NHK大河ドラマ太平記を借りて
レンタルビデオからNHK大河ドラマ太平記を借りた。1991年の放映だったそうである。愚生は、そのころは教育実践で無我夢中であったから、大河ドラマを見ている時間がなかった...
NHK大河ドラマ太平記を借りて
レンタルビデオからNHK大河ドラマ太平記を借りた。1991年の放映だったそうである。愚生は、そのころは教育実践で無我夢中であったから、大河ドラマを見ている時間がなかった...
つながり
宮本常一先生のつながりで、網野善彦先生の著作集を読んでいる。今日は第8巻の「中世の民衆像」っていう本を、断片メモをとりながらである。部分コピーもしながらである。「つながり」とい...
横から目線で話そう、話すならば
聞き書きという民俗学の調査方法がある。懶惰なオレも時にやらせていただく。これは、方法論とか、テクニックという面からだけで把握していると失敗する。学術的に有効だからといったスタンスをとっていると、誰も語ってくれない。そんなのは、村の古老には関係がないからだ。むしろ、最も怖れるのは、この話を聞いてあんたのご出世になるのかぇ?という懐疑をもたれたらオシマイなのだ。誰も、他人の出世のために、協力しているのではないからだ。そんなのはバカバカしいかぎりである。当たり前である。オレだってやらない。
ましてや、古老(オレも古老の変種だけど)たちは、自分の家の都合のいいことしか話さない。弱点や、恥はゼッタイに話さない。
それでいいのである。それで。
聞く方の人柄で勝負すべきだろうと思っている。ま、こうやって書くとまるでオレの人柄がいいからだと云っているようだが、違う。戒めなのである。いい聞き役に徹しないと、ヒトは語ってくれない。メモをとってもならない。全部記憶するしかない。
ありがたい限りではないか。いろいろなことを知ることができる。お堂が、昔ここにあったんだよと云われて文献で確認できたことがこの夏あったけど、しかも写真付きで確認した時は、非常に嬉しかった。
そういう人間関係が基盤に無いと、他人は語ってくれない。
普段の他人との会話もそうだろう。
一方的に、オノレの実績とか、仕事でいかに優秀だとか、オノレは将来出世間違いの無いエリートだとか、自分で云っている輩が世間にはゴマンといる。馬鹿馬鹿しい。聞いているのも嫌になる。だから、聞かない。そんなくだらない話は。黙って去っていくのが一番いい。しかし、そういう輩は、黙って去っていくオレの背中に「Shane!Come Back!」って云うのだ。十中八九、そう云うのだ。自分の話だけを聞いてほしいってわけだ。自慢話を。
そんな暇は無いのだ。
駄文を私家版として出版したいし、原稿も書かなくちゃならん。着々と、退学にむけて努力しているので、怠けていられないのである。趣味で大学院に在籍させていただいているということは、そういうことだ。年齢の関係で、これ以上在籍校にはご迷惑をおかけすることもできない。さらに、才能も、能力もない。若さもない。いかなオレだって、それくらいのことは分かって生きているつもりだ。甘さはない。渋柿のような渋さしかない。無いと云えば髪の毛も無い(^0^)。しかも、カオは、しわだらけだ。じじいだものなぁ。わはははは。
ここんところ、いじけていたので、駄文を書かないで、あちこちと優れた本を見て、考え事をしていた。才能の無さに、能力の無さにいじけていたからである。そして、そこから脱出した。
オレはオレだということに気がついたからである。
?
