と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

5月30日(月)のつぶやき

2011年05月31日 01時34分57秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
21:00 from goo
ソシュールが #goo_kencho943 http://goo.gl/T0Fxq
21:03 from web
肩の痛みがとれませぬ。どうしたんでしょう。60肩と言って笑っていましたが、ちょっとこれはいけません。昨日、本をお借りした知識人に「柔道、やめれば」とご指導をいただきましたが、そういうわけにもいきません。楽しみですから。唯一の。
21:05 from web
しばらくは、B5の分厚いノートだけを相手に、読書三昧といきましょう。これをやっていると、ほんとうに楽しいのであります。今日はブログにもわたくしの拙いメモを写真で載せてあります。いろいろな手法を紹介してあります。これだけというのが、わたくしには無いからです。取捨選択をしてください。
21:09 from web
千野栄一先生の外国語上達法という岩波新書が、今日の夕方送られてきました。どうも、浅学非才でありますから、未だに語学が苦手ときている。評論家の佐藤優先生のお勧め本でもありました。これまでも、これからも楽しみな読書生活を送るつもりです。
21:11 from web
今日のブログで記事にさせていただいた先生は、わたくしの子どもよりも年下でありました。愕然となりました。老いたり。しかし、まだまだ若い人にも負けませんぞ。・・・・・と言っているのが、負け惜しみだったりして。笑ってしまいますね。
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3年生の現代国語にソシュールが

2011年05月30日 21時36分16秒 | 先公ごっこ2008年から2012年



 白く囲んだ写真がソシュール









 今日の5時間目に、3年生の現代国語を参観させていただいておりました。

 なんと教材に哲学者のソシュールが出てきていました。
 「言葉はものの名前ではない」という教材です。

 うれしくなりました。
 こういうレベルの高い教材で学習をしていることに、です。それに若手の先生の真摯な授業姿勢に感心をしておりました。徹底的に読みを行う授業でもありました。

 すばらしいものであります。
 わたくしなんぞは、未だにソシュールを理解できていない。

 難しいからであります。
 
 ただし、「言葉は偶然でできた恣意的なもの」という彼の言葉は、現代のメールばやりの世の中を言い当てているようで、このあたりはなかなかおもしろい。

 言葉は、概念と視覚映像の組合せでできたもので、しかも「山」をヤマと呼ぶのは偶然のことで、その組合せは恣意的なものであると言っているのです。しかし、これにはちょっと納得がいかない。概念と視覚映像の組合せから言葉ができているというのは、ちょっといかがなものかと思っているからです。

 このことは、今日の午前中ある先生と面接をさせていただいているときに、話題になりました。目標申告面接でした。国語の先生で、視聴覚教材と国語の教材との関わりということで、ちょっと教頭と3人で話をさせていただいたのです。

 これから追求していきたい分野であります。が、実践的にはアウトであります。もう時間がないのです。実践の場も無い。来年には高校教育界から去らねばならない。わたくしのアタマの中で、抽象的に考えることはできるのでしょうけれども。面接をさせていただいた先生に、次年度以降のご活躍を祈念して面接を終了いたしました。

 思うに、70まで寿命があるとして、後10年しかない。80まで生きられるとして、後20年しかない。もう、地位とか名誉とか、惚れたハレただの、あるいは金銭欲だのとか、なんとかとかまったく関心がありません。小説にも興味が無くなってきました。多くの小説が、若い世代の魑魅魍魎と、世間的迷いを、あるいは無明を扱っているような気がしてならんのです。

 だんだん、若いときには見向きもしなかったいわゆる小難しい傾向の本に興味が向かっています。時間が無いことを意識するからです。ほんとうにこれまで、なにを読んできたのだろうと自省しています。無駄ではなかったのかもしれませんが、自分では満足できないレベルでしかないのです。

 だとするとこれは真逆の意味で楽しみかもしれないと思い直すことにしました。

 しかし、昨日、お会いしていた知識人に、バルトを読みたいと申し上げましたら、なんとなんと「死ぬまでには読了できませんぞ」とご指導をいただいたのであります。確かに、そうでありましょう。20代から読み始めても、60年かかるのだそうですから。ヘーゲルの精神現象学も四苦八苦で苦労しているんですから、まったく浅学非才のかたまりであります。

