである。

都市化しているということである。人工的なものというのは。あるいは人為的なものというのは。

そういう意味で、カナダの自然は人工的なもの、作為的なものを拒絶しているからこそ魅力的であると思うのだ。

スッピンで勝負している美女のようなものである。

もっともカナダの女性は、ちょっといかがなものかとは思う。短パンに、キャミソールというのを着ていて、Tシャツ以上にご自分の太った身体を露出されている。あれはちょっといただけない。おバカキャラのミニスカオネーチャンも日本には多いが、あれ以上である。みっともない。それ以前に鑑賞にたえない。太ったシロクマが歩いているようなもんだ。

そんなことよりも、カナダは「真っ赤な嘘」を拒否している。山火事だって、そのまんまである。燃えたいのなら、燃えていればぁ~ってやつだそうだ。燃え残った樹木はそのまま土地の肥やしになるのだそうだ。バンフの現地ガイドにそう聞いた。

文学なんてまさに「真っ赤な嘘」の塊である。放っておくべき山火事とは違う。人工的な産物でしかない。

それでもおもしろいからやっているだけだ。

所詮ニンゲンナンテ、「真っ赤な嘘」に振り回されて、往生しているだけだからだ。

メリットとか、デメリットとか、愛した・恋した・失恋したというような「真っ赤な嘘」でもって時間を空費しているだけだ。

私のような爺が、経済的な利益を生み出さないから、そんなもんは殺してしまえというような社会にだけはならないように願っているだけである。

どうせ、若い人だって、利益をたくさん生み出してくれるから尊重されているのではありませんぜ。

そんなの「真っ赤な嘘」に決まっているというもんじゃ。

だまされてはいかんでっせ。

リーダーなんてなんにも考えていないんだから。

(^-^)/

 

そんなこんなは、「胡蝶の夢」という話に書いてあったような気がするのだけれども。

もっとも、これも「真っ赤な嘘」っちゅうもんだねぇ。

 

けふは、久しぶりに、夜、働く。キャバレーではない。「爺ホスト」という落語が、桂三枝(現文枝)の創作落語にあったような気がするが、あれとは違う。夜は夜でも、バイト先の塾に行く。若いチューボーと語りあう。教科は、国数英である。楽しみだ。それこそ胸がドキドキするってぇもんだ。趣味でやっているバイトだからだ。

それまでには、時差惚けを治しておかなくちゃ。これから寝るしかないのかな?

ま、それもありか。

 

じゃぁね~。

 

(^_^)ノ””””

 

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バブバブと幼児語しか話せない英語音痴のじ~さん、カナダとアメリカに行っちまったよん

2015年07月15日 09時03分16秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

今回Kindleを持っていったのも正解だった。

 

 

昨日、トロントから帰国せり。

12時間55分かかった。エコノミークラス症候群にかかって、ICUと一般病室に16日間ぶち込まれたから、実はおっかなかった。おっかなかったから、ビジネスクラスにした。おかげで、快適だった。足を伸ばしていけたし、毛布にくるまれて完全にベッド状態でいることができた。ビジネスクラスだからスクワットもできた。スクワット100回。つま先立ちの運動を100回やった。だから体調がいい。今朝、体重を量ったら、64.7キロ。血圧は、104。順調である。血圧がちょっと低いくらいだ。

今日からは、市営のGymにも行く。

完全にオタクだな。健康オタク。

もう仕方ないではないか。死にたくないので(^-^)/。そういうことでありんす。孫がまだまだできそうだし。爺の活躍の場は、ありそうだよ~ん。

孫ができたら、国語・数学・英語は完全に面倒見ることができそうだし。ただし、孫が中学生や高校生になるまで生きていられるかどうかという問題があるが。それまで元気で生きていたいもんじゃよ。まったく、まったく。

旅行に行く前は、いつもながら旅行のしおりを作ってから行く。

Wordで作る。それに写真もインターネットからとって、それをMicrosoftのワンドライブに入れておく。そして、Wi-Fiの効いた場所でKindleから見る。そうすると旅のしおりが不要になる。ただし、Wi-Fiは外国の方が充実している。日本はまだまだ。東京オリンピックまでには、この面で充実した施設設備になるらしい。だから私のような爺には朗報である。楽しみにしている。

今回Kindleを持っていったのも正解だった。飛行時間が長いので、読書三昧であった。Kindleに400冊は入っているので、ずっと読書していた。

折口信夫と柳田国男を行くときは読んでいた。「鬼の話」「万葉人の生活」「ひじりの家」とかである。民俗学めいたものをずっとやってきたから、こっちはある意味完全に趣味である。楽しいからやってきた。そして、まだまだ読めていないことに気がついた。だから、若い研究者のように大学生に教えたり、指導したりするってぇことなんか出来るわけもない。