なんだ、そんなことかと笑われるだろう。いいんである。それでいいんである。オレはオレなのだ。つまり、オレのやっていることは、仏教民俗学みたいなものであり、民俗芸能学みたいなものであり、それぞれ「みたいなもの」としか形容しようのないものなのだとよーく分かったからである。そして、それこそがオレの個性なんだと気がついたからである。
上から目線でぐちゃぐちゃ喋ったり、生きているのではない。さりとて下から目線でいじけて生きているわけでもない。
あくまで併走しているだけだ。横並び。昔から得意だった。併走。
特徴が無いと云えば云えるかもしれない。前に出ることなく、後からガーガー喚くこともない。個性が無いということであろう。
しかし、オレはそれでいいのだと思っている。
現役時代のことはまったく話さないし、そういう関係の方々ともめったに会わない。会っても過去の仕事のことは話さない。もう全部忘れたからだ。わははははははである。
オレが、オレがの世界からは卒業したのだ。
そんなことに関わっていたら、死ねない。妄執である。そんなもん、誰も覚えていねぇってもんだ。世間から忘れられていくのが、世間というものだ。こだわらんことだ。
こういうテンは女性に学ぶことである。女性は、あっけらかんとしている。昔のことなんぞ、すっかりワスレテたくましく生きている。でないと、辛いからである。具体的には何も書かないけど、そういうもんであろう。あ、オレの配偶者は違うけどね。10年前財布をワスレテきたことを、いまだに覚えているから(^0^)。
つまらないことばかり書いていないで、これくらいにしまひょ。
これから学校に行くので。学校でも、孤独じゃな。コ・ド・ク。あたりめぇだ。62歳だ。今更、オレの青春を取り戻したいって云っても、バカじゃねぇかと云われるだけだ。わははははなのだ。自嘲しているしかないのだ。
じゃあ!
社会有機体の生命を維持するために、われわれは皆で働いている。そのために皆が、健全な思考と感受性、健全な意志と欲求を働かせている。本能的にではあろうとも、社会有機体は人間有機体と同じように、三分節化されて機能しているのだ。-社会問題の核心-
もし人間が自分は孤独のなかで価値を設定するものであることをひとたび認めたならば、人間はもはやただ一つのことをしか意志することはできない。それはあらゆる価値の基礎としての自由である。-実存主義はヒューマニズムである
人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。
天職というのは、その職に就く前に意識するものではないだろうと思う。退職したから云うことができると感じている。
オレは、こういうくだらない高校時代を送ったからこそ、若い人にアドヴァイスを... goo.gl/pEsZ9y
問題は、偉大な経済理論家でさえお金の本質を見通していないということです。さもなければ、インフレーションも黒い金曜日も存在しなかったでしょう。私たちは、確かに私たち自身で作ったにもかかわらず、見通せない何か、私たちの介入を避ける何かと関わり合っています。 『Zeit-Zauber』
初めに言葉があった。言葉は神のもとにあった。言葉は一柱の神であった。言葉は最初に、神のもとにあった。そこで全てが発生した。言葉を通さずには、何も発生しなかった。言葉の中に命があった。そして命は人間の光であった。
生きながら埋葬された男は、墓堀人の注意を惹きつけねばならず、さもなければ死なねばならない。ところでまさしく彼は棺の中に入れられ、墓穴になげこまれたために、声を聞いてもらえるチャンスを何一つ持たないのだ。『家の馬鹿息子』
六、所謂「聖なる」歴史は、それに相応しき名称をもって、呪われし歴史として、呼ばれるべし。「神」「救世主」「救い主」「聖者」なる語は、罵詈讒謗の言葉に、犯罪者用の記章マークに、利用さるべし。-反キリスト-
大抵の人間は自分本位です。特に女性は、自分中心に地球が廻っていると思っていて、思い通りにならない現実に腹を立てて愚痴ばかり言うのです。思い当たることはありませんか。
☆ もうお昼か。時間のたつのは早いですなぁ。参った。ここんとこ、ちょっといじけていたが、駄文の構成を変更して、久しぶりにハイピッチで書けている。オレには、これが天職ですなぁ。ま、暇だから出来るのだけどねぇ。午後からは、図書館に行こう。借りた本を返さないと。(^-^)/
「汝ら、己を愛する者を愛するは、何の報いかあらん。税吏も、然せざらんや。安否を兄弟にのみ問ふは、人より何の過たる事かあらん。税吏も然せざらんや。」(マタイ5章46節)-「キリスト教的愛」の原理。結局は、しこたま支払ってもらいたいのだ。…-反キリスト-