 やることが多すぎて、まったく年を取るのも忘れそうです。


◎ここからはわたくしの読書方法


 考えたのが、読書法。
 鉛筆を持って、軽くメモやチェックをしながら、読んでいくのが1回目。
 ですから、本は自分のものでないといけません。借りた本では、そんなことは絶対にできません。

 昨日の日曜にある知識人に、非常に高価な本を貸していただきました。喜んで家に帰ってきたのですが、考えたら、メモや書き込みをすることができない。それで、インターネットで同じ本を探しました。

 ありました。しかも古本で。

 さっそく注文しました。おかげで今月の書籍代が怖ろしいことになってきました。この写真は、一回目の読書の時に行っている作業の結果です。
 
 A4の罫線の入っているレポート用紙に、ともかく書き殴っていきます。
 それが、この写真


 
 これはそういうメモの類をしまっておく、ルーズリーフノートです。差し替えがきくように、穴が開いているファイルに入れてしまいます。







 それから、B5の100枚もある分厚いノートに整理します。
 これはよほど関心のある分野でないと、ここまではやりません。
 毎回ではありません。

 そして、3回目は更に書籍をさっと読んでみる。

 そうすると大体忘れません。



 こんなことをやりながら、60まで来てしまいました。
 満足しているわけでもありませんが、後悔もありません。

 これでよかったのだと思っておるところであります。



 また明日!







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5月26日(木)のつぶやき

2011年05月27日 01時37分09秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
22:09 from goo
画像があまり無かったので、再度記事にします #goo_kencho943 http://goo.gl/5XUh6
22:15 from goo
スポーツ 考 #goo_kencho943 http://goo.gl/5XUh6
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スポーツ 考

2011年05月26日 22時23分16秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日は、校内のスポーツ大会でした。いろいろな種目を行いました。運動部に入っている在校生諸君には、大変な活躍の場。そうでない諸君は、久しぶりに体力鍛錬の場でもあったことでしょう。

 わたくしは、開会式でちょっとあいさつをさせていただき、すぐ市役所で会議がありましたので、出かけました。ですから、後日写真部の生徒とか、いろいろな先生方からデータをいただいて、またそれから記事にいたします。それまで待っていてください。ただし、インターネットでは顔を出せませんから、これもまた難しい作業になります。

 部活動をもっと紹介したいのです。しかし、全員後ろ向きの、背中を写して紹介してもおもしろくもなんともありません。これが今のところの限界であります。

 まことに残念至極であります。


 
 今夜もジムで自転車をこぎながら一冊読了した本がありました。ジムの近くにちょうど国道を挟んで全国規模の古書店チェーンがあるから、実に資料には困らないのです。まことにありがたいかぎりです。家に帰ってからは、内容の濃い本に手を出しますので、ジムで気楽に読めるビジネス本なども買います。

 そこで、この「気楽」という言葉。
 気楽な人は、不真面目という言葉と表裏一体に言われますが、これはちょっと気楽な人にはかわいそうであります。眉間にしわを寄せて深刻そうに仕事をしていても、仕事のできない人はやっぱりできないからです。

 脱力といってもいいのですが、気楽な人は仕事が早い。さらに、ある程度の目算が立ったら、仕事への取りかかりも早い。どんどんどんどん仕事を進めていくわけです。つまり「スピード」がある。スピードがあれば、無駄を省くことができる。

 この英単語を覚えようか、それとも覚えないようにしようかという逡巡が無い。迷いがない。

 だから仕事をたくさん依頼される。依頼されるから、処理速度も早くなる。だんだん自分一人では抱えきれなくなるから、他人を使うこともうまくなる。すべて循環していくわけです。良い意味で。
 
 これはスポーツと感覚的に似ています。仕事はスポーツと同じだという感覚でやるとちょうどいい。スポーツは失敗しても命まで取られるわけではありませんし、事実野球選手だって、ヒットを打てる確率は10割ではない。そんな選手がいたら、超有名人になってしまうでしょう。しかし、3割程度の確率でも真剣に取り組んでいるわけです。ミスもしますが、いちいちそれで落ち込んでいるわけではなく、次の機会にヒットを狙っていく。

 スポーツ大会でもそうでしょう。

 スポーツは、スピード感が命でありますから。いろいろと制限された状況の中で、しのぎを削るわけです。判断のスピードも求められる。先を読み、相手の動きを予測する、いろいろな想定外の動きを予測しながら運動をしているわけです。さらに、一瞬の判断ミスや、集中力に欠けたときに、相手はすかさずそこをついてくる。攻撃をしてくる。

