高校卒業間近になって、ボキはどこの大学にも行けそうになかった。むろん、成績が良くなかったからである。要するにアホだったからである。勉強もできなかったからなぁ。
それに、親の理解もなかった。出来の悪い息子に絶望していたんだろう。せめて地元の国立大学に入ってセンセでもやってくれればと思っていたのだ、ボキの親は。ボキの高校は、地元の山形大学くらいなら、総計で七〇人は進学していたから可能だったのかもしれないけど。
亡母はなんにも言わなかったが、地元の国立大学の卒業生であったから、期待はしていたのだろう。
結果として、ボキは、どこの大学にも行けそうになかったから、唯一拾ってくれた五流大学に進学した。後にも先にもこれだけであった。なんと言っても、これしか受験していなかったのだから、受かったのはこれだけなのである(^_^)。
それしか合格できなかったからだ。よくまぁ合格できたものだった。冷や汗が出たものであった。滑り止めもできなかったし、今は母校となっている五流大学に感謝しているのだけれども。受験機会が一回だけというのもスリリングでたのしかったですよん。
さらに学費もなかった。入学金もなかった。
しょうがないから、日本経済新聞の新聞配達を選択した。いわゆる苦学生である。選ばざるを得なかったから選んだのである。
しかし、こいつがボキの前半生を決定的にした。
人生にシナリオがあると思ったのはこの時である。
思ったとおりにはならないのが人生のシナリオである。
選択の余地はなかったのである。
そうせざるを得なかったのである。
そして、そうせざるを得なかったことで、亡父・亡母から「独立心」を教えられたのである。これがありがたかったと思うのだ。
こいつは、生まれる前から決まっていたことなのだ。
シナリオは決まっていたのだ。
銭のかからない長男だから、亡父は喜んだ。亡父は、役場の職員をやっていたが、大学というものをまったく知らない。学費がどれくらいかかるかも知らなかった。亡母は知っていたが。
だから、まったく銭のかからない長男の進路選択を喜んだのである。
亡母は、そんなことをしたら、長男は家に帰ってこないと亡父を叱っていたが、結果的にはそうなった。
あのとき苦学をしようと決断したことが今を作ってくれている。
ありがたいものである。
人生の結果は他人(親も含む)に責任をおしつけるようなもんではなかったのだ。
自分で選んだのであるから。
ヾ(*´∀`*)ノ
いちいち一喜一憂していたら、たまったもんじゃない。
人間関係の破綻とか、他人と言い争いをしたとか生きているといろいろある。
もっとも、言い争いというのは家人と一番数多くやってきたか(^_^)。
家人とは、垣根がないからである。つまり遠慮がない。わかってくれるはずという甘えがあるからだ。言いたいことは言い放題。聞きたくないことは急性の難聴になってしまうのじゃよん。よくまぁ、これまでの言いたい放題を許してくださっていたもんである。感謝。
しかし、他人との関係でいちいち一喜一憂していたら、もっとたまったもんじゃない。
ただ黙ってじっと耐えるしかない。
そもそもがである。人間関係なんて「ゼロ」から出発しているだけではないか。全部他人である。ボキだってそうだ。他人でないのは、ボキと亡父亡母、そしてボキの子どもたちと孫だけである。
他人に囲まれて生きているのだ。
そして全部「ゼロの関係」である。
損得勘定で考えていれば、他人に腹も立たない。
待てよ、ここで怒鳴ったらマイナスになると思っていれば良いだけである。損得勘定から言ったら、これまでつきあってきた時間も無駄になる。経費もそうだ。さんざん宴会なんかで、人間関係構築のためと自称して飲み食いしてきたのだ。それがすっかりパーになっちまうではないか。もったいないというものである。
あまり経済関係の思考スタイルは好きではないのだが、人間関係に関しては、損得勘定は重要である。
そして「淡々と生きる」ことである。
つまり、「威張らない」ことである。さらにある。
ゼロからの出発である。
おとなしく生きているに限りますなぁ。
今日は天気が良い。
相変わらずなにもすることがない。
図書館でも行ってくるか。歩いて。
あ、小学館版の徒然草が昨日AMAZONから来たから、教材研究でもやるか。千葉市のアルバイトも残り4ヶ月である。もう一生涯声がかからないだろうから、思い切って良い授業をやってみたい。それだからである。冥土への土産話にちょうどよい。
ヾ(*´∀`*)ノ