もうすぐ学園祭の季節。実行委員はこういう企画はやめておきましょう(画像あり)。→「女子学生に牛乳をかけてなめる…学園祭でのイベントが問題に=韓国」japanese.joins.com/article/595/17…
僕は批評に限らず、すべてのものに対して懐疑的だが、自分の懐疑を楽しんだ事はない、楽しむ余裕なぞ持った事はない。僕は自分の精神の様々な可能性を出来るなら一つ残らず追求してみたいという不遜な希いにかられているだけだ。 (文学界の混乱)
生きているということは息を発していることだ。朗読とはイキることである。息ている声は生きている証拠になる。生命感は息の深さから感じられる。深い息による声は息息した声であり、生き生きした声である。ところが、世の中には息息した声が少ない。それどころか多くの人たちが息切れしているようだ。
Poverty is never felt so severely as by those who have seen better days. いわゆる栄華の夢を見た人ほど貧乏を痛感に感じる人はいない。
文化というのは、要するに需要がなくなれば滅びます。いろいろな伝統芸能も、公演をおこなっても観客が来なくなったら、それが消滅する時です。博物館も、見に来てくださるお客様がいらっしゃるから展示を開催できる。ですから、今後のためにも、ご来場になることで、支援していただきたいのです。
博物館の側に問題があったことは重々承知しております。「分かる人だけ来ればよい」という態度もあったので、責任は大きいのですが、近年かなり意識して反省・改善しておりまして、今回も、途中で力尽きた感はあるものの、いろいろな工夫を凝らしています。ご来場の上で、ご意見をいただきたいのです。
tmaita77.blogspot.jp/2013/09/blog-p…この記事で出した県別の大学進学率だけど,原資料(『学校基本調査』)にあたって追試をしてくださった方がおられる。学術研究が成り立つ条件の一つは「第三者による検証可能性」。データ公表の際は,可能な限りソースと手続きを明瞭に示す必要がある。
ひとつは・・・展示(10/8~12/1)を見に来てほしいのです。担当者や当館としてだけではなく、歴史博物館全体の問題として、古文書展は「絶滅危惧種」になりかけています。人気がないからと古文書展を開催できなくなった館も出始めていて、ここでこけたら「ほらやっぱり」となってしまいます。
結局今回の論文は、ある程度エディタで書いてからWordに移し、Wordの文末脚注機能を使っている。セクション区切りを使えば章末脚注になる。食わず嫌いだったが案外使える。
学術発表決定
12月8日(土)に龍谷大学大宮キャンパスで10:00から20:30まで、日本仏教心理学会が開催されます。愚生の「中世日本農民芸能源流考私論 宿神論の視点から」を、学術発表するよ...
柔道と両立するのか
柔道をやっている。これが、研究生活の邪魔をしているのかもしれないという危惧はずっとあったのだけど。正直、師匠にもそのことについて、申し上げたことがある。研究生活というに...
天職は何か、考えてはいけない
悩むよりやる、向いてないと分かったら、他に移れば良い。良くないのは、立ち止ること。「何を仕事にするべきか。そう悩んでいる人は、ぜひ、可能性を潰すことから始めてみてください。続けていれば見つかるもの。」/天職は何か、考えてはいけない toyokeizai.net/articles/-/201…
昨日のTwitterにあったので、リツイートもさせていただいたし、東洋経済のHPも見た。ためにはなった。というのは、オレはもう退職しているから、天職はなにかと悩む必要は無いからである。
問題は、これからの方々である。これまでも相談を受けることもあったし、なにしろ現役の教師時代は相当数相談を受けた。だから、若い人でこの問題で悩んでいるヒトを見ると、かわいそうになるのだ。基本的に、自分はともかく、ヒトのことを放っておけない性分なのだ。
「何を仕事にするべきか。そう悩んでいる人は、ぜひ、可能性を潰すことから始めてみてください。続けていれば見つかるもの。」
これである。これ。自己分析をして、可能性をひとつひとつ潰してみて、それからである。例えば、と~ま君は、天職をイケメン俳優に設定したとしても、できない。悪い冗談にしかならない。しまいには、「おめぇあふぉ~か!」とののしられる。わははははである。