 いわゆる隙があるというわけです。



 そういう仕事の早い人は、コミュニケーションにも長けている。対話が非常に上手です。仕事相手とコミュニケーション抜きに、チームで処理する仕事はできません。

 コメントを返し、また相手に「うなずき」「微笑み」「あいづちを打つ」というような動作と一体化していると、対話が可能になります。

 これもまたコミュニケーション能力とスポーツは一体化しています。すべてを言葉にしなくても、アイコンタクトでわかり合える世界が、スポーツの世界でもありましょう。

 チームプレーで、試合中次に何をするかをアイコンタクトでやらなければ、(サインも含めて)なかなか勝つのは難しいのではありませんかな?

 個人競技種目をやってきましたので、あまりチームプレーについてはよく知らないのですが、ね。



 最後に、言いたいのは、品格の無い行動を取らないこと。志が無いと言われますぞ。スポーツだからと言って、みっともないヤジを飛ばしているのを見ることがあります。わたくしのやってきた柔道の世界でもありました。礼儀を重んじるのは、そうでないと、ただの野獣の闘いになってしまいます。だから格闘技というのでしょうが、これは自分の反省も含めて自戒したいことの一つであります。

 でかい声を出して、周囲を睥睨しているだけではいかがなものか。野獣と知性ある人間の差は大きいと言わざるを得ません。そこのところだけはわかっていただきたいと思っております。

 若い頃、奥羽山脈の麓で山を走り、熊さんと競争していた時代が確かにわたくしにはあったからであります。もっとも、鍛え方によってはもう一度熊さんと勝負できる可能性もあるかもしれないと、思ったりするときもあるのです。年をとっても、御前試合に出場せよと言われて、鍛え直して見事勝った老剣豪の話をちょっと思い出しました。

 藤沢周平の小説にそんなのがあったように思いますから。



 また明日!



 

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5月25日(水)のつぶやき

2011年05月26日 01時35分59秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
22:29 from goo
本当にすばらしい歴史が県立銚子にはありました #goo_kencho943 http://blog.goo.ne.jp/kencho943/e/51c9c5b1d5727b37f4669ef8dd677719
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県銚の歴史を

2011年05月25日 22時27分30秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

 



海上郡立銚子実科高等女学校 創立当時の全校生徒合同体操
体操服はなく、着物・袴のまま運動をしていた。
1911年(明治44年)


 


 



県立銚子高等女學校正門(講堂建設前)現在の税務署の位置
1922年(大正11年)


 



運動服と運動会風景
運動服は白キャラ地のセーラー型のブラウスと黒いプリーツスカート。黒長靴下の革靴、ヒダの付いた帽子で運動した。
1924年(大正13年)


 


 


 



籠球部神宮大会初出場
1939年(昭和14年)






滑川登美子神宮大会弓道に千葉県国体選手として出場 全国第4位を獲得する
1939年(昭和14年)


 


 




 県立銚子の歴史を、これまでの記念誌等から探ることで、なおいっそうの応援をいただいているような気になります。これもまた伝統校であるが故の幸いでもあります。

 昨日の記事で書かせていただいた初代校長の今関源十郎先生は、大正年間の殆どを校長として、草創期の我が県立銚子を作っていただいた偉大なる先生であります。昨日も書きましたが、まるで威厳が違います。またその後の代々の校長先生も偉大なる方のみ。不肖わたくしで27代目。これだけ歴史を重ねている学校がありましょうか。

 ありがたいかぎりであります。

 これほどの学校に奉職させていただけるとは思ってもみませんでした。

 その伝統を汚してはならぬわけであります。そういう気構えが今の県立銚子を支えているのだと思うのであります。

 特に初代校長先生がどんな思いで学校を運営されていたかのかということを、忘れてはならないのであります。ですから、怠けておっては申し訳ないのです。

 旧制女学校に進学できるだけ、今もそうではありますが、昔は本当にすばらしいことであったのであります。NHKの朝の連続ドラマで、最近始まった番組があります。太陽の陽子さんという方が主人公であります。「おひさま」という番組です。この主人公は安曇野の旧制女学校から、師範学校を出て、小学校の先生になられる。

