無為でいること
無為でいるということに堪えなければならないと思うのだ。
今のところは、愚生にはやることがある。大学に行って、年若いクラスメイトたちと語らってみたり、あるいは先生にご指導をいただいたりして、レポートを書いたり、あるいは論文を書いたり、あちこち学会で発表したりという毎日を送っている。さらに、教えているほうの大学でいろいろ工夫をしながら、シラバスを改善したり、資料を準備したりしている。
しかし、現役時代とは圧倒的な差がある。「仕事量」においてである。学生だから殆ど半人前だし、こっちはすでに還暦過ぎたじじいであるという意識はまったくない。つまり、うぬぼれというものがないのだ。これは信じられないだろうが、ほんとうだ。
高校の校長までやって、大学の先生からは、学生扱いをされて、おめぇそれでおもしろくないだろう?って聞かれることもある。ところがだ。それが快感なんだな、これが。まだまだオレなんか半人前だし、それを自覚させていただくだけで(*⌒▽⌒*)もんである。
ちょっとおかしいのではないかとも言われたことがある。そうか?それでどっかいけねぇのか?と聞いたこともあったっけ。本当に、オレは自分のことを半人前だと思っているからである。いいじゃねぇか。自分でそう思っているのだから。
むしろ半人前だということで、ご迷惑をおかけしていないか、あるいは既にそういう迷惑をかけてしまったのではないかと感じることもしばしばあるからである。
現役時代は、センセ、センセと呼ばれていたっけ。今は、違う。若いクラスメイトたちに、「と~まさん」と「さん」づけなのだ。対等なのだ。これが(*⌒▽⌒*)のだ。わははははなのだ。できれば、ファーストネームで呼んでほしいくらいである。あふぉ~かと言われそうだが。もともとあふぉ~だけどね(^0^)。
しかも、クラスメイトたちと対話していると若返るねぇ。話題が豊富だし、ついていけねぇ部分もたくさんあるけどね。
そもそもオレはインテリでもないし、エリートでもない。ただの、田舎教師で、一介の高校教師であったというだけの人間である。だから、いっさい偉そうなことは言えねぇし、言うつもりもない。
それにあれだ。オレは、あまり組織の権威とか認めないというか、感受性に乏しいというか、そもそもボヘミアン的な発想しかできないタイプらしいのだ。だからこんな懶惰な学生生活でもやっていけるんだろうと思っている。
しかしだ。
ここからが本論だが、こういう生活もいつまで続くわけではない。徹底的に暇になる時期も来るのだ。もうすぐである。いつまでも、学生をやっているわけにもいかないだろう。金銭だってかかるのだ。ま、オレは住んでいるところから通学できる範囲内で、在籍校を選んだし、家から通っているかぎりは、そんなに経済的な負担もない。
だからできるんだと言われている。それは本当だ。リタイヤしたら、経済的なことというのは決して甘く考えてはならない。そこをいい加減に考えていると、さみしい人生しかない。
自ずから工夫というものがなくてはならない。オレはそういう点では、実にシビアである。他人に講釈をたれられるほど、工夫をしている。だから還暦学生なんてのができるんである。マジに。
それでも、徹底的に暇になる時がくる。
その時にどうするのか。もう、レポートも、論文も書かなくていいとなったら、オレはどうするのか?
このことを考えるのである。
朝から晩まで、銭を稼いで生きてきたから、徹底的に暇になった時のことを、考えなかったし。
つまりオレは働きモンなんだよん。
ぼさーっとしていられないんだなぁ。なにかしていないと、つまらんのだ。
あ、そうか、そうか。このままやっていればいいのだな。郷土史の勉強でもしていればいいのだ。
それから料理教室でも行くか。あと、語学教室か。中国語をやりたい。それも美人のセンセに教わって(^0^)。
むうううううう。
まだまだ馬鹿は続くようです。
徹底的な暇というのは、まだまだ来そうもないですな。これじゃあ。
(^_-)-☆
去年の記事 大妻女子大学からメールがきた記事です blog.goo.ne.jp/tym943/e/77596…
今、家に誰もいない。ショーチューを呑みながら、FBじゃ。もっとも、こないだ、沖縄料理の店で呑んでいたら、なんとメイド姿の女のコが来て注文を取っていったっけ。
それがだよ、オレと一緒にいたのが、古女房ドノだ(^0^)。女の子が、慌ててしつれーしまひゅって逃げて行ったっけ。大笑いだよん。
料金?そりゃ決まってまんがな。古女房ドノが払うにきまってまんがな。しかも、メイドさんに子連れがいたのだった。哀れになっちまったな。オレと古女房ドノは、じじとばばだから。孫がいるからだよん。
いきに生きたい・・ホントか?