数学者になりたいと云っても相手にされない。高校入試程度なら教えることはできるが、理工系の大学入試となるともう無理だ。
英語もそう。高校入試程度しかできない。話せない。
柔道の名人にもなれない。30歳で四段をやっとこすっとこ取って、以来ずっと昇段していない。高校の柔道部の顧問としては、生徒相手に稽古してきたが、これも44歳で教育委員会に勤務してから断念した。幕張まで遠距離通勤していたから、稽古に行く時間がない。
金持ちになるというのは、一番ダメだ。なにしろ一介の田舎教師である。所詮、収入面ではたかが知れている。だから、高級車には乗れない、乗らない。カネが無いのだから。
こうやって潰していくのだ。
何ができるか、できそうか。
そういうことである。
そして、それに賭けてみるのだ。一番性分に合っているものがあるかもしれないではないか。
決めたら、ブレナイことである。ふらふらしているのが良くない。あっちの可能性もあったのではないか、こっちもできたのではないか、それとも、本当はオレ、イケメン俳優になれたのではないかと思い悩まないことである。ここだけは、後退しないことだ。曲げないことだ。
さらに云いたい。
自分のやりたいことを他人に決めてもらわないことだ。自分のやりたいことは、自分で決めるしかない。
だから考えることだ。そもそもやりたいことが無いという若い人もいるのは知っている。なにをしたらよいのかということで、なんのプランも無いというヒトである。
そういうヒトは、自分のやりたいことはなにか?そもそも生きがいとはなにか?ということを考えることを生涯の課題としてもいいと、オレは思っている。つまり、哲学をおやりになるといい。そういう学問をやらせていただくのだ。大学の哲学科で。オレなら、そういう道を歩んだかもしれない。
なにを隠そう、オレも自分のやりたいことが無かったからである。
わはははははははである。
ここまで書いてきて、おめぇ~さん、ヒトのことを云えるのか?って叱られそうだが。事実である。確実にオレには、すくなくとも高校生の時には、やりたいことは無かった。教師にはなったが、天職として意識していたのではない。
生意気な高校生だったが、虚無主義とマジに闘っていたのである。バカな高校時代を送ってしまったものである。この世の中は虚無である、無である、経済なんて、法律なんて、その他あらゆる学問も、なんでもかんでも意味が無いという実にふざけた高校生だった。(今は、違うよん)だから、受験勉強はまったくしていなかった。そもそも大学なんて行く気がなかったのだ。同級生がバカに見えていたし。99%4年制大学に行くような進学校に進んだのが、間違いのもとだったのかもしれなかった。
ある意味、心底バカであった。今でもバカだけど。(>_<)ゞ
天職というのは、その職に就く前に意識するものではないだろうと思う。退職したから云うことができると感じている。
オレは、こういうくだらない高校時代を送ったからこそ、若い人にアドヴァイスをすることができたからである。虚無主義だの、なんだかんだのと云って気取っていた青春時代が、逆にオレに天職をもたらしたのだった。ありがたいことである。
「悩むより、やる」
「向いていないとわかったら、他に移ればいい」
Twitterのこの書き込みは、いろいろ考えさせてくださいます。
朝から無いアタマをひねってしまいましたよん。
では!
(^_-)-☆
生涯学習をやって何が悪いのかね。欲得関係なしに趣味で大学院に通学していて、それって良くないのかねぇと思うのだが。若くてかっこうよくて元気のいい男子学生、きれいでかわゆい女子学生たちと一緒にキャ... goo.gl/FsKaqN
悩むよりやる、向いてないと分かったら、他に移れば良い。良くないのは、立ち止ること。「何を仕事にするべきか。そう悩んでいる人は、ぜひ、可能性を潰すことから始めてみてください。続けていれば見つかるもの。」/天職は何か、考えてはいけない toyokeizai.net/articles/-/201…
図書館に行かなかった。ある意味、カルチャーショックを受けていて、オレのやっていることは、仏教系の民俗学に近いと気がついたからで。。なかなか困難ではある。
仏教民俗学の全集をPDFにしているのだが。むむむぅ。この先何年かかるやら、こんな案配では。ああああ、若さが欲しい。マジに。
老婆の話から いい話
「見知らぬ在所へ嫁に行く」なる短文を読んで感心した。宮本常一先生の著作集30巻「民俗のふるさと」のp.135である。結婚のしかたであった。愛知県の山中である。場所も特定...