 ですから、旧制銚子女学校とわたくしの意識の中ではリンクするわけです。事実、そういう本校卒業生も大勢おられる。

 時間が無くてなかなか視聴することができないのが残念でありますが。

 そういう伝統の歴史をずっと辿っていくこともまたいいものであります。

 母校というのはそうしたものではないでしょうか。いろいろな先輩がいらして、そこに「縁」がある。そうしたつながりが、また現在の自分を構築してくれる。これは実にありがたいことであります。

 ミクシーとか、Facebookとか、そういうつながりを大切にしてくださるサイトもあって、これもまたわたくしには興味深いものであります。

 さらに、すばらしい活躍をされている先輩、後輩がおられると実にさわやかな気分になります。これほどの優れた学校に学んでいたのかとうれしくなるわけです。母校愛というものはこうした部分から育っていくのでありましょう。

 たとえ自分にそれだけの実力が無くても、それはうれしいものであります。

 


 今日、ある先生が、来年の教育実習生を連れてきました。本校の卒業生であります。英語あり、国語あり、社会あり。現在大学3年生。

 楽しみであります。どんな授業をされるのか。

 しかし、その時にわたくしは県銚にいられない。年齢制限にひっかかります。つまり定年。

 去らねばなりません。いつまでもいるわけにはいかない。こんなところにも、無常を感じてしまいました。仕方なし。これも世間の常。

 活躍を祈るしかありません。
 
 

 

 明日は、スポーツ大会であります。
 勉強三昧の生活をいっとき忘れて、健康体力の向上のためにも、楽しみたいものであります。

 中間テストが終わったのですから。



 また明日!


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5月24日(火)のつぶやき

2011年05月25日 01時36分04秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
21:36 from goo
人間に「格」が存在するのか? #goo_kencho943 http://blog.goo.ne.jp/kencho943/e/accffd2c99e6a36469d0bdf1020a64af
23:08 from goo
格とは・・・・ #goo_kencho943 http://goo.gl/qAQuv
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格とは・・・・

2011年05月24日 21時36分46秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

 初代の今関源十郎校長先生であります。威厳があります。



 今日は、本校の初代校長先生の写真を見上げながら、しみじみと「学校の格は、校長の格である」と先日ある私学の理事長校長先生のブログから、学ばせていただいたことを考えておりました。もし、それが真理ならば、わたくしは即刻後輩校長に禅譲しなくてはなりません。格の点では、けっして他人のことをこれ見よがしに貶めることはできないからです。人格も未だ完成しておりませんし、いろいろな迷いもあります。つまらない世間体もあるし、食欲をはじめとする欲からも離れられないからであります。

 格と言うことは、つまり人間の本質をランク付けするということなのでありましょう。程度のいい格もあり、そうでもない格もあるとのたもうているわけです。しかし、人間の本質をランク付けできるものなのでしょうか。もしかして、現象面だけを格であると勘違いしておられてそういうふざけたことを言われているのでありましょうか。だったら、人間の本質とは何か?とお聞きしたいものであります。まさか、まさか学歴であるとのたもうことはないですよね、と確かめてみたい。

 人間とは何か
という問いとリンクしております。永遠の課題でもあります。古今東西、それに回答を出して、正解を述べた人はいないと思っているからであります。

 そういう事を言われる方にお聞きしたい。それは自己評価なのでしょうか。あるいは他者評価なのでしょうか。非常に危険性を伴うコメントであると思います。進学校であるという自己規定もどういう根拠でそういう規定が可能なのか。他者がいうからなのか、それとも自画自賛なのかということと一緒であります。

 そもそも人間性を格という名のもとに、評価できるのでありましょうか。人間学を追究してきたソクラテスや、プラトン、アリストテレスなどの大天才が聞いたらなんと思うのでしょうか。

 呵々大笑されてしまって、それっきりなのではないですかな?