般若心経を時々眺めることがあるが、タイトルについて、いろいろ考えさせられるですねぇ。
般若心経は、自分の思い通りに相手をコントロールしたいのにそれができないからいろいろな「苦」ができると書いてある。だから、それで悩むのだ。
般若心経には、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」という部分がある。これがそうなのだということだそうな。受け売りである。学者先生からの。
「苦」というと苦しみと訓をつけるが、そうすると誤解をしてしまうらしい。
苦しみではないのだ。
つまり、相手を自分の思うとおりにしたいから、悩むことになる。
そんなの捨ててしまえばよろしい。
ダンナを、自分のオクサンをコントロールしようったって、そうは問屋がおろさない。そんなもん、できる訳がない。ましてや、会社や組織の中で相手を自分の思うとおりにしようとしても抵抗されるだけである。イヤなものはイヤなのである。
人間はそういう感情を持っているから、生き延びてきたのだ。
大蛇に喰われたくないから、嫌いだというのは非常によくわかる。本質的に嫌悪感を持っていれば、無事これ息災である。危険なものには近寄らないからである。
ボキは、上手に泳げない。ましてや、九十九里浜で泳ぐ気はサラサラない。あんな恐ろしい海の中に入っていって、おぼれたらどうするんだいと思っているからである。だからおぼれない。なぜなら、近寄らないからである。もっともどうしても船に乗らなくてはならない時は、救命道具をきっちり身につけて行く。だって、ほとんど泳げないからである。
奥州の山奥で育ったのだ。波なんか立たない。川でしか泳いだことがない。せいぜい10メートルも泳いだら、向こう岸についてしまうようなせせらぎでしか泳いだことがない。
これからも海へのチャレンジはしないつもりである。海で死にたくはないからである。
せっかく九十九里浜に住んでいるのに、もったいないと言われたこともあった。
しかし、できないのだ。
だから、泳げない人を根性で泳げなんてぇことは絶対に言わない。言ったこともない。体育の授業もやったことがあったから、当然プール指導がある。その時でも、そんなことは言ったことがない。
相手を支配下におくことはしないからだ。
自分ができないことを他人に強制してはならない。そう思っている。
柔道は別であった。柔道は若干ながらできるからだ。
義務制のセンセ時代に体育の授業もさせられたことが、採用試験を受け直して高校の世界に飛び込んだ最大の理由であった。疑問に思っていたからである。結婚してから再受験したのだから、今から思えばずいぶん思い切ったことをしたもんである。
こういう傾向は今でもある。
副業をやっているのも、ずいぶん思い切ったことをやっているのだと思う。普通なら、家に引っ込んで隠居を気取ってもいいらしいのに、まだまだ若い衆と一緒に仕事をしているからである。
どうやら、ボキには引退という文字はないらしい。
相手をコントロールしたいというより、ボキ自身をコントロールしなくちゃアカンのかねぇ(^_^)。
ヾ(*´∀`*)ノ
およそボキはなんのおもしろみもないジジイである。ただひたすら堅実なだけの。
賭け事の弱い人は、実に幸運である。ついているのだ。そう聞いたことがある。
確かに、賭け事で家を建てたり、高級外車をゲットしている人にお目にかかったことがない。そういう一時収入でもって、人生を左右するような出来事に遭遇したらかえって不幸の原因になるだろう。
ボキは、賭け事をやらない。麻雀も、ゴルフも、花札も、パチンコすらやらない。競馬も、競輪も、スロットもやらない。他になにかあるのかもしれないが、そういうことすら無知である。もともとなんでも無知だから、知らないのである。
麻雀については、大学学部時代にやったことのあるという人はたくさんいるだろう。麻雀放浪記なんてぇ小説まであったのだから、同時代に生きていたボキ等の年代はほとんどやっていたのだろう。ボキは、そんなことをやっている暇がなかった。なぜなら苦学していたからである。新聞配達である。時間がない。銭もない。いじけてばかりいたから、余裕がない。
そういう生活が、堅実な生活を送る原因になったのである。
今では感謝している。