素敵な「終末」論?
良い朝である。4:00には起きてしまった。早く寝たので早く目が覚めたというだけである。それだけの話だ。だんだんだんだんじーさまらしいライフスタイルになってきている。ま、健康にはいいなぁと思っている。
NHKの女子アナが、夕方の番組で「素敵な週末をお過ごしください」とかそれこそ毎週云うのだが、あれはいかがなものか。美人の女子アナだから、それこそ素敵な週末がたくさんおありになるのだろう。ふん!いい加減にしてほしい。オレのように、素敵で無い週末をお過ごししているじじいだっていくらでもいるのだ。しかも、「shuumatu」と入力したら、ナント「終末」と一回目は変換されたではないか。オイオイ!Wordちゃんよ、いい加減にしろよと5:18文句を言っていたところである。あははははははははははは。Computerにすらバカにされちょるよ、ああバカバカしい。
「素敵な終末」じゃぁなくて「素敵な週末」というのは、危険な匂いがする。オレのようにひねくれたじじいは、そこに隠微なものを感じるのだ。ま、やりたけりゃおやりなさいよんと思っているのだけれど。ただし、危険な目に遭わないように祈っているのだ。なんだか、いろいろ事件が多いから。アブナイ社会になってきたねぇ、まったく。
オレも妙に若い気持ちでいるから、(事実はまったく逆だ)どっかで、屈強な若者に投げ飛ばされるのではないかと、びくびくしながら生きている。クワバラ、クワバラである。もっとも、こちらは受け身ができる。投げられても大丈夫だ。されど、用心にこしたことはない。つまり、オレは習性として、誰とでもクチがきける。会話をするというか、対話主義というか、ようするにクチ先だけで生きてきたようなもので、かのソクラテス先生ではないが、こういうのはどっかで恨みを買っている場合が多いからだ。自分が気がついていないっていうだけで、存在そのものが邪魔だというケースである。
大学院に在籍しているのだって、資格取得をしてナニカになろうって思っているのだと、未だに噂されているのだそうな。しかも、会ったことも無いヒトが云うのだそうだ。へ?と笑っちまうのだ。会ったことも無いヒトがなんでそんなことを云うのかねと思う。オレはそんなにキタナイと思われているのかね。もっとも、こっちは知らないケド、あっちは知っているってケースがけっこうあって、うっかり町を汚ぇ格好で歩けねぇと思っているのだが。いつも配偶者には文句を言われてしまうから。どこへでもジャージで出かけるので。ほら、オレはハナも恥じらう大学生様であるからして。わはははは。
生涯学習をやって何が悪いのかね。欲得関係なしに趣味で大学院に通学していて、それって良くないのかねぇと思うのだが。若くてかっこうよくて元気のいい男子学生、きれいでかわゆい女子学生たちと一緒にキャンパスライフを楽しんでいるだけなんだが。あ、あれか。趣味で勉強しているというのが許されないのかなぁ。だったらよくわかる。
であるからして、オレは若い方々の進路の邪魔はしないって、宣言してあるのだ。これから大学のセンセになりたいと頑張っている方々を応援させていただいているからである。
こういうのを「素敵なshuumatu」つまり「終末論」と云うのだと思っているのだ。まったく。しょうもないことばかり書いているけど。
昨日は、隠棲室(院生室)を出たら外は暗くなっていた。そしたら、リクルートスーツを着て、ビジネスバッグを持ったおそらく学部の3年生だと思うが、一団となって歩いていた。就職セミナーの受講生たちであろう。真剣だなぁ、いいもんだなぁと思って、しばし立ち止まって見ていた。
これからの日本や世界を背負っていく若者達である。もう社会的には葬り去られたオレには、まぶしい光景だった。もっとも、暗くなっていたので、光はない。まぶしいという表現はあたらない。それでも、オレにはまぶしかった。もう、オレには無い世界である。頑張ってねぇと応援していた。