 なかなか一つの立場を公表するというのは困難なものであります。そこには必ず、批判が伴うからであります。絶対的な賛同を得ることができないのと同じで、ある一つの立場で集団を統一するというのは、ある意味ファッショでもあります。

 格を問題にされる方は、ある面で相手を引き下げる心理が働いております。よく、世の中には、たいした考えも無いのに、ある提案があっても、引き下げのために欠点を指摘する方がある。それはオイラの方が優秀だぞという自己満足や、自己主張があるわけです。そういう相手を引き下げることによって、自分の方が優秀だということを主張したいわけです。これは実に奇妙・奇天烈な心理状態で、わたくしの分析対象にもなります。

 嫉妬心でもあるわけです。
 あるいはニーチェの言うような「ルサンチマン」でもあります。自分だって超人でいたいわけであります。エリートと呼ばれたいわけであります。

 昨日の記事「バッテリー」で書いたような孤高を愛するというのは、実はそういう心理状態と密接な関係があります。「うざい」とか「関係ねぇよ」とかいう台詞にもそういうのが隠されておるのではないかとしみじみ感じるのであります。

 「バッテリー」に書かれているような、思春期の男の子が母親の愛情をうざく、うっとうしく思うというのも、自立への過程であるわけです。

 突っ張って、他人が馬鹿に見え、オイラくらいの天才は世界に二人といないという自信も、裏を返せば単なる成長の一過程でしかない。

 問題は、大人になっても思春期の心理状態から抜け出せないということでもあります。

 いつまでも迷いの世界に安住していて、これでいいのよ、これでオイラは満足だというのではいかがなものかと、教師として思うからであります。
 
 オイラには高尚な格があるんだと思うなら、それはその格を意識した時点で、完成をしているという「うぬぼれ」であります。

 人間に完成は無いとずっと思ってきましたから。学問と一緒でありましょう。学問で完成したということはあり得るのでしょうか?

 それとも、オイラには高尚な格があるという方には馬の耳に念仏なのでありましょうか。



 なんとも、なんともよくわからない世界であります。
 初代校長先生にお聞きしてみたいことのひとつでもあります。もっとも、伝統校であるわが県立銚子高校の初代校長先生は、101年前の先生です。お聞きしたくても、絶対に無理というものであります。

 そんなことを考えている時間があったら、外山よ、自己を鍛えよと優しくご指導をいただきそうであります。

 代々の校長先生がたの写真を拝見することによって、今日もまたお力をいただいたような気がしました。
 

 中間試験、どうでしたか?
 在校生諸君。

 明日で終わりですね。
 
 今晩もがんばりましょう!






節電対策に、部屋の電気を全部消して、手もとのスタンドだけで毎日を過ごしております。上杉鷹山公はそれさえももったいないと言われることでありましょう。






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5月23日(月)のつぶやき

2011年05月24日 01時36分28秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
22:35 from goo
バッテリー #goo_kencho943 http://blog.goo.ne.jp/kencho943/e/c7e41c2f2da7005a310725f5b7ea8e8a
22:53 from goo
孤独を愛する若者もいるらしいということ #goo_kencho943 http://goo.gl/BE8t4
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バッテリー

2011年05月23日 22時33分34秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 孤独がもたらす影響ということでちょっとプレゼンテーション資料を作成していました。いろいろと資料をあたっていて、孤高の詩人中原中也に思い至りました。さらに中原中也の関係資料に、あさのあつこ氏の「バッテリー」という角川文庫が紹介されていました。読んだことがなかったのと、少年野球チームのエースで、孤高を愛するピッチャーのことを書いてあるということでなんとなく興味を感じたのが今日の運の尽き。

 夕刻、スポーツジムに行く前にショッピングセンターの中の書店で購入。それからずっと読んでいました。スポーツジムの自転車こぎをしていたら、おもしろくておもしろくて時間のたつのを忘れてしまった。おかげで消費カロリーがもの凄いことになっておりました。苦笑しました。

 さらに家に帰ってからも、それこそ家の中のあらゆる場所で読んでいて家人に叱られてしまったのです。それでも、それでもおもしろい。

 少年で、いわゆる小生意気な、粋がっている輩はたんといるのですが、(もっとも大人でも多い)そうした心境もずばり書いてあって、これは出色の小説でありました。家族と距離を置き、自分の考えを秘めることが多くなっていく時代。自分だけの世界を持とうとして奮闘するそのおかしさ。ぎこちなさ。こっけいさ。

 母方の祖父が、高校野球の元監督で、甲子園出場経験もある家系。さらにキャッチャーをする相手の男の子もいい書き方をされている。病院のあと取り息子で、野球をあきらめかけていたところに天才少年の主人公が現れる。

 この祖父の描き方も実にいい。妻を亡くし、野球ばかりやってきて、長女である娘にも(主人公の母)あきれられている。家庭をいっさい顧みないで生きてきてしまった祖父。されど、孫の主人公の才能にぞっこんでもある。それを嫌がる主人公の母。