無明を生きているというのは、良くないことだと思ってきた。そういうように思わされてきたのかもしれない。欲に囚われ、自我に囚われ、出世に囚われ、金銭に囚われ、クルマに囚われ、あとなん...
熱湯が・・・・・・・・・・・・
楽しかったけど(^0^)
階段が362段だっけ?
あったのがきつかったですな。
オニコウベ
つまり鬼首温泉です 入るとすぐにこの絵があります。
なんでもかんでも東北先住の方々を、鬼にしてしまったヤマト族のことを
思ってしまいました。
外は、スキー場になります。
夕食。とてもおいしかった。Aランクホテルだそうです。
鳴子温泉の近くにあると聞いたのですが、そこから10キロ以上でした。
しかし、哀しい物語が、鬼にはありますねぇ。
記紀神話も、ある特定の立場から書かれていますから。
上戸彩主演の映画おしんが登場してくるようです。
おしんの舞台になった、これは戸沢村を流れる最上川です。
途中の道の駅から写しました。
韓国からのお嫁さんが多いところだそうで、道の駅が韓国村のような
建物になっていました。
同好の士たち
殆ど、愚生よりも年長である。日頃の鍛えが違いますなぁ。
途中の山道で。
途中の滝で 元滝という
これは湧出してくる滝である。鳥海山は降雨量が、屋久島と肩を並べる程だそうな。
マンゾクそうな愚生です もう疲れてます(>_<)ゞ
いよいよ遊歩道へ
山案内人のM氏 会話がすばらしい 専門家がいないとゼッタイ無理でした
鳥海マリモを見る
皇太子殿下も来ておられる
M氏の鳥海マリモの説明を受ける
ある写真雑誌で受賞した光景だそうな。愚生のデジカメではちょっと
お伝えできないほど、美しいです。
しかし、疲れてばかりいますなぁ。60くらいジャまだまだ若造だ!
鳥海マリモを下流の方から見上げる
森の生命の不思議さにこころ惹かれます
森の妖精の腰掛けだそうです。
いかにも、いかにも。ニンフの姿が見えそうです。
あがりこ大王に次ぐ見物だとM氏が言われていた
いよいよあがりこ大王と会います
あがりこ大王です
人の顔に見えませんか?
下に炭焼き小屋が発見されたそうです 古くからの
これも人面に見える
嬉しそうな愚生です
M氏に植物の説明を受けながらの遊歩道散策
74歳の先輩に叱咤激励されてやっとここまで下山しました(>_<)ゞ
まるで生きているような樹木たちです。
鳥海山の湿原も楽しみにしておりました。
さすがに、さすがに。
東北には、まだまだ知らないところがたくさんあります。
もっとも、愚生は18歳までしかいなかったから、知っているところなんて
ホントに無い。
それよりも、今回は、愚生なんかよりも年長のご夫婦が多く、こういう素敵な
かたちで定年退職後のささやかな年月を過ごしていきたいと思いました。
74歳の大手ゼネコンを退職された先輩と、昨日の夜に同じテーブルで
一緒に食事をして、さらに少々のアルコールで対話を楽しみました。
アクアラインにも関係されたようで、理系の人なんでしょう。
奥様との旅行も、殆ど、****とネイチャーというキーワードで探して
全国を旅しておられるのでした。さらに奥様は、絵をやられる。こころに残った
風景を旅日記カードにして絵を描いておられた。素敵なご夫婦です。
見習いたいものであります。
長生きしないとアカンですなぁ。まったく。
明日、在籍校の方はAO入試があるんだそうですが、事務室に電話したら、院生室はOKだと言われました。来月の学会発表の資料を作るのと、いろいろ資料を作らねば。。車で行こうっと。
いや、まったく、もしこの文章を紙包みにして封印をしなかったら、とてもこれだけの感銘を与えることはできなかったでしょうね! は、は! これこそ神秘というものですねえ! ―白痴
大学の論述試験で「○○について論じなさい」という問題が出たら、○○について、誰がどのような説を唱えており、どのような論争があり、論争のポイントはどこで、現在有力なのは誰の説なのか、その理由は何かを、きちんと記述したうえで、その全体について自分の考えを述べるのです。