公務員採用試験とか、特に教員採用試験のアドヴァイスなら、こんなオレでもナンボでもできる。機会があったらやってみたいが、そんなオファーはいっさいない。あ、学生ではないほうの大学ではやらせていただいているけど(@^▽^@)。
そういえば、学生ではないほうの大学で教員名簿を見ていたら、オレの本名をハッケンしたというTwitterの書き込みがあって、「もしかして、あのと~ま君(この部分呼び捨て)かなぁ?」とか書かれていた。どうも最後に退職した高校の卒業生であるらしい。間違いないと思うのだが。ご縁は切れませんなぁ。是非、オレの授業を受けてほしいと思ったのだった。
まぁ、細々と生きていくしかないようです。
こんなオレでも、必要としてくださる方がおられるかぎりは、どっかで生きていくしかないようです。
お互い爽やかに生きてまいりませふ。
素敵な「終末」を抱えていてもです。
(^_-)-☆
おはようございます。良いお天気ですねぇ。ルンルンと学校に出かけます。あ、生徒をさせていただいておる方です。いつも間違ってしまいますが。今日も楽しみ、楽しみです。
駄文の改訂作業があるし、読むべき本がまたまた拡大しました。これだもん、生涯学習は止められません。自己責任だし、その分フリーだし。割り切って失敗覚悟でいろいろ発表できたし。チャレンジ、チャレンジです。
どーせオレなんか、成果不要、問答無用の、無用の介。あ、無用の介って、マンガにあったような気がするが。こんな無用の人間でも、世間のお役にたっているのかもしれませんからねぇ。
塾で、高校3年男子の小説を読ませていただいのです。たまげた。こんな才能が眠っているのだと思いました。凄い!入学願書と一緒に提出するのだそうですが、良い大学ですなぁ。頑張れ!若人!
ふむ、来年、オレもどっか受験しようかなぁ。大学学部か、大学院か。夏だな、勝負は。母校の中央仏教学院を考えているんだが、所属寺院の推薦がいるので困っているんです。だって、オレ、どこにも所属していないので。
その前にあれか・・試験に受からないと。もう資格取得のための学校は無用の介なので。マジに。・・馬鹿なこと考えてないで、さ、学校じゃ、学校じゃ。
ま、それもこれも、健康な家族に恵まれているからですなぁ。カネはねぇけど、健康だけはあるんですよ。これが一番ありがてぇですな。それに孫も、健康だし... blog.goo.ne.jp/tym943/e/1cf0a…
スポーツジムから帰ってきて、旨い日本酒をちょとだけやった。昨日は塾があったから呑めなかったのだ。ジムには温泉もあるから、そのアトの酒は実にうまい。そして、このまま寝ることにした。ふふふ。
明日の朝、早く起きて、駄文書きをするつもりである。方向性は定まった。間違いはないだろう。コンテンツを書きためるつもりである。
来月から、師匠の平家物語講座と留学生の中国語講座が始まる。授業以外の講座だ。そしてはたと気がついた。これって、オレが在籍校を退学しても、できるってことに。
ありがたいよねぇ。自宅から近いし。タノシミができましたな。まったく。看護学部もあるから、病気になっても大丈夫だ。わははははは。
今日のお題は、「オレもようやるわ」である。あははははである。今日は、午前中に師匠のゼミを受けさせていただいていた。感謝である。このような懶惰なじじいを、手取足取りご指導いだたいている。本当に感謝である。だいたいにおいて、生涯学習だ?とかいって毛嫌いされないのが、在籍校のすばらしさである。最近のマスコミでも、オレのような中高年の勉強好きはたくさんいることが紹介される。それを、本当は、迷惑がっている大学だってあるはずだ。でも、在籍校は違う。これがありがたいのだ。
その証拠に、N駅前に、在籍校のインフォメーションセンターがあるのだが、そこで中国語講座をやっていただくことになった。半年で、3000円である。講師は、中国からの留学生諸君である。ありがたいではないか。本場の中国語を聞くことができる。