だからなんのおもしろみもないジジイなのである。ゴルフが出世と関係あるのは知っていた。知っていたけど、そんなもんで出世するんならやらねぇ方がいいと思っていた。実際、そう言ってひんしゅくを買った時もある。当時の上司にもずいぶん嫌みを言われたこともある。それで出世できないんならそれで結構であると思っていたから、時代に流されなかった。当時の判断は正解であったのだ。当然費用もかからない。高価なゴルフバッグとか会員権とも無縁。ありがたかったよん。
これは、亡父亡母の教育が良かったのであろう。まったく二人とも賭け事には無縁だったからである。その意味では尊敬していた。もう現世にはいないから、直接言葉をかけることはできないが。
しかしそういうDNAは明らかに流れている。ボキの長女・長男もまったく賭け事をやらないからである。
堅実な生活を送るに限る。嘘とはったりとごまかしで生きていちゃアカン。世の中にはそういう輩も多いからである。そんなにしゃかりきになって、生きていっても無駄である。出世なんかしてもなんにもならないではないか。所詮、所属している組織内の話でしかない。偉そうにしていたら、天に笑われる。人間なんて、天から見たらつまらんものなのだ。組織内での話でしかないのだ。
天は大きい。天という組織内の話ではないからである。どれだけ大きいのかは誰にもわからない。つまり、天イコール宇宙だからである。
ま、ボキも宝くじに当たったら、喜ぶけど。買わないだけで。
わははっはははっはははははははっはははっはははっは。
ヾ(*´∀`*)ノ
毎日タノシミ、タノシミ。働くって実に良いモンである。マジである。今日を精一杯生きているからである。今日は、今日。昨日でもないし、明日でもないからだ。
今日という日は、過去から見れば過去の最終日。未来を見れば、未来へのスタートの日である。
なにげない事だが、然りである。つまり、今日は常時たった一日なのである。後にも先にもない。今日は今日。過ぎ去ったら今日という日は、なくなってしまう。
だから大事なんですなぁ。
ボキごとき人間は、小人物でたいしたもんではない。小物だ。そして遊民である。高等遊民というのが、漱石あたりが使ったような気がするが、ボキの場合は低脳遊民である。
定年後、日々をまるっきり遊びをせんとやいかんせんと過ごしている。なんの成果もなかったし、これからもない。でも、今この一瞬を生きているという点では、かけがいのない存在でもある。
こういう心境になるのに、ずいぶん時間がかかったものである。若い頃は、ボキもかなり激しかった。苦学していたからいじけていたし、なにしろ貧しかった。比較ばかりしていたからチキショーとなっていたのである。つまり、育ちが悪かったのである。
だからずいぶん抵抗力がついた。貧乏にも、いじめにもである。今は、どんなに貧しくても平気である。昔から、いじめられても耐性があった。怒りがないのである。怒るどころか、いっさい気にならないのだから、こりゃぁ最強である。気に入らない奴は相手にしないのだ。だから、敵なしである。敵が目の前にいないのだ。あたり前である。相手にしないのだから。
ジジイになって、毎日を楽しく過ごしている。やることもたくさんあって、五つのバイトでかなり充実している。
それにボキは性格が軽い。軽いために、年代の離れた友人もたくさんいる。
さらにある。髪の毛もないから実に明るい。ハゲて良かったと思っている。自虐で言っているのではない。ハゲは、ボキの顔とマッチしているようだ。ニコニコ笑ってばかりいるから、人格円満に見られてしまう。
それに威張らない。絶対に威張らない。ボキの昔の仕事を知っている方は、それを不思議がる。なぜ威張らないのだ?って。そんなのあたりめぇである。実力がないのだから。本当にそう思う。
塾だって、数学が最大の弱点である。大学入試の数学なんか教えられない。ノートをとりながら、数Ⅰ数ⅡBあたりを自学自習しているが、当分無理である。塾もだんだんクビになりそうだ。実力がないから(^_^)。
足も軽い。ドンドン歩いている。おかげで糖尿病の治療をしなくて良しと、アジア最大の病院で言われた。運動療法と、食事療法で克服してしまったのである。毎日毎日歩いているしねぇ。だから、その話を聞いたボキの古文書講座の友人は、ボキをまねして歩き始めた。膝を壊さないようにと忠告だけはしておいたが。
今日は千葉市から夕方6時頃に帰ってきた。楽しかった。るんるんと帰ってきた。若い方々と接していると、こっちまで若返る。髪の毛は無理だが。
わははっははははっはははっははははっははははっははは。
さ、今日はくたびれたから、晩酌をやる。
タノシミ、タノシミ。
19:02である。
また明日!