大学の論述試験で「○○について論じなさい」という問題が出たら、○○とはな何かを説明するだけでは不十分で、なぜその説明でいいのか、説明が説明として通る理由をも、きちんと説明しなければいけません。
生徒の将来展望の都道府県比較 ? good read tmaita77.blogspot.com/2013/08/blog-p… 大阪、京都も酷いが、滋賀はニート県か。
僕は男が働いて金稼いできて、女房は家をちゃんと守るんだというふうにしなくてもいいと思っています。向いているほうをやったほうがいいと思いますよ。主夫に向いている友人も知っているし、女性にもこの人は主婦には向かないっていう人も知ってます。
amzn.to/nMHVvb
わたしたちの目に入るのは、まずは、人の悪い面であって、本当の愛すべきものを見るためには、それを見ようとしなければなりません。このことはもちろん、その瞬間には自我を忘れなければならないことを意味します。 『だれでもない庭』
ここまでヘアピンカーブの連続であった。
同好の士とともに、恐怖感を味わへり。
(^0^) blog.goo.ne.jp/tym943/e/4d036…
秋田県のにかほ市象潟のホテルで入った露天風呂から
早朝、虹が屹立していた。
しかも海面からである。
これは、これは。
こう... blog.goo.ne.jp/tym943/e/216d9…
松島と比較されるほどの象潟の風景であったが、
大地震で隆起した海岸が、芭蕉の時とは違っている。
この句もまた、死を見つめて旅した芭蕉の... blog.goo.ne.jp/tym943/e/68086…
曹洞宗の蚶満寺である。
ここもまた精霊達の住み処である。
芭蕉もお参りをしたとのことである。
周囲は松島と見間違おうばかりの美し... blog.goo.ne.jp/tym943/e/672c4…
.@ReseMom: MOOCs(大規模公開オンライン講座) 北海道大学の重田勝介准教授に寄稿いただきました。 fb.me/1t1GRjqJc RT @tmaita77: OECD加盟国からの留学生の留学先内訳。 pic.twitter.com/o9cu5p88Sw
[戦争の秩序の中]では、力の試練こそが現実的なものの試練である。とはいえ暴力は、傷つけ無化することにあるのではない。むしろ人格の連続性を中断させ、そこに自分を見出すことがもはや不可能であるような役割を人々に演じさせることにある。-全体性と無限-
私がいつも試みるのは、中世の錬金術師と似たやり方、あるいは昔からメルヘンの語り手たちがやっていた方法、つまり私たちの外界の形象を内面世界の絵姿に翻訳するというか、変容させるプロセスです。 『エンデと語る』
法、規律、安全の三種からなる権力メカニズムの複合的な建造物は、次第に完成されていくというか、ともかくも複雑度を増していく。しかしその建造物の中で特に変わっていくのは何が主調となるかである。より正確に言えば、法、規律、安全、この三者間の相関システムが変わるのだ。-安全・領土・人口-
ある意味真実なのかなぁ、これ。信じられないんだが。戦争が始まったら、すべてダメになるだろうけど。 RT@ゲンダイネット gendai.net/articles/view/… …... fb.me/2tjIdyxma
風の中へ、身を切る風の中へ、/あなたは すべての優しいハーブを 引きさらう。/昼の甘い露を 踏みしだく……/誰の足音―嘆きの響きか。//ぼくの風に吹き散る手探りを運べ。(『黒い冠』)
留学生のおかげで運営できている大学(特に私大)はそうかもしれない。→「夜のバイトを斡旋…外国人女子留学生を“売る”オトナたち」”今や留学生が1~2割を占める私立大も珍しくない。定員割れの大学にとって留学生は上客。だから黙認なんだとか。”gendai.net/articles/view/…
いいなぁ!