その話を今朝聞いたので、速攻で申し込んだ。
さらに、社会人対象の「平家物語講座」をやってくださる。こちらは我が師匠が講師である。ありがたいものである。師匠は、中世文学においては日本を代表するような碩学である。著書もかなり多い。可能な限りAmazonとかを使って蒐集したが、まだ其の全貌を把握していないのだ。しかも、今日は御著書にないことをいろいろとお聞きした。直接ご指導をいただいていないと、これはできない、聞けない話ばかりである。
本当に、オレは幸せなじじいでござーますよん。
ま、それもこれも、健康な家族に恵まれているからですなぁ。カネはねぇけど、健康だけはあるんですよ。これが一番ありがてぇですな。それに孫も、健康だし。あ、来月、オレの家に来るのだ。また来るのだ。楽しみじゃな。どんな悪さをしてくれるのか、楽しみだ。こないだ、来たときは、障子を破いて帰っていったっけ。もう修繕してあるけど、またやるんだろうなぁ。わはははははは。もう十分対応策は練ってある。ハートマークの、あるいはアンパンマンマークの、障子破れ対応ワッペンを作ってある。オレだって、ガキのころは大いにやったのだ。しかも、オレは指を一回なめなめしてから、思い切り障子紙を突っついたのだ。程度が悪いですな。
孫はそこまでではない。でも、これからどうなるかわかんねぇけど。オレのように、ならないことを願うばかりである。
まともな大人になれよ!って願っている。それだけだけど。おめーさんのじじいのように、還暦過ぎて、大学いっちまぇなんて馬鹿なことを考えちゃいけねぇよって云いたいのだけど。当事者のオレが云っても無駄か。
10月はちょっと海外旅行に行ってくる。欧州に行こうと思ったが、人数が集まらなくて中止になった。仕方がないから、アジアにした。海外旅行なんてどこにも行ったことがないので、ツアーしか手段がない。英語も中国語も話せないし、日本語だって怪しいもんだ。今のうちに、どんどん行ってこようと思っている。10月はふるさとにもまた行ってくる。山形県出身と云っても、庄内地方のことをまったく知らないからだ。藤沢周平の記念館にも行ってみたい。さらに山奥の秘境・秘湯にも行きたい。こちらは、オレの愛車である。
愛車もかなり酷使しているなぁ。かわいそうになる。
オレと一緒だ。
あ、それを云うと愛車が文句を云ってくるな。
おめぇのようなじじいと一緒にしねぇでくれって。
わははははははははははは。
今日は、夜まで院生室でお勉強だわい。
じじいの一踏ん張りだ。
(^_-)-☆
ディオゲネスは「おおい、人間どもよ!」と呼びかけた。人々が集まってくると、彼は「ワシが呼んだのは人間であってガラクタなんぞではない!」と、人々を杖で追い払った。ow.ly/6VlON ow.ly/6Vn7I
私たちの生きているこの世で起きることにはすべて原因がある、これが「因」(いん)です。起こった結果が「果」(か)です。因果応報というように、必ず結果は来るのです 。
風立ちぬどころの騒ぎでは無い。これじゃぁ、体重の軽いオレなんか、吹き飛ばされてしまう。それでなくてもオレの大学には、若い屈強な男たちが、たくさんいる。吹っ飛ばされてしまう。まだ死にたくないから今日は家にいる。
居住地の大図書館で、駄文の見直し作業をする。第一章で、先行研究と、なぜ鬼来迎なのか、横芝光町の地域について記述するつもりで・・っす。夜は、塾でかわいいおのこ共と勉強じゃ。30点から80点にアップしたって喜んでいるチューボーがいるから。
 木曜日は、基本的に在籍校には行かないことにしているから、お昼はイタリアンを食べに行こうとなった。九十九里海岸にあるおいしいイタリアン... blog.goo.ne.jp/tym943/e/48cc0…
Facebookのアルバム「今日の昼食はイタリアン」に写真を4枚アップロードしました fb.me/23oJuAoG5