ボキに風は吹いているか、川からナニガ流されてきているか。それが大事です。
あることを決める時に、風が吹いているか、川が流れてきているかということを大事にしている。
好き嫌いではなくてである。要するにそういうことなのだが、これは楽な生き方にもつながる。好き嫌いでものごとを決めていると、間違うこともあるからだ。特に、あの人間は嫌いだからということで遠ざけていると人間関係は狭まる。それでも、無理して会っている必要もない。嫌いだったら、敬して遠ざけるのも一つの方法である。
さらに、会いたくないのなら、会わなければ良し。もう大人なのだから、仮病でもなんでも使ってアワナイのだから、会わないことである。そういう意味で、ボキは実に気楽である。亡父亡母の親戚が九十九里浜には一人もいないからである。身よりもない。あるのは、長女と長男だけである。気楽なもんである。どうせ、ひとりぼっちで死ぬ。ま、このことはあまり言い過ぎると内館牧子女史に叱られますがねぇ。最近かなり売れているようだし。「すぐ死ぬんだから 内館 牧子 (著)」という本。読んだけど、かなりおもしろい。オナゴの生き方は確かに内館牧子女史の言われるとおりであろう。この作家は相撲の研究で東北大学大学院修士課程まで行った(しかも年取ってから)、怪物である。だから好きなんだけど(^_^)。
インテリを気取っている輩には、ドンドン質問をして、足下をすくってやればいい。インテリ気取りの人間というのは、他人を指導したがるからである。どうせ大した実力なんてないのだから、墓穴を掘らせるのである。新聞屋が、就任したての大臣によく使う手である。これに引っかかって退任する政治家もいるのだから、世の中はおもしろいものである(^_^)。
引っかかる方もアホである。それくらい考えられないのであろうか。
新聞屋も新聞屋である。仕事人時代に、いろいろとあって新聞屋からの取材を受けたことがある。デカイ声を立ててまるっきり恐喝まがいであった。だからそれ以来、ボキはICレコーダーで電話を録音しているのだ。ボキのようなジジイもいるのである。世の中は怖いのである。
質問をされたら、その裏の意図を見るべきである。意図もなんもないのでは、オノレのアホをさらしているようなものである。質問には、意地悪な意図があると思って対応していった方がいい。
そうした世の中からは、攻撃されないように防衛して行くべきである。質問されたら逆に質問してあげることである。意図をさぐるべきである。そして、こんなアホとは金輪際会わないと思うべし。相手だって、ボキを評価しているわけである。低評価で。
だったら、こっちも煙にまくことである。
どうせ人生狐と狸の化かし合い。
そして、川の上流から流れてきたもの、風が持ってくるものを鋭敏に感じることである。
それから物事を決めても良いのである。決して焦ることはない。
「風流な人」というのは、そういう人なのである。世間の動きに左右されない。自然に流されて生きる人のことなのだから。
ふうううむ。
たまにはまともなことを打鍵するんですなぁ。ボキは。
わははっははははっはははっはははははっははははっははは。
ヾ(*´∀`*)ノ
自分探しの旅は、無駄だとまでは言わない。しかし、本当の自分というのは、今現在の自分でしかないとも思うのだが・・・。
昨日、仙台で授業をやって欲しいと頼まれた。通信制高校の方である。頼まれごとは物理的に不可能でない限り引き受けることにしている。快諾した。年末である。困っているから、ボキごとに依頼してきたのだろうから。
そんなもの引き受ける方が**だとも家人には言われた。そして思った。果たしてそうだろうかと。**には「馬鹿」という文字が入る。事実ボキは馬鹿でもある。それは認める。しかし、この話は相手が困っているからである。それに仙台に相手のカネで行ける。仕事だからである。楽しいではないか。ワクワクしてくる。おいしいものをいただいて、夜の仙台を満喫してくるつもりである。と、言っても居酒屋程度でしかないが(^_^)。
それで思った。
会社等で不平不満があったら、すぐ退社する御仁のことである。次から次へと転職を繰り返していく。それがキャリアアップにつながるのなら結構だろうが、たいていの場合はそうではない。会社にも、自分にも不平不満があるのだ。
今の自分を許せないのだ。あるいは、今の会社を、上司を、組織を、人間関係を。