もうオレには柔道で一本を取れるほどの体力は残されていないがねぇ・・およよ!
美しい武道、美しい精神でありたいものだと思うのだけれども。
柔道界の名誉挽回を願っています。
(^-^)/ fb.me/2kgvbc6bp
この二つの非現実(過去と未来)の交点が推定上の現実、つまり瞬間を生みます。瞬間とはなんでしょうか?それはどんどん小さくなって、最終的にナノ秒にまで縮小するため、完全に消え去ります。時間とはなんでしょうか?それは本来存在しません。それにもかかわらず、それは経験内容なのです。
〈試み〉(エッセー)こそは、哲学の生ける本体なのである。少なくとも今日なお哲学が、昔そうであったもの、即ち、思索における一種の〈禁欲苦行〉、一種の自己鍛錬である場合には。-快楽の活用-
■「あなたが生まれたとき周りの人は笑って、あなたが泣いたでしょう。だから、あなたが死ぬときはあなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい。」【作者不詳】
もう本なんかまっぴらです! 本とはいったい何でしょう! それはもっともらしく書かれた嘘っぱちですよ! 小説だってくだらないもので、暇人に読ませるために、くだらないことを書いたものです。 ―貧しい人々
キエフ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ-ペチェールシク大修道院【ウクライナ】【文化遺産】 pic.twitter.com/NWFTdn6tKI
さ、これからスポーツジムに行こうっと。それから学習塾のバイトがあるんです。今日は楽しみ。だって国語があるんだもんねぇ(^0^)。
今日は大学には行けなかったんです。急な来客があったのと、教えているほうの大学からの業務連絡があってあれこれやっているうちに2時に。県立図書館で打ち込み作業でした。おけげで101枚に到達。なにかと(*⌒▽⌒*)
E先生とのちょっとした会話
昨日、大学の図書館にずっといたので、そろそろ帰宅しなくちゃと院生室に向かってキャンパス内を歩いていた。学校の現役教師たちの教員免許更新講習が開催されていて、知っているヒトをちょっ...
曹洞宗の蚶満寺である。
ここもまた精霊達の住み処である。
芭蕉もお参りをしたとのことである。
周囲は松島と見間違おうばかりの美しい風景が広がる。
大地震で隆起した九十九島の周囲にできた土地を田畑にしようとした
地元の人びとと対立した当時の住職が、後世、幕府から自害させられた
という哀しい歴史を持っているのだ。
鳥海山の噴火と、大地震と、日本海の寂しげな佇まいは、なかなかいい。
我が人生もだんだんと終わりに近づきつつあるからだ。
人生の終わりを考える旅になっちまったよん。
マジに。
(>_<)ゞ
まだまだこの旅シリーズは連載します。
これから学校に行きますので。
しばらくおさらば。
松島と比較されるほどの象潟の風景であったが、
大地震で隆起した海岸が、芭蕉の時とは違っている。
この句もまた、死を見つめて旅した芭蕉の覚悟が
伝わってくる。
恨みを感じる象潟の九十九島ということをなにかで
読んだが、まさにぴたりである。
哀しみを持った句である。
松尾芭蕉が奥の細道最北の地として象潟を訪れたのは1689年8月1日、今から300年以上も前のことです。
芭蕉は雨にうたれるネムの花に、中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ、
「象潟や雨に西施がねぶの花」
(きさかたや あめにせいしが ねぶのはな)
と詠んでいます 。
秋田県のにかほ市象潟のホテルで入った露天風呂から
早朝、虹が屹立していた。
しかも海面からである。
これは、これは。
こういう人生を歩んでいきたいものである。
人生観が変わったですなぁ。
(^-^)/
農耕起源説をとっておられる。
水の精霊についてもふれている。
今回のメインである。
ここが見たかった。さらに、奥にいわゆる奥宮があるが、あと3時間は
かかる。断念した。個人で来るならいけるだろうが。
山の精霊たちは、しかし、厳しい自然を乗り越えて、このような異界の
地におはします。
このこと自体が尊いことでありまする。
心身共に清浄になりました。
大いなる喜びでもあります。
いろいろと老年期について考えることも多々あり、ある意味、若返って
帰って参りましたよん。
(^0^)