 天才ピッチャーというのは、この主人公のように自分に絶対の自信がなければできないのだろうなぁと感じました。たいしたものです。エライものです。これほどまで、自信を持てるということがです

 そうです、読了したのです。
 3時間もかかってしまった。表現はやさしいですから、すっすとアタマに入ってきます。

 裏表紙に書いてあったこの文庫の紹介を下に書いてみましょう。



 「そうだ、本気になれよ。本気で向かってこい。関係ないこと全部すてて、おれの球だけを見ろよ」
 岡山県境の地方都市、新田に引っ越してきた原田巧。天才ピッチャーとしての才能に絶大な自信を持つ巧の前に、同級生の永倉豪が現れ、彼とバッテリーを組むことを熱望する。
 「これは本当に児童書なのか?」
 ジャンルを越え、大人も子どもも夢中にさせたあの話題作が・・



 上記のように紹介されています。
 話題作だったのですね。知りませんでした。あまり読書量を誇ることができるほど読んでもいませんので。
 
 実は冒頭に中原中也をあげたように、あるテーマがあって、いろいろ資料をあさっているうちにこの文庫に出会ったわけです。それは、思春期の人間がなぜ孤独になるのかということをちょっと考えていたからです。ノートにもメモをしておりました。


 孤独の反対に、「現代の思春期にあるヒトたちはなぜつるむのだろうか」というテーマもあるのです。携帯しかり、ブランド志向もしかり。メール狂いもしかり。友人の数だけ誇り、一瞬たりといえども一人でいることができないヒトが現れてきたような気がするからです。風呂の中でもメールをしていないと気が済まないという新種の人類もいるのだそうです。これってホントなのですかね。本校もおるんでしょうかね。信じられないんですが。

 ですから、若い人たちには孤独というのは存在していないのかもしれないと思っていたのです。

 だったら、孤独というのはどういうときなのか。

 中原中也がその代表だと思って、作品集を読んでおりました。もっとも中原中也は作品が少ないですけれども、ね。さらに関係資料を。

 そうしたら、現代の若者達にも孤独を生きているヒトたちもいるらしいと気がついたわけなのであります。

 それが「バッテリー」という小説。

 野球のことはまったくわかりませんが、さもありなん。わたくしの母校の高校でも孤高を愛するストイックなエースピッチャーがおりましたっけ。わたくしは、応援団もやっていましたので、公式試合は全部6メートルもある校旗を持って応援しておりましたから。重かったのだけ覚えております。

 そのエースは、母校は出ると負けの弱い高校でもありましたが、一人で延々と投げるしかなかった。まったくかわいそうなくらいに孤高の投手。チームは打てないし、自分が抑えるしかないチーム。けっこう注目されていたのです。田舎では。

 あの時に投げていた同級生のエースだったのです。そう言えばいつも寡黙でありました。

 わたくしと違って勉強もできました。密かに勉強もしていたのでした。よくもまぁ時間があったものです。英語と数学が得意で、現役ですいすいと国立大学に行ってしまったのです。理工系でした。たいしたものでありました。ピッチングと同じでありました。自信があったのでしょう。どこまでも。

 孤独に慣れていたのです。
 
 思うに、ある程度孤独でなければ、自分に沈潜する時間が無ければ、勉強もやはりできないということでありましょう。

 確かに、一人の時間を大切にできなれければ、友人とおしゃべりしながらドストエフスキーを読めと言われてもそれは所詮無理というものです。

 

 最後に言いたいことは、孤独であってもなんら心配は無いのですよ。在校生諸君でそういう人がいたら、かえって自分に沈潜することができると喜びたまえ。将来の飛躍のためにも。

 

 また明日!

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5月21日(土)のつぶやき

2011年05月22日 01時35分34秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
10:42 from goo
応援歌 #goo_kencho943 http://goo.gl/gnwAU
11:31 from goo
祝婚歌 #goo_kencho943 http://goo.gl/L30xF
22:52 from web
レポート完成。論文形式は難しいです。やはり気楽に書けないからです。これって、人の目を意識しているからでしょう。
22:56 from web
一本レポートを脱稿したから、今日はこれでよし。柔道教室にもちゃんと行きましたから、自己満足であります。
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祝婚歌

2011年05月21日 11時05分55秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
祝婚歌 高野健一feat.ネーネーズ


(ニコニコ動画へのリンクです)