もっと言えば、今の自分はこんなんではない、本当の自分はあちらにある、あそこにあるという自分探しの旅に出ているようなものだ。今の自分というのは、ソトの世界にはいない。今まさにこの自分が、本当の自分なのである。将来の自分ではない。過去の自分でもない。
なにか天命や使命があるはずだ、こんなうらぶれた人生なんか俺の私の人生ではないとやっちゃぁいけない。他人の生き方をうらやみ、なんか今の自分はこんなんじゃないと思うのも不平不満の表れでしかない。
目の前にある仕事を淡々とやっていることが、一番すばらしいのである。
だとしたら、必ず仕事で頭角をあらわしてくる。豊臣秀吉が良い例ではないか。信長の草履をふところであっためていたのもそうだ。それだけ、仕事を楽しんでいたのである。天性の明るさもあるだろう。明るく笑顔で、積極的に生きていると活路が開ける。信長もそういうところを見ていたのであろう。
クラ~~~~イ顔して、今の仕事は自分にはアワナイから辞表を書くというのではいけない。じっと耐えることである。それでもどうしようもなかったら、実際の行動に移すべきである。考えもしないで、衝動的に辞表を書いちゃいけない。
それに、やたらと会社の、上司の、同僚の悪口を言わないことである。そんなもん、言ってもなんにもならない。悪口を言わなければならないほど、嫌いなら相手にしないことである。表面上は。
淡々として生きるというのは、そういうことでもある。要するに、他人は他人、自分は自分なのである。
今日はこれから塾の研修会がある。午前中である。じっとしてひたすら傾聴してくる。なにをご指導くださるのか、今から楽しみである。立場と目的が違っているのだから、教育についてどんな考えを持っておられるのかというその一点においてである。
歩いて行ってくる。仙台とは違って近いからである。
運動のために。
わはっはははっはははっははっははははっはははっははははっは。
ヾ(*´∀`*)ノ
他人と比較していると、間違いを犯す。ボキの髪の毛も他人と比較していたら、アホみたいである。ボキはボキ。あんたのタメに、生きているのではないからである。
ダメな人間なんていない。みんな輝いているのだ。自己嫌悪に陥ることはもうやめよう。そんなの免罪符でしかない。確かに、経験上自己嫌悪は免罪符である。俺はダメだと言っていれば、逃げることができる。
人間はそういう自己内省があるから、成長するのだろう。でも、物事には限度がある。あまりにも、俺は・私はダメだとやっているとそこから一歩も抜け出せない。
なぜなら、比較しているからである。他人との比較である。
学校教育も悪い。学校は、確かに比較をしていて成績をつけている。親も、教師も一緒になって叱咤激励する。良い成績が人生を左右すると思っているからである。これはある意味仕方のないことでもあろう。
しかし、本当にそうかとなるとちょっとクビをかしげざるを得ない。
学校で他人に勝ち、戦うことでシアワセが来るというのは、単なる幻想である。戦うから勝敗がある。勝って勝って勝ちまくり、それでもって成功者になるという論理である。しかし、これは幻想である。
本当のシアワセというのは自分にしかわからない。自分が、楽しく生き生きとしていればシアワセなのである。少なくとも他人との比較の上で成り立っているものではない。
隣のおっさんより金持ちだからシアワセなのかと思っていたらアホである。
あるいは隣のおばさんより、きれいだからシアワセなのかということである。きれいだとか、なんとかというのも比較の対象でしかない。そんなもん、生きる上ではなんの関係もない。
それに、ボキは他人にどう思われるかというのも関心がない。ボキが美男だと思われているかもしれないとは、まったく思っていない。髪の毛も関心がない。だって、ボキの頭には毛がないからだ。無の境地である。
わははっはははっはははっはははははっはははは。
つまり、比較しないということである。比較するから、辛くなる。ダイアモンドは、勝手に輝いている。それを暗くすることはできない。生まれついての性質である。いわば個性である。
頭が良いとか悪いとか、銭をたくさん持っているとかいないとか、高そうな洋服をたくさん持っているとか、高級車に乗っているとか←そんなもん関係ないではないか。
ボキのように挫折したジジイだって、ちゃんと生きているのである。もっとも、挫折したからこそ今がある。一番最近の挫折は、博士になれなかったことだ。まるっきり山月記である。なにか勘違いしていたから、挫折したのである。