こっちは素人である。だから、できねぇできねぇ。論文だって、よくわかりもしねぇのに書いていたんだから、恥知らずも甚だしい。しかしである。論文だけは、負けを覚悟でもって書いていかないとならんと思う。負けて当たり前の世界である。負けても、負けてもそのままでは起きない。不倒翁のように立ち上がらないと、学者センセとか研究者にはなれない。

だから、これからの人には、そう言っているのだ。負けちゃアカンですぜ!って。負けても起き上がればぇぇだけだ。

もっともアッシのように病気になっちまったんじゃぁ、それで終わりである。

だから、病気になって以来、私はながら族みたいになっている。つまりあまり根を詰めて論文書きをしていると、どうもいけない。再入院が怖い。怖いから注意しているのだ。

そういう観点から、夏目漱石を飛行機の中で読み始めた。

「手紙」を最初読了した。江戸弁の見事な文章である。読了したと言っても短いから楽なものだ。

それから「硝子戸の中」を豪華なビジネスクラスのシートで読み始めた。江戸っ子の流ちょうな言葉が実に心地よい。落語の世界である。円生の世界だ。文士としての漱石の気負いが感じられる。文体もなかなかのものである。「・・・・た」の多用でもって全体が展開している。ある意味村上春樹もそうだ。文体論から見たら、どう思うのだろうか。学力不足で退学した某大学の大学院博士課程で一緒だったクラスメイトが、今、論文執筆でしゃかりきになっているけど。QualifytestもProspecttestも規定の3年で合格した俊秀である。ちなみにまだ20代の女性である(アタシャその二つのtestすら受験させてもらえなかったチョー劣等生である)。モノが違う。モノが。複数の語学を駆使して中国から留学してきたのだから、意気込みが違う。

「硝子戸の中」をチラホラ読んでいたら、胃の病気のことが出てきた。あっと思った。そうだったのだ。漱石は胃病で死んでいることを思い出した。

俄然おもしろくなった。つまり同病相憐れむというやつだ。もっとも天才漱石センセと一緒にして、「同病」と言ったら、たちまち研究者失格になる。しかしアタシャもう関係がない(最初から研究者失格だったけどねぇ~)。天下の学力劣等生である。わははははっはははなのだ。誰にも気兼ねをする必要が無い。好き勝手に生きていればいいだけである。むろん論文も発表できないだろうし、自分だけでシコシコやっていればいいだけである。

つまり、漱石センセもまた「死」を思っているのである。漱石センセですらそうなのだ。死に損なった漱石センセが、「自分の生きている方が不自然」とまで書いている。ますますおもしろくなった。

「粋」の世界にいる。漱石センセは。奥様とも大いに喧嘩もされている。なんだ、これではオイラと変わりないではないかと飛行機の中で大笑いをしていた。

さらに漱石センセの外国語の勉強ぶりがなかなかである。外国語を一節ずつ読んでそれを暗誦するというのである。しかも明治の南校に行っていた兄弟そろって。これはこれは。目から鱗であった。「グードリッチの英国史」という英語で書かれた本を下読みして、それからその原書を伏せて、暗誦をtestするのである。さすが天才漱石センセである。

ネコまで出てくる。例の「我が輩は猫である」のネコだ。楽しい。すこぶる楽しい。

漱石センセは、両親が晩年になってできた恥かきっ子であったというのも書かれていた。

あるいは、病気も戦争も「継続」だとも書かれていた。いちいちなるほど、なるほどと頷いていた。シンプルなのだ。文体も。持参したB6ノートにメモまでしてしまったよん。アホですな、アホ。

それから飛行機の中での読書体験はもっと続いていく。これは行くときに読んだ体験であるからだ。

また次の記事として書いてみたい。

 

 

じゃ、これから古文書講座に行ってきまぁ~す。しかし眠たいなぁ。やはり時差惚けっちゅうやつかな。もう惚けているけど。



(^_^)ノ””””

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『わくわく☆カナダ』 ビクトリア 美しき花の都

2015年04月21日 08時17分46秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

『わくわく☆カナダ』 ビクトリア 美しき花の都

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『わくわく☆カナダ』 世界で最も住みやすい街バンクーバー

2015年04月21日 08時17分21秒 | カナダ・アメリカ紀行2015年7月

『わくわく☆カナダ』 世界で最も住みやすい街バンクーバー

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/