 明日、心友とも呼ぶべき知人のお嬢様が結婚をされます。わたくしもお祝いに参上させていただきます。

 お嬢様のことは、彼女が大学生の時から知っておりますので、実に我がことのようにうれしいのであります。理学部に学ばれた俊秀であります。

 知人にとって、娘を手放すのは寂しいかぎりでありましょう。まだ、不肖わたくしの経験したことの無いことでありますが。

 それにつけても祝いの席では、愛が満ちている。このこと自体でいつも辛そうに生きている顔をしているわたくしも、幸せのお裾分けをいただけるのですから、こんなに良いことはないのであります。

 少しは、笑顔で過ごすことができそうです。 
 
 上記のニコニコ動画にリンクした「祝婚歌」の歌は歌詞が非常に美しい。すばらしい愛をテーマにしておられる。しかも、それは人生の終わりの視点からも見つめておられる。

 こういう歌があることを知りませんでした。動画サイトのありがたさであります。しかもニコニコ動画は、個人のブログにリンクを許可されているのですから、これはありがたい。

 この歌のように、年をとっていきたいものであります。もう若くはありませんから、結婚式自体が楽しみでもありますが、どういう老い方をしていくのかということに興味があります。ここ数年、死生学や、老年学、ターミナルケア、グリーフケアというようなレポートをたくさん書いてきました。
 
 だからです。

 結局、永遠に存在する人間はいないからです。真逆の視点から人生の実相を把握することが、教育においても重要なのではあるまいかと遅まきながら気がついて参りました。

 それだけです。それだけ。

 明日はおめでたい席ですから、ニコニコしておるつもりです。


 


 祝婚歌といえば、有名なのが吉野 弘先生のです。


『祝婚歌』 吉野 弘
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

        ・第六詩集(詩画集)「風に吹かれて」
        ・おしゃべりポエム 風の記憶 著書吉野弘







 評論家の佐高信氏がこの詩を激賞しています。
 吉野弘先生も、山形人。佐高信氏もそう。
 
こんな幸せな歌を、詩を明日はおおいに味わってきたいと思っています。


 あまり幸せな顔をしていると、今日の午後からちびっ子柔道教室に参加させていただきますが、ちびっ子たちに不思議がられそうです。

 何が楽しいんですか?って聞かれそうです。

 そんなことにならないようにしましょう。




 ではまた来週!





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応援歌

2011年05月21日 01時41分24秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 「学校の格は校長の格である」とのっけから切り出されると、これはこれはなんとまぁ厳しいことを言われるお方よ、と慨嘆するしかありません。反省するしかありません。

 ある私学の理事長校長先生のお言葉であります。それはそれとして座右の銘としてこれまでも、これからもわたくしを戒めてくださっていることとして、受け止めていきたいと感じております。

 昨日は、交通安全教育部会のことで、ちょっと出かけておりました。午前中、学校に出て、それからが長道中。えんえんとクルマで会議を行う場所目指しておりました。相当数の先生方がお見えになるのですから、まさか遅刻するわけにはいかない。

 こういうときには、電車で往復すると本が読めるので、普段は電車を使うのです。昨日は時間的にちょっと厳しかったものですから、クルマにしてしまいました。

 実は最近売れている本を読みたかったのです。佐々木常夫氏の「働く君に贈る25の言葉」でありました。千葉市の書店で売っておりましたから、帰りの電車の中で読み終えるかなと思っていたのです。結果的には、クルマでしたから買えないし、読むこともできませんでした。

 しょうが無いので、帰宅して、著者の佐々木常夫氏が「プロフェッショナル・マネージャー」を激賞しておられたのを思い出して、書庫から取り出して、再読を始めました。

 某衣料チェーンの柳井正氏も激賞しておられる本でもあります。この本は教頭の時に、成田で買い求めてあまりおもしろくも無いと一度は処分した本でもありました。

 それが復活したのは、インターネット古書店で買ったのと、佐々木常夫氏の読み方がまさに尋常でないからであります。

 このプロフェッショナル・マネージャーを、何度も読み返し、目次までノートにとり、暗記するまで読まれたのだそうです。

 長いことビジネス社会で生きてこられた方です。言われることにはいちいちうなずくしかありません。特に数字の暗記についてはまさにそのとおり。すばらしい記憶力であります。