でも、ボキは今が一番シアワセである。
ダイアモンドのように、勝手に輝いているからだ。
今夜も学習塾に行く。昨日も行った。ずっと面倒みてきた高校生が公務員試験に合格したので、実に昨日はうれしかった。
そんなささやかな喜びで満ちあふれているのだ。
ヾ(*´∀`*)ノ
「淡々と」「なんでも頼まれごとは引き受けて」「これまでの経験値を最大限に発揮して」
今、ボキはたびたび拙ブログでも書いてきたように、五つのバイトをやっている。それはそれで良いのだが、全部組織で成り立っているのだ。当たり前である。むろんボキよりも若い方々が多い。
もう、ボキは隠遁者のようなもので、ただただ淡々としてやらせていただいているだけである。老後の楽しみであるからやっていられるのだが。
組織に正式には所属していない。だから、楽なのである。むろんいくばくかの収入がある。ある以上は、これまでの経験から学んだものを全部出している。国語なのに、コンピュータを駆使している。教科教育法もずいぶん工夫してやっている。20代の頃からの研鑽が、今役立っている。というのも、なんでもかんでもおもしろいからである。
ドンドン興味関心が拡大しているのだ。土佐日記でもかなりおもしろい授業になっている。関連資料がたくさんある。さらに、生徒にドンドン質問して答えさせる。ちょっと疑問点が出てきたら、次の時間までには資料を印刷して配る。古文書も活用した。むろん正解はボキが準備して配ったが。古文書で古典を勉強したことなんかないだろうから。
古典文法の授業も通り一遍ではない。大学受験からの視点だけで勉強を始めると、飽きてしまうからだ。そりゃ、ボキの出た高校のような進学校なら話は別であるが。
そんなわけで、実に「楽しく」「楽に」「生き生きと」毎日を過ごしているのだ。
思うに、人生って「楽しく」「楽に」「生き生きと」過ごさないと損だ。
いつもは言わない損得勘定で生きましょうやと、ここぞとばかりに申し上げたい。
そもそもが、損得勘定というのが嫌いなんだけど。
それでも、「楽しく」「楽に」「生き生きと」生きていれば、少なくとも損はしない。得になるといってもさしたるものではない。経済的な面では関係のない話ではある。
そんなものより、毎日が楽しければ、これ以上のものはない。
リタイアしているのだから、ボキは白ワイシャツにネクタイというスタイルではない。ループタイと柄物のシャツで授業をやっている。ループタイだと、首筋が寒くない。どうも、クールビスというのは嫌いである。だらしないという印象しかない。だからやらない。ネクタイも、もう結構である。37年間もボキのイノシシのようなクビについていたのが、ネクタイである。
そうなのである。もうボキは定年退職したフリーなのである。ループタイなら、正式な格好ではないだろうけど、せめてのマナーだと思っている。
フリーなら、バイトとは言え、精一杯やらせていただいている。
そして、「淡々と」「なんでも頼まれごとは引き受けて」「これまでの経験値を最大限に発揮して」生きているのである。
こんな生活を送っているけど、これもまたあらかじめシナリオが決まっていたのだと思っている。
8:39である。
これから歩いて神社に行ってくる。毎日の日課である。神社でありがとうございますと手を合わせてくる。お願いごとは一切しない。
ホンマにありがたいものである。
合掌。
泥田で育ったボキだけど、まだ大輪の花は咲いていない(^_^)。
蓮の花というのは、泥水からしか立ち上がってこない。これはかなり心強いことを、ボキのような凡夫に伝えてくれている。ありがたいことである。
泥水が濃ければ濃いほど見事な大輪の花を咲かせるそうな。逆に泥水が薄ければ薄いほど、小さな花しか咲かせないのだという。つまり水がきれいであればあるほど駄目なんだそうな。
ボキの居住地近くにその蓮が有名な地区があって、なるほどそうであった。腰まで使って農家の方々が手入れをなさっていたのを見たことがある。
泥水というのは、ボキも含めて人間の煩悩でもある。苦悩と言い換えても良し。
つまり煩悩・苦悩が濃ければ濃いほど、蓮の花は見事に咲くのである。
蓮の花を見ていると、煩悩・苦悩が大きければ大きいほど見事に解決するということを感じてしまう。そうならば、今現在煩悩・苦悩で心痛めている方々は気にしないことであると言い換えてもよいのだと気がついたのだ。