と昔の人も思ったことだろう。 RT @kenjiitojp: 頭の中で考えて言えるようなことは大抵昔の人がすでに言っていると思うのだが、昔の人が知り得なかった事例は山ほどあるので、それに基づけば今の人でも何か新しいことが言えるかもしれない。
意外なことに、文書を書くときに机は使わないのです。フロイスが「(手紙を)日本人は左手の指の上で書く」と言ったように、紙を丸めて持って書きます。机を使うのは、写経のような、楷書の文字を書く時に限られるようで、行書というのは、つまりこんな風に紙を手に持って書く時の文字だと分かります。
Blueな日が簡単に解決
九十九里町のイタリアンレストラン「オリゾンテ」
片貝にあります。
今日の昼食をここで、配偶者とともに。
昨日はちょっと駄文のことでBlueになっていたが、解決した。なんとまぁシンプルなアタマじゃ。こんなに簡単に悩んだり、解決したりしていいのかね。しかも午前中である。本当に単純明快である。だから生きてこられたのだなぁとシミジミ思った。
居住地の図書館で\(^^@)/していたのだ。隣近所の方々にご迷惑をおかけした。申し訳ありません。
内容は、先行研究に言及すること、地域性に言及すること、なぜこの農民仏教劇なのかということ等々を書けばいいのだ。章を再構成して、あとはひたすら書くしかない。
さらに分量が増えてしまう。こちらの方が心配になってきたが、やるだけやるしかないのだ。いいのだ、いいのだ。所詮素人である。研究者とか、学者になれるわけもないのだから。能力も、年齢もね。
木曜日は、基本的に在籍校には行かないことにしているから、お昼はイタリアンを食べに行こうとなった。九十九里海岸にあるおいしいイタリアン・レストランである。カメラをワスレテ行ったので、様子は携帯のフォトをちょっとである。申し訳ないっすね。
今日は謝罪のオンパレードですな。わはははは。
それより配偶者と一緒に行ったのだけれども、こういうところに一人じゃこれないでしょう?と云われて、反逆した。大丈夫、大丈夫ってね。できれば、テレサテンのようなヒトと来て愛人でも歌いたいとか、馬鹿な話ばかりしていた。
食い方がキタナイと云われた。ピザの食い方がである。むむむ、オレはいつもこうだ。基本的に卑しいのである。食い方がである。しかし、ここの店は本格的である。なかなかのものがある。また運転はオレで、支払いは配偶者なら、行きたい。ふふふ。
店の中は、女性客がたくさんいる。
オレの隣に、同年配とおぼしきご夫婦がおられた。ぼそぼそと話をしておられる。どうやら県庁マンだったらしいのだ。話が聞こえてくるので。ちなみに、こういうレストランとか、電車の中での他者の会話って、実に勉強になる。人間観察にはもってこいである。ビートたけし師匠も、得意だったのだ。ネタにもなるし。右隣には、ちょっと危ない匂いのする30代の男女がいた。オレも、こういふ危ない関係というのに憧れるねぇ、わはははは。相手がいないけど。
ま、どうでもいいですけどね。(でもこういうところで大事な会話を聞こえるようにはしないほうが、エエですぜ)
オレのように馬鹿な話ばかりしていると、人生退屈しないだけで、アトはなんにも残らんからなぁ。放屁みたいなものだ。最初だけ良い香りがして、あとは消え去るのみ。
帰ってきて、数学の問題をちょっと解いた。今年の茨城県の高校入試の問題である。円周角の問題。角度を出すやつ。今年の問題で、大問3の(2)である。東京新聞に出ているので、見たい方はどうぞ。「茨城県高校入試問題数学」とやるとヒットするから。ここ二日ばかり問題を見て、考えていたのだ。解けなかったからである。恥ずかしいけど。
じっと眺めていたら、あ、そういうことかと気がついた。解けた。
だから、また図書館に行く。
貸出を希望していた図書がきたとのメールをいただいていたからである。夕方、5時くらいまで行ってきます。
今日は塾のヨルバイトもあるので。あまり図書館で駄文書きをしているわけにもいきませんので。
じゃぁ~~~~~。
サヨナラ!