 「経営には覚悟がいる」

 「後戻りはできない」

 上記の言葉がプロフェッショナル・マネージャーには、書かれてあって、最初に衝撃波を。愚たる存在のわたくしは、甘いなぁと感じた次第です。これまで、経営には努力が大切だと思ってきました。努力をすればなんでも解決すると。確かにそれはそれで正解でありましょう。

 しかし、この本は、「経営はまず結論ありき」と書いています。「最終的に何を求めて経営していくのか」ということであります。そこから逆算して、結論に至る方法を考え、いかに実行するかということを力説されている。修正も含めて。

 一番勉強になったのが、「経営のセオリー」についてのくだり。セオリーの全否定から始まっています。これまた目から鱗でありました。最近は、社会も学校もマニュアル全盛の時代でありますから。経営者は、自分で決断し、目標とやるべきことを明言し、失敗のリスクを100%背負う人のことというのであります。

 確かに、確かにであります。なにをやっても、なにが起きてもリスクと責任は愚生にあります。

 助かったのは、「失敗を恐れてはならない」という部分でしょうか。「唯一の本当の間違いは、間違いを犯すことを恐れることである」ともありました。失敗はない方がいい。それはそれで真実であります。

 全責任を負うのだという覚悟さえあれば、このあたりは乗り超えて行くことができるような気がします。

 「結果を出すことへの執念や、ガッツが足りない」という最後の著者の文章は、まさに懶惰な愚生、「校長の格」において実に中途半端なわたくしへの最大の応援歌であると感じた次第です。しかし、「学校の格」の向上のためにも、まだまだ老骨にムチ打って、それこそ無知なる現状を打破して、自己の向上を図るしかないようです。

 辿り来てまだ山の麓かな、であります。
 ゆくべき道は、深山幽谷の彼方。そのまた奥にあるのでありましょう。永遠の旅となりそうであります。



 
 また明日!




 

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5月19日(木)のつぶやき

2011年05月20日 01時35分35秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
21:51 from goo
書道部の作品 #goo_kencho943 http://blog.goo.ne.jp/kencho943/e/eb65e7db6cc8aa2c6d429e68a5698c61
by kencho943 on Twitter
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書道部の作品

2011年05月19日 21時50分08秒 | 先公ごっこ2008年から2012年





















 書道部の作品が校内ところ狭しと飾られております。いいものです。さらにこれらの作品を書いた在校生が、記念撮影を行っていたりするのが、今年度の特徴であります。昨年度まで無かった光景です。これまたいいものであります。

 校長室の脇にも飾られていて、実にこころ和むものであります。好きな作品もあって、仮名書きのは実にいい。わかりやすいし、まるで絵のようでもあります。

 こういう楽しみ方はよくないのでありましょうが。所詮素人ですから、なんでも言えます。

 学校というのは、やはりこういう知的な側面も大事であります。文武両道とはよくぞ言ったりであります。文も、武も確かに大切であります。さらに徳育。これで3部門がきっちり成立していると学校は両輪どころか、総合力において実に優れたものとなります。

 進学にしぼった超進学校でも、文・武・徳の総合力に優れた学校はたくさんあります。オリンピックに出るような卒業生も出しておきながら、昨日の記事で取り上げた東北の進学校のように国公立に186名も合格させているわけであります。ちなみにその県のトップ校は、国公立に240名輩出しています。

 まったくもの凄いものであります。しかも、余裕がある。余裕の無い人間は、所詮・・・・もう止めましょう。退職したらこんなことは山ほど書けるようですから、その時まで取っておきましょう。


 
 今日はわたくしのいくつかある仕事の交通安全教育のことで、いろいろやっておりました。明日、その全県的な会議を行います。千葉市に行かなくてはなりません。さらに、交通安全教育の表彰関係の推薦書も書いておりました。

 可能な限り、学校内部の仕事に絞ってこれまで努力して参りました。校外の仕事よりも、変革期のわが県立銚子にあっては、内部の充実をさせていただきたいと思ってきたのであります。

 しかし、わたくしのことを思い出した方もおられて、最後の年は周囲の方々に叱咤激励されております。銚子から出て来なさいというのであります。それでも時間がもったいない。学校にいてできることは、学校から可能なかぎり発信をし、仕事をさせていただいております。

 インターネットはその点で実にありがたい。

 ただし、生徒の皆さんは、正しく使ってくださいね。お願いします。


 

 また明日!


 
 

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/