蓮の花は力を与えてくれるし、楽しく生きる智恵もくれる。
ちなみに、お釈迦さまの台座を蓮華座と言う。お釈迦さまは、このことを知っておられたにちがいない。だから、蓮華に座っておられるのだ。
ボキは、これまでいろんな泥水をすすってきた。まったく大学学部の苦学生から始まって、貧乏・苦悩・煩悩・病苦等々のオンパレードであった。
一度なんか、暁の下、かなり重量の新聞を自転車に積んでいて思わず涙が出てしまったこともあったっけ。情けなくてである。我が大学学部のクラスメイトたちは、こんな苦労はしていなかったからである。遊ぶことのみ忙しくて、真剣に学問なんかしていたのだろうか。ボキのみが、貧しくて学費も生活費も全部自分でまかない、せっせと大学学部に通っていたのだった。
だから、傷つきやすい性格になってしまったのかもしれない。いわゆるいじけた、ひねくれ者であったかもしれない。知れないではなかったなぁ。事実である。事実。
そういう貴重な体験をさせていただいたということは、イコール泥田で修行していたようなもんである。
そう思う。
泥田であったが、大輪の花が咲いたわけではない。いまでもささやかなジジイ生活を送っているだけである。
ま、ちったぁ人の役にはたっているかもしれないけど。
今日は千葉市に行っていた。バイトである。授業をやってきた。帰りは、蘇我駅まで歩いた。曇っていたし、夏とは違う。13キロになった。ずいぶん歩いたなぁ。これもまた健康のもとである。
ヾ(*´∀`*)ノ
自分の置かれた場所が一番わからないですねぇ。何気ない日常こそがシアワセでありますが。
海の中にいる魚には、海の姿がわからない。今、シアワセな人はシアワセの姿がわからない。何も事件が起こらず、静かで平穏な日々こそがシアワセだということが、我々凡夫にはわからない。だから、日常が不平不満だらけになってしまう。そういうふうに感じてしまう。あれもこれも欲しい、しかし銭がない。どうするんだい?となる。
九十九里浜は、食料自給率日本一の地域を抱えている。魚も獲れるし、野菜も多い。なるほど、そう言われればそうだ。
このことは某大学大学院を中退せざるを得なくなった後に入学した老人大学で知ったことである。講師の先生から教わった。
ところが、それまで食糧自給率がそんなに高いということを知らなかった。
毎日のようにいただいている新鮮な魚がありがたく見えてきた。米もそうだ。九十九里浜からちょっと内陸に入ると、多古米ブランドで有名になってきた多古町の米もある。これは実においしい。
野菜もそうだ。白菜をはじめとして、いろんな野菜や果物があるのだ。
言われてはじめて気がついた。住んでいると日常のありがたさがわからないのである。
意識していないから、気がつかないのである。「何もない」日常で「静かで平穏な日々」を送っているから、気がつかない。
人生は、波瀾万丈こそがおもしろいという方々もおられる。退屈しないからである。いろんな小説も、波瀾万丈であればあるほどおもしろい。司馬遼太郎しかりで、歴史上の人物はまさに波瀾万丈であるからだ。今、NHKでやっている西郷隆盛もそうだ。まさに波瀾万丈。
でも、だからなんだと言うのだ?と聞かれたら答えに困ってしまう。
どっかに波瀾万丈に憧れている自分がいるのかもしれないと思うだけである。
それだけ、日常が退屈なのかもしれない。
退屈だというのは確かに認める。毎日が退屈でしょうがないのである。同じ事の繰り返しで過ごすことよりも、合計五つのアルバイトで過ごしている方が確かに生き生きしてくる。それは認める。
それでも、この退屈な日常こそありがたいことである。実にありがたい。ただし、それに気がつかないだけなのである。
気がつかないということは、目に見えていないということだ。見えていないというよりも、見ようとしないからだ。
何もない日常というのは、隠れているのだ。聖人のごとしである。聖人は深山に隠れていると言うではないか。
ま、その逆もあるだろう。我々庶民の生活にも隠れているかもしれない。長屋のどぶ板の片隅におられるかもしれない。
昨夜は、孫の女児に一升餅を背負わせて祝いをやった。むろんボキの茅屋である。正確にはまだ一歳になっていないが、あと4日で一歳になる。丈夫で健康に育って欲しいからである。
せめてのジジイとしての願いである。
こんな何気ない日常こそシアワセである。
ヾ(*´∀`*